新井白石ゆかりの堀跡を訪ねました。
<白石様堀>はくせきさまぼり
■ 現地訪問 ■
この日の探索のスタートはJR新白岡駅
<新白岡駅西口>
駅の東側はニュータウンとなっています。今回の目的地は西側です。
<白石様堀公園>はくせきさまぼりこうえん
[白岡市新白岡]7丁目
駅近くの白石様堀公園。新田開発を行った新井白石の功績をたたえて名付けられました。目的地はまだ先ですが、実は白石様堀跡は既にここから始まっています。
<公園内説明板>
『新井白石と野牛』と題した説明板です。江戸時代に野牛村と呼ばれたこの付近が、1709年から新井白石の領地となったこと、そして明治まで新井家代々が知行したことが記されています。
ちょっと長いので、新井白石の幕府での活躍などは省略させて頂きます。説明文の後半を転記させて頂くと『低湿地であった野牛の田んぼに排水路として、「殿様堀」「白石様堀」と呼ばれる一条の堀を設け、良田に改良するとともに、領民のために飢饉などの備えとして郷蔵を設けた。』とあります。儒学者として名高い白石ですが、領民にとって良き殿様であったことがうかがえますね。文中の郷倉(ごうくら)とは、村や集落といった共同体で管理する米の貯蔵庫のことです。
<説明板の航空写真>
航空写真に白石様堀跡が記されています。とても分かりやすい。これを見ると、堀跡が公園を斜めに横切っていることが分かります。右側(東側)は線路の向こう側に至っています。暗渠と表示されていますので、地下に埋設された状態。直接見ることは叶いません。
見えなくても感じることはできる。
西側を探索する前に、一応線路の向こう側を先に見ておくことにしました。
<線路の東側>
白石様堀公園のすぐ近くに踏切がありますので、すぐに到着。画像の右側、奥が自転車置き場として利用されているところが、白石様堀の暗渠です。
暗渠は水路ですから、下は空洞になっています。道路のように、重量のある自動車に耐えられる構造ではありません。こういった理由から立入禁止になっている場合もありますが、歩道や自転車置き場として利用される場合も多いです。ここは暗渠の有効活用の典型といえる場所ですね。
さてさて
もう一度公園に戻って、白石様堀の跡を追いかけることにします。
<堀跡の公園>
先述の通り、この敷地の一部もかつての白石様堀です。ただ、ここまで綺麗に整備されていると、どこが堀跡なのか分かりません。
分かりやすい暗渠を辿りたいと思います。
<堀跡の暗渠>
歩道が堀跡。分かりやすいですね。ここをひたすら西へ向かいます
<堀跡の暗渠>
気付かなければただの歩道ですが、地下は水路です。
<庚申塔>こうしんとう
進行方向左手の分かれ道に庚申塔。青面金剛立像が見えます。ということは、この脇道は古くからある道なのでしょう。歩道はもともと堀だったわけですから、昔はここに橋が架かっていたのかもしれませんね?(想像です)
<暗渠沿いに神社>
進行方向右手(北側)に神社が見えました。説明板の航空写真にもあった久伊豆神社。地元の歴史と関係が深いはず。立ち寄ることにしました。
<野牛久伊豆神社>
久伊豆神社は埼玉県内の特に荒川流域に多く分布する神社です。野牛久伊豆神社の創建は不詳のようですが、村の鎮守として祀ったものと考えられています。
<境内>
朝鮮通信使奉納扁額?お隣の説明板によれば、社殿正面に掲げられた篇額が、朝鮮通信使の李礥(り・ひょん)が新井白石のために書いたものであるとのこと。
<朝鮮通信使奉納扁額>へんがく
久伊豆社の文字。白石が奉納したこの扁額と下書きは、白岡市指定文化財に指定されているとのこと。これも白石がこの付近を領していたなごりと言えますね。
<御嶽神社>みたけじんじゃ
境内はこちらの御嶽神社ほか多数
さて
再び堀跡の暗渠を進みます
<暗渠の終着点>
どうやら暗渠はこの付近までのようです
<暗渠の出口>
地下の水路はここで終わり。水面が見えていますね。ここからは開渠です
<堀跡の開渠>
堀らしくなってきました
<この日のゴール>
急に視界が開けました。ここがこの日の探索のゴールです。説明板が設置されています。
<説明板>
新井白石が領有した野牛村は低湿地でしばしば洪水にあい、排水が悪く良好な農地ではなかった。しかし白石が測渠を堀って排水を良くしたことで、農地は良田となり、収穫量も増えた。ちょっと要約させて頂きましたが、そう記載されています。また、開削当時と比べると、流路も含め姿は変わってしまったものの、今も排水路としての役割を果たしていると記されています。つまり、現在の排水路そのものが、白石様堀のなごりということですね。
<郷倉跡>ごうくら
こちらは説明板からすぐ近くの郷倉跡。白石が領民のために設けた郷倉のなごりです。
儒学者である白石は、第6代将軍の徳川家宣のもとで「正徳の治」を行なった政治家でもあります。いわば幕府の中枢にまでなった人物。その一方で、領民の期待に応える顔も持ち合わせていました。白石は若い頃の浪人生活で貧困を経験し、庶民との接点も多かったようです。領民の暮らしを思う気持ちの土壌は、その時に培われたものなのかもしれませんね。
白石は政治の世界では失脚してしまいますが、野牛村の豊かさを願って造った堀は残り続けました。白岡市となったいまも、地元ゆかりの偉人として語り継がれています。
<白石様堀のなごり>
堀の呼び名に「様」がつくのですから、よほど感謝されたのでしょう。
会社員の拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:白石様堀
[埼玉県白岡市野牛]1000
---------■ 参考画像 ■---------
<新井白石像>
[君津市久留里字内山]
千葉県の久留里城跡で撮影しました。現在の白岡市の領主となった新井白石は、君津市の生まれです。白石の父は久留里藩の藩士でした。藩主に才覚を認められた白石は、青年期を久留里の地で過ごしました。
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■参考及び出典
・現地説明板(白岡市教育委員会)
・久伊豆神社説明板( 〃委員会)
・白石様堀公園説明板
・Wikipedia:2024/2/25
・白岡市観光協会HP
名所案内 › 白石様堀
http://www.shiraoka-kanko.info/hakusekibori.html
2024年02月27日
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