少年期を高遠で過ごした名君の銅像です
保科正之と聞けば、会津藩を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。正之は二代将軍・徳川秀忠のいわば「隠し子」として生まれ、保科氏の養子となり、多感な少年期を高遠で過ごしました。
<保科正之とお静>
左の女性は保科正之の生みの親であるお静です。地蔵が3体並んでいますが、これはお静(浄光院)が正之の幸せを願って江戸の寺に寄進した石仏と同じ形のものとのことです。
秀忠の正室はあの有名なお江ですね。その嫉妬を恐れ、お静は実家、そして武田信玄の娘である見性院・信松尼の支援を受け、無事に正之(幼名は幸松)を出産しました。
正之が7歳の時に、見性院の世話で保科家の養子となります。保科家は武田の旧臣。武田家滅亡後は徳川家に仕えて、高遠藩主となりました。実母が見守るなか、正之は高遠で育ちました。
<参考>
高遠城の南曲輪跡に設置されている説明板です。本丸の南に位置する曲輪です。やがて藩主となる保科正之が、幼少のころ母と居住したところと言われています。
江戸から遠ざかっていた正之ですが、のちに秀忠の実子、そして三代将軍・家光の実弟として認められます。正之は兄・家光に対して、あくまで家臣という立場を貫き、この謙虚さが家光に好かれ側近に取り立てられました。高遠藩主、山形藩主を経て、会津の初代藩主となりますが、その一方で、将軍家を支える役割も担っています。
幕府の中枢となった保科正之の活躍を列挙したらきりがありませんが、個人的に印象に残っているのは、1657年3月2日の明暦の大火への対応です。
時の将軍は第4代の家綱でした。しかし17歳とまだ若く、将軍の指南役である保科正之が、実質的に復興の指揮をとりました。明暦の大火は江戸城天守のみならず、城下町の大半を焼いたといわれる大災害です。これに対し正之は、天守再建より民の暮らしを優先させることを決断します。威厳を必要とする将軍家、そしてそれに服従の姿勢を示そうとする大名たち、その微妙な雰囲気の中で、正論を堂々と唱えられたのは、保科正之だけだったのではないでしょうか。江戸城に天守が無いことは、保科正之の民を思う気持ちの現れだと私個人は思っています。
最後に
保科正之は会津藩松平家の祖とされる人物ですが、正之本人は松平を名乗っていません。自身を育てた保科家の名を、変えることはありませんでした。松平への改名は、正之が亡くなったあとの話です。
■訪問:保科正之像
(お静の方・保科正之像)
[長野県伊那市高遠町東高遠]
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■参考
・現地説明文(石碑)
・伊那谷ねっとニュース2009/4/5
(保科正之公像完成)
https://ina-dani.net/topics/detail/?id=23690
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