これは城の抜け道か?
ちょっと期待しましたが違いました。設置されている説明板によれば、これは水路の跡だそうです。説明文を下記に転記させて頂きます(『』内は原文のまま)。
『城下町大多喜は、昔から良い飲み水に恵まれず、人々の苦労は絶えませんでした。最後の城主である松平(大河内)正質の頃ようやく水道の工事が具体化し、明治二年(1869)十一月に工事を始め、翌明治三年五月に完成しました。この水道によって、城下二百戸が潤い、三十ヘクタールの水田の灌漑が行われました。』
大多喜の地図を見ると、大多喜城の天然堀として機能した夷隅川(いすみがわ)がひときわ目を引きます。ただ、かなり谷は深かったらしいので、高低差の関係で、水を引き込めるエリアは限られていたのかもしれませんね(あくまで個人の感覚です)。
最後の城主として紹介されている松平正質(まさただ)は、大多喜藩の第9代藩主にして幕府の中核メンバーです。敗れたとはいえ、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を総督として指揮した人物です。新政府軍からみれば敵の大物ということになりますが、その後の立ち振る舞いで何とか許され、大多喜藩知事となっています。大多喜水道の完成は明治になってからですが、松平正質(大河内に改名)が引き続き大多喜を統治している間に完成しているわけですね。
説明板によれば、水源はここから西へ約2qとのこと。そして、全長約5.8qの水路のうち、約4qはトンネルとのこと。当時としては大変な工事です。説明板には、責任者として小高半左衛門、工事を請け負ったと思われる三上七五郎・高橋四郎左衛門の名が記されています。小高半左衛門は豪商で地元の大地主のようです。
同行した友人を撮影しました。大人が通り抜けるのはちょっと厳しいです。
でも奥に明かりが見えています。
城下に水の恵みを与え続けた水路のなごりです。
■訪問:大多喜水道跡
(大多喜城跡の登り坂)
[千葉県大多喜町大多喜]481
■参考及び出典
現地説明板
お城巡りランキング
タグ:千葉