今回は街道探索の途中で出会った橋のなごりの話です。
<石橋の石材>
日光御成道の宿場として賑わった鳩ヶ谷で撮影しました。
<千住道>
最初はこの「千住道」の案内板が目に入り足を止めました。右手は千住方面へつながる古道です。しかしよく見ると、その下に細長い石材が横たわっているではないですか
なんだろう?
ちゃんと説明板が設置されていました。
<説明板>
ちょっと若干色あせていますが、読むのに難はありません。せっかくですので、川口市教員委員会さんの原文の前半部分をそのまま下記に抜粋させて頂きます。
『昭和五十三年三月四日に見沼代用水の分流である平柳領用水掘の蓋掛け工事の際に、この場所で大きな石材五本が発見されました。その一本の側面に、次の文字が刻まれています。
丁延寶五年
武州下足立郡鳩ヶ谷町 とんぼ橋
巳三月吉日
この刻印の延宝五年(一六七七)は見沼代用水完成の五十一年前で、すでに開削され流れていた用水(平柳領用水の前身)に架けられていた石橋だということがわかりました。』
(以下省略)
とんぼ橋という名の石橋がここに架かっていたようです。見沼代用水とは、この近くを流れる用水路です。
<見沼代用水>みぬまだいようすい
こちらになります。現在の埼玉県行田市で利根川の水を引き込み、各地の水田を潤してきた用水路です。始まりは江戸時代中期、将軍が徳川吉宗の時代です。幕府の役人・井沢弥惣兵衛為永の指揮のもと掘削されました。
では平柳領用水とは?
見沼代用水からの分水路です。この地が当時平柳領と呼ばれていたことから、その名がついたのでしょう。現地説明文では『平柳領用水』ですが、一般的に平柳用水と呼ばれています。
<吹上橋>ふきあげばし
見沼代用水に架かる吹上橋。平柳用水はこの橋のたもとから分流して、街道の東側に沿って流れ、先々で更に枝分かれしながら周辺の村に水を供給していたようです。
<街道>
街道の東側というとこの画像だと右手側になります。ちょっと現地では実感がわきませんでしたが、今も歩道の下には水の流れがあるようです。いわゆる暗渠ですね。
暗渠?
はい。この見慣れない文字は「あんきょ」と読みます。地下に埋設された川や水路とご理解下さい。見慣れてくると、水路に蓋をしただけの暗渠は外見でわかります。ただ、あまりに綺麗に舗装されると、暗渠の上級者でないと見分けがつきません。
<説明板拡大>
先ほどの説明板を拡大しました。この地図だと日光御成道の沿いに水路が設けられていて、そこを渡って千住道に入るところに橋が架けられていたように見えます。
<歩道>
現在は水の流れは見えません。暗渠下級レベルの私には正確な位置がわかりませんが、この辺りの歩道も平柳用水の暗渠なのかもしれません。
<とんぼ橋のなごり>
まぁ橋があったのですから、そこは水の流れる場所だったのでしょう
最後に
水の流れの様子がわかる昔の写真をご紹介します
<説明板>
こちらに設置されている説明板の写真です
<説明板の写真>
明治26年頃に吹上橋から街道を撮影した写真とのこと。左手(東側)は水路となっていますね。今では暗渠化され街の景色にその姿はありませんが、こうして人の暮らしのすぐそばにある様子がいいですね。
ということで
橋の痕跡と出会い、水路のなごりを感じたというお話でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:とんぼ橋の石材
[埼玉県川口市坂下町]3-1-16
■参考及び抜粋
・Wikipedia:2022/4/29
・現地説明板
(川口市教育委員会)
お城巡りランキング
2022年04月29日
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