日比谷濠から和田倉濠を散策する途中で、いままで気づかなかった説明板に足がとなりました。
<説明板>
馬場先門?
城跡ブログをやっているのにお恥ずかしい話ですが、こんな場所に城門があったことを知りませんでした。馬場先濠なら知っていましたが、そもそも何で馬場先というかも知らず。
<地図>
位置的には赤い印が現在位置。日比谷濠と馬場先濠の間です。道も広いので何度も通っているのに、いままで説明板に気付きませんでした。
<馬場先門>
説明によれば『門の名は、寛永期(1624〜1644年)に門内の馬場で将軍が朝鮮使節の曲馬を上覧し朝鮮馬場と呼ばれていたことに由来します。門は1629年(寛永6年)に築造されました。』とのこと。
<絵図>
構造的には枡形門ですね。ただ手前は濠なのに橋は無いようです。舟の出入りを想定したのでしょうか?門の奥、右へ曲がった区画では、馬を駆けさせている姿が見えます。
現地での理解は中途半端だったので、帰宅してから調べました。枡形門として築かれたものの、やはり橋は架けられなかったようです。これにより不開御門(あかずのごもん)と呼ばれていました。あと、説明板の内容をもう少し詳しく説明すると、奥の馬場は、徳川家光の将軍就任祝賀に招かれた朝鮮特使団が馬術の芸を披露したことから朝鮮馬場と呼ばれるようになったようです。不開御門はいつしか『馬場先の門』ということで馬場先門と呼ばれるようになりました。
特定の誰かの命名というより、そう呼ばれているうちに、それが定着したということですかね。
ずっと開かずの門だったのか?ということはなく、のちには橋が架けられたようです。きっかけは江戸の大惨事となった明暦の大火(1668年)です。この教訓から、江戸の町は大改造が施され、城の天然堀でもある隅田川に新たな橋も設けられました。逃げ場の確保ということですね。馬場先門の橋も、そういった政策の一環ということですね。
橋が架けられた馬先門は、大名とその家臣だけでなく、通行手形を持つ商人の出入りも許されていたそうです。
<付近の石垣>
だいたいこの付近でしょうか?
ただ、いまは桝形門の石垣すら残っていませんね。
<和田倉門跡>
こちらはもうちょっと北にある和田倉門跡です。門そのものは残っていなくても、普通ならこんな感じで枡形構造の石垣が確認できそうなものですが。
1904年に日露戦争の戦勝祝賀会で市民の行列が馬場先門に殺到し、20人もの死者を出す事件が起きてしまいました。大惨事ですね。枡形は敵の侵入を鈍らせ、進む先の見通しも悪い構造です。これが災いし、押しかける市民の事故につながったようです。枡形門は撤去され、堀の一部が埋め立てられ道路となりました。
枡形門の痕跡すらないには、それ相応の理由があったのですね。
ということで
現在は残っていない江戸城の城門のご紹介でした。日比谷門と和田倉門の間にも枡形門があった。私も知らなかったので、読んで頂いた方の参考になれば嬉しいです。
■訪問:馬場先門跡
[千代田区丸の内]2
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2019年10月09日
2019年10月07日
入り江のなごり 江戸城日比谷濠
<日比谷濠>
いわゆる皇居のお濠です。今回は旧江戸城の濠の一部は、かつて海の入江だったという話です。
まずはこちらの絵図から
<道灌時代の江戸城>
東京国際フォーラムの太田道灌像付近で撮影したものです。道灌は江戸城の築城者として知られていますね。その当時の江戸城の姿です。立派な城ですが、のちの江戸城と比べればコンパクトですよね。城の左側に水辺が描かれていますが、これは江戸湾(=東京湾)が陸地に入り込んだ部分。つまりの入り江です。そして城の手前にはこの入り江に繋がる天然堀。どこまでが入り江で、どこからがそこへ注ぐ川なのか分かりませんが、道灌はこういった地の利を活かして江戸城を築城したことが伝わってきます。
当時あった『日比谷入江』は、現在の新橋付近から北へ向かって大手町付近まで達っていました。江戸城は徳川家康により大規模な拡張工事がなされますが、改修後の日比谷濠や馬場先濠、和田倉濠はこの日比谷入江のなごりとされています。つまり、道灌時代の天然堀の代わりということですね。
<日比谷濠>
こちらは南側(日比谷公園側)から撮影した日比谷濠。江戸湾の一部だったなごりです。
<日比谷濠>
今度は北側(馬場先口から)撮影。掘り起こして築いたのではなく、埋め残しで築かれた濠ということですね。
もうちょっと北へ目を向けると
<馬場先濠>
ここも入り江だったのでしょう
いい眺めです
更に北は
<和田倉濠と和田倉門>
どうもこの付近までは入り江だったようです。
<和田倉門跡>
江戸城三十六見附のひとつに数えられる和田倉門跡です。
和田倉のワダは、海を意味していたと考えられています。和田倉とは、ワダ(=海)に面したところに倉があったことに由来するようです。この名前自体が、海が入り込んでいたなごりということですね。
ということで
日比谷濠はかつての入り江のなごりというお話でした。同じく馬場先濠、和田倉濠も。ちなみに、昔の神田川の河口はこの入江だったようです。同じ景色でも、知れば見る目がかわりますね。
<夜のお濠>
■訪問:日比谷濠
[千代田区日比谷]
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いわゆる皇居のお濠です。今回は旧江戸城の濠の一部は、かつて海の入江だったという話です。
まずはこちらの絵図から
<道灌時代の江戸城>
東京国際フォーラムの太田道灌像付近で撮影したものです。道灌は江戸城の築城者として知られていますね。その当時の江戸城の姿です。立派な城ですが、のちの江戸城と比べればコンパクトですよね。城の左側に水辺が描かれていますが、これは江戸湾(=東京湾)が陸地に入り込んだ部分。つまりの入り江です。そして城の手前にはこの入り江に繋がる天然堀。どこまでが入り江で、どこからがそこへ注ぐ川なのか分かりませんが、道灌はこういった地の利を活かして江戸城を築城したことが伝わってきます。
当時あった『日比谷入江』は、現在の新橋付近から北へ向かって大手町付近まで達っていました。江戸城は徳川家康により大規模な拡張工事がなされますが、改修後の日比谷濠や馬場先濠、和田倉濠はこの日比谷入江のなごりとされています。つまり、道灌時代の天然堀の代わりということですね。
<日比谷濠>
こちらは南側(日比谷公園側)から撮影した日比谷濠。江戸湾の一部だったなごりです。
<日比谷濠>
今度は北側(馬場先口から)撮影。掘り起こして築いたのではなく、埋め残しで築かれた濠ということですね。
もうちょっと北へ目を向けると
<馬場先濠>
ここも入り江だったのでしょう
いい眺めです
更に北は
<和田倉濠と和田倉門>
どうもこの付近までは入り江だったようです。
<和田倉門跡>
江戸城三十六見附のひとつに数えられる和田倉門跡です。
和田倉のワダは、海を意味していたと考えられています。和田倉とは、ワダ(=海)に面したところに倉があったことに由来するようです。この名前自体が、海が入り込んでいたなごりということですね。
ということで
日比谷濠はかつての入り江のなごりというお話でした。同じく馬場先濠、和田倉濠も。ちなみに、昔の神田川の河口はこの入江だったようです。同じ景色でも、知れば見る目がかわりますね。
<夜のお濠>
■訪問:日比谷濠
[千代田区日比谷]
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2019年07月24日
品川氏館跡 水神が祀られた丘
つわものどもが夢の跡
名族・紀氏の流れを汲む品川氏の館跡を訪ねました。
<貴船神社>
■品川氏■
品川氏は古き名族・紀氏(きうじ)の流れを汲む一族です。まず平安末期に武蔵国に移り住んだ紀実直が大井氏を名乗り、その子らが枝分れして春日部氏や潮田氏、そして品川氏を名乗りました。品川氏は源頼朝から信頼を得て、鎌倉幕府の御家人として品川湊の管理を任されていました。品川湊は品川区の目黒川河口付近にあった港。大井氏とともに現在の品川区を支配していた品川氏はこの舟運の拠点を取り仕切り、地域の発展に寄与しました。先述の通り、大井一族は伊勢国との関係の深い紀氏の出です。これにより、品川氏は武蔵国・伊勢国間の運路にも関与していたのではないかと考えています。
■貴船神社■
今回の訪問のゴールは品川区の貴船神社です。JR大崎駅からなら徒歩圏内です。
<坂道>
この坂の上の方ですね。高いところへ向かっています。
<一の鳥居>
到着です。品川氏の館跡として最も有力視されている場所です。
<二の鳥居>
<手水舎>
遺構などはありませんが、周辺より更に高台となっています。
<貴船神社拝殿>
古くから水神として崇められてきました。水神であることから、「きぶね」と濁らず「きふね」と読みます。総本社は京都です。
品川氏は源頼朝の配下として、合戦でも功績をあげた名族です。しかし室町時代になり、第4代鎌倉公方の足利持氏によって所領を奪われ、以降は衰退してしまったようです。江戸時代の高家旗本に品川氏の名がありますが、こちらは紀氏品川氏とは別で、今川氏の流れを汲む一族になります。
■つわものどもが夢の跡■
港を取り仕切ったと思われる品川氏。活躍したのは鎌倉時代ですからね。当時はもっと海も近かったのでしょう。
■訪問:品川貴船神社
[東京都品川区西品川]
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名族・紀氏の流れを汲む品川氏の館跡を訪ねました。
<貴船神社>
■品川氏■
品川氏は古き名族・紀氏(きうじ)の流れを汲む一族です。まず平安末期に武蔵国に移り住んだ紀実直が大井氏を名乗り、その子らが枝分れして春日部氏や潮田氏、そして品川氏を名乗りました。品川氏は源頼朝から信頼を得て、鎌倉幕府の御家人として品川湊の管理を任されていました。品川湊は品川区の目黒川河口付近にあった港。大井氏とともに現在の品川区を支配していた品川氏はこの舟運の拠点を取り仕切り、地域の発展に寄与しました。先述の通り、大井一族は伊勢国との関係の深い紀氏の出です。これにより、品川氏は武蔵国・伊勢国間の運路にも関与していたのではないかと考えています。
■貴船神社■
今回の訪問のゴールは品川区の貴船神社です。JR大崎駅からなら徒歩圏内です。
<坂道>
この坂の上の方ですね。高いところへ向かっています。
<一の鳥居>
到着です。品川氏の館跡として最も有力視されている場所です。
<二の鳥居>
<手水舎>
遺構などはありませんが、周辺より更に高台となっています。
<貴船神社拝殿>
古くから水神として崇められてきました。水神であることから、「きぶね」と濁らず「きふね」と読みます。総本社は京都です。
品川氏は源頼朝の配下として、合戦でも功績をあげた名族です。しかし室町時代になり、第4代鎌倉公方の足利持氏によって所領を奪われ、以降は衰退してしまったようです。江戸時代の高家旗本に品川氏の名がありますが、こちらは紀氏品川氏とは別で、今川氏の流れを汲む一族になります。
■つわものどもが夢の跡■
港を取り仕切ったと思われる品川氏。活躍したのは鎌倉時代ですからね。当時はもっと海も近かったのでしょう。
■訪問:品川貴船神社
[東京都品川区西品川]
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今川氏館跡 (品川区)
つわものどもが夢の跡
今川氏館跡とされる場所を訪ねました。
<現地>
なにここ?
事前に分かっていましたが、遺構どころか石碑も説明板もありません。更に真っ平です。ここはJR東日本の車両基地。東京総合車両センターです。画像はその入口。館は広大な敷地のなかのどこかにあったとされています。
<敷地の東側の高台より撮影>
まぁ電車を眺めるのは嫌いではないですが
この地は名門今川氏の12代当主・氏真が武蔵国まで落ち延び、居を構えたと伝わる場所です。
氏真の父はあの有名な今川義元。超大物ですね。しかし圧倒的有利を覆されて織田信長に討たれ、今川氏は徐々に衰退。氏真は妻が北条氏康の娘ということもあり、その実家を頼ることになりました。しかし北条氏康が亡くなり氏政が後を継ぐと、今川氏真は次に徳川家康を頼ります。プロセスの詳細は不明な点が多いのですが、品川に屋敷を構えたのはこの頃ではないかと考えられます。
その後、氏真本人はこの地を去ったようですが、次男・高久が留まり、のちに徳川幕府のもとで旗本となりました。今川を名乗っていたものの、徳川秀忠の意向により、屋敷地にちなんで品川と改めまています。この品川氏は幕府の儀式や典礼を司る役職、いわゆる高家となっており、品川高久はその祖となったわけですね。また、高久の兄である今川範以(のりもち)は幕府に仕えませんでしたが、その子である直房が旗本となり、高家今川氏の祖となっています。
高家とは格式の高く権勢のある家柄のこと。駿河に君臨した足利家の一門の今川氏は、大名としては滅びながら、こうして生き残ったわけですね。それもこれも、国を追われながら落ち延びた今川氏真あってのこと。小説やドラマの影響で、文化人ではあるが武将としてはいまいちといった印象ですが、氏真の子孫たちは、戦の無い世でしっかりとした地位を確立しました。
ということで
ここにあったらしい館跡を訪ね、何もないので勝手にいろいろと想像してみたというお話でした。多少でも期待された方、申し訳ございません。
<敷地の西側>
今川氏真が夢の跡
■訪問
東京総合車両センター
[東京都品川区広町]2丁目
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今川氏館跡とされる場所を訪ねました。
<現地>
なにここ?
事前に分かっていましたが、遺構どころか石碑も説明板もありません。更に真っ平です。ここはJR東日本の車両基地。東京総合車両センターです。画像はその入口。館は広大な敷地のなかのどこかにあったとされています。
<敷地の東側の高台より撮影>
まぁ電車を眺めるのは嫌いではないですが
この地は名門今川氏の12代当主・氏真が武蔵国まで落ち延び、居を構えたと伝わる場所です。
氏真の父はあの有名な今川義元。超大物ですね。しかし圧倒的有利を覆されて織田信長に討たれ、今川氏は徐々に衰退。氏真は妻が北条氏康の娘ということもあり、その実家を頼ることになりました。しかし北条氏康が亡くなり氏政が後を継ぐと、今川氏真は次に徳川家康を頼ります。プロセスの詳細は不明な点が多いのですが、品川に屋敷を構えたのはこの頃ではないかと考えられます。
その後、氏真本人はこの地を去ったようですが、次男・高久が留まり、のちに徳川幕府のもとで旗本となりました。今川を名乗っていたものの、徳川秀忠の意向により、屋敷地にちなんで品川と改めまています。この品川氏は幕府の儀式や典礼を司る役職、いわゆる高家となっており、品川高久はその祖となったわけですね。また、高久の兄である今川範以(のりもち)は幕府に仕えませんでしたが、その子である直房が旗本となり、高家今川氏の祖となっています。
高家とは格式の高く権勢のある家柄のこと。駿河に君臨した足利家の一門の今川氏は、大名としては滅びながら、こうして生き残ったわけですね。それもこれも、国を追われながら落ち延びた今川氏真あってのこと。小説やドラマの影響で、文化人ではあるが武将としてはいまいちといった印象ですが、氏真の子孫たちは、戦の無い世でしっかりとした地位を確立しました。
ということで
ここにあったらしい館跡を訪ね、何もないので勝手にいろいろと想像してみたというお話でした。多少でも期待された方、申し訳ございません。
<敷地の西側>
今川氏真が夢の跡
■訪問
東京総合車両センター
[東京都品川区広町]2丁目
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2019年06月08日
土佐藩下屋敷跡と浜川砲台(品川区)
つわものどもが夢の跡
今回は土佐藩ゆかりの地を探索した時の記録です。坂本龍馬ゆかりの地でもあります。
<ゆかりの地>
■品川区探索■
高い場所と低い場所が入り組んでいる品川区東大井。丘の上をいろいろと探索した後、低地へ降り立ちました。
<国道>
真っ平です。この道沿いで新たな発見がありました。
<説明板>
中学校の敷地に立てられた説明板。どうやらここ一帯は、かつて土佐国高知藩下屋敷だったようです。
説明板のみで、周辺にそれらしい雰囲気はありません。ただ、城跡や屋敷跡はまとまった敷地が確保されていることから、後に役所や学校に転用されるケースは多いですよね。遺構は何もないのに、説明書きだけで納得してしまいました。あとで分かったのですが、明治初期にはビールの工場だったこともあるようです。現在は浜川中学校、他は宅地化されています。
<地図>
中学校とその周辺が屋敷跡。西側には立会川。なるぼと。それにしても広いな・・・
幕府から公給される屋敷の他に、自費で調達した分も含めると1万6,891坪だったとのこと。これはかなり広大ですね。ちょっと庶民的な計算をすると、土地30坪の家で563軒分!(かえって分かりにくいですかね)。更に立会川の河口付近には、荷揚げ場として別途屋敷を構えたというのですから、もうこの辺り一帯が土佐藩ゆかりの地と思って良いですね。
当てもなく歩いてきましたが、ここで立ち止ってネット検索。土佐藩を意識した探索に切り替えました。土佐藩主・山内土佐守豊信は24万2千石もの家禄があったとのこと。凄いですね。荷揚げ場として活用した鮫洲抱屋敷(さめずかかえやしき)跡付近には、ペリー来航時に設置された砲台の復元もあるとのこと。なるほど。ではその砲台へ行ってみますかね。
のんびり散歩が、ここからまた早足の探索となりました。
<立会川>たちあいがわ
上流では暗渠だった立会川。この付近では開渠になっています。もうすぐ海ですからね。
<北浜川児童公園>
立会川駅近くの児童公園で、坂本龍馬の銅像と出会いました。
<説明板>
黒船4隻の説明とともに、ペリー来航の折は坂本龍馬も砲台の警護にあたったと記されています。先ほどの銅像は、龍馬が沿岸警備にあたった20歳頃の姿をイメーシしているようです。
<銅像近くの道標>
砲台はすぐ近くのようです。行ってみますかね。
<新浜川公園>
到着です。こちらは新浜川公園。この付近に土佐藩鮫洲抱屋敷がありました。ペリー来航に伴い、幕命を受けた土佐藩では、大砲8門を準備したそうです。
<大砲の復元>ホーイッスル砲
8門の大砲のうちの1つを原寸大で復元したものです。比較的新しいですね。あとで調べたところによると、坂本龍馬生誕180年にあたる2015年に完成したそうです。どうりで綺麗なわけです。砲台の目の前は、いまでこそ運河になっていますが、沖合を埋め立てる前は海でした。
砲台の警備兵は、土佐藩の下屋敷に寝泊まりしていたとのこと。その中に、若き日の坂本龍馬もいたのですね。後に多くの志士たちに影響を与える坂本龍馬。この頃は、何を胸に抱いていたのでしょうか。
■訪問
土佐高知藩山内家下屋敷跡
[東京都品川区東大井]3-18
北浜川児童公園
[東京都品川区東大井]2-25-22
浜川砲台
[東京都品川区東大井]2-26-18
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今回は土佐藩ゆかりの地を探索した時の記録です。坂本龍馬ゆかりの地でもあります。
<ゆかりの地>
■品川区探索■
高い場所と低い場所が入り組んでいる品川区東大井。丘の上をいろいろと探索した後、低地へ降り立ちました。
<国道>
真っ平です。この道沿いで新たな発見がありました。
<説明板>
中学校の敷地に立てられた説明板。どうやらここ一帯は、かつて土佐国高知藩下屋敷だったようです。
説明板のみで、周辺にそれらしい雰囲気はありません。ただ、城跡や屋敷跡はまとまった敷地が確保されていることから、後に役所や学校に転用されるケースは多いですよね。遺構は何もないのに、説明書きだけで納得してしまいました。あとで分かったのですが、明治初期にはビールの工場だったこともあるようです。現在は浜川中学校、他は宅地化されています。
<地図>
中学校とその周辺が屋敷跡。西側には立会川。なるぼと。それにしても広いな・・・
幕府から公給される屋敷の他に、自費で調達した分も含めると1万6,891坪だったとのこと。これはかなり広大ですね。ちょっと庶民的な計算をすると、土地30坪の家で563軒分!(かえって分かりにくいですかね)。更に立会川の河口付近には、荷揚げ場として別途屋敷を構えたというのですから、もうこの辺り一帯が土佐藩ゆかりの地と思って良いですね。
当てもなく歩いてきましたが、ここで立ち止ってネット検索。土佐藩を意識した探索に切り替えました。土佐藩主・山内土佐守豊信は24万2千石もの家禄があったとのこと。凄いですね。荷揚げ場として活用した鮫洲抱屋敷(さめずかかえやしき)跡付近には、ペリー来航時に設置された砲台の復元もあるとのこと。なるほど。ではその砲台へ行ってみますかね。
のんびり散歩が、ここからまた早足の探索となりました。
<立会川>たちあいがわ
上流では暗渠だった立会川。この付近では開渠になっています。もうすぐ海ですからね。
<北浜川児童公園>
立会川駅近くの児童公園で、坂本龍馬の銅像と出会いました。
<説明板>
黒船4隻の説明とともに、ペリー来航の折は坂本龍馬も砲台の警護にあたったと記されています。先ほどの銅像は、龍馬が沿岸警備にあたった20歳頃の姿をイメーシしているようです。
<銅像近くの道標>
砲台はすぐ近くのようです。行ってみますかね。
<新浜川公園>
到着です。こちらは新浜川公園。この付近に土佐藩鮫洲抱屋敷がありました。ペリー来航に伴い、幕命を受けた土佐藩では、大砲8門を準備したそうです。
<大砲の復元>ホーイッスル砲
8門の大砲のうちの1つを原寸大で復元したものです。比較的新しいですね。あとで調べたところによると、坂本龍馬生誕180年にあたる2015年に完成したそうです。どうりで綺麗なわけです。砲台の目の前は、いまでこそ運河になっていますが、沖合を埋め立てる前は海でした。
砲台の警備兵は、土佐藩の下屋敷に寝泊まりしていたとのこと。その中に、若き日の坂本龍馬もいたのですね。後に多くの志士たちに影響を与える坂本龍馬。この頃は、何を胸に抱いていたのでしょうか。
■訪問
土佐高知藩山内家下屋敷跡
[東京都品川区東大井]3-18
北浜川児童公園
[東京都品川区東大井]2-25-22
浜川砲台
[東京都品川区東大井]2-26-18
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2019年06月06日
関ヶ原に来ました!品川区の (島津家抱屋敷跡)
大井町駅の南側を散策中にこんな公園と出会いました。
<関ヶ原公園>
関ヶ原!いわゆる関ヶ原と関係あるのでは?
戦国武将好きとしては、どうしても期待してしまいます。ここは現在の住所だと東大井六丁目。かつては大井関ヶ原町と呼ばれていました。公園の名はそのなごりですね。
説明板を見つけました。もしかしたら、地名の由来が分かるかもしれません。
<説明書き>
地名の由来については特に記載がないようです。残念。じゃ何が書かれているのか?
どうもここ関ヶ原一帯は、かつては島津家の屋敷だったようです。関ヶ原、そして島津家。なおさら由来が気になります。天下分け目の戦いで西軍に与しながら、お家断絶どころか減封もなかった島津家。何かの縁を感じずにはいられません。
関係ないよ!
はい。ほぼ関係ないと思います。ただ、関ヶ原の戦い後の「奇跡」ともいうべき島津家の生き残り。どうしても妄想したくなります。
<説明板>
会社員ブログとはいえ、こんな内容で終わると訪問頂いた方に申し訳ないので、品川区教育委員会さんのちゃんとした説明書きを一部抜粋させて頂きます。『』内が転記です。
『この付近より東海道線を越えた地域を含む広大な地は、鹿児島藩島津家の抱屋敷(万治2年(1658)買得)および抱地(天保3年(1832)取得)であった。敷地は約1万8千坪に及ぶ。安政3年(1856)当時、藩主島津斉彬の父で前藩主の斉興(松平大隅守)がこの抱屋敷で隠居生活を送っていたため、絵図上では「松平大隅守」と表記されている場合がある。』
とのこと。後半省略しています。
あの島津斉彬(なりあきら)のお父様が隠居生活を送った屋敷ということですね。抱屋敷?これは「かかえやしき」と読みます。いろんな意味がありますが、ここでは幕府から公給されるのとは別に、自費で調達した屋敷のこととお考え下さい。抱地も同様の意味で良いかと。
島津家の上屋敷は現在の三田にありましたので、江戸城からみて更に郊外に自費で設けた屋敷、いわば別荘のような屋敷だったのかもしれません。
<公園沿いの道>
これは関ヶ原公園沿いの道。ただの道ではなく、かつての川跡です。川は地下に埋設されており、その流れを見ることはできません。いわゆる暗渠(あんきょ)ですね。立会川の暗渠です。
斉彬の父・斉興は、藩政改革に取り組んで成果を上げた藩主。幕府とのかけひきや息子・斉彬との確執やら、とにかく波乱万丈の人生でしたが、この地で暮らした頃はどんな心境だったのでしょうか。
いまとは異なり、きっとのどかな景色が広がっていたのでしょう。もしかしたら、さらさらと流れる立会川に、心を癒されるなんてこともあったかもしれませんね。
<立会川の暗渠>
そんなことを勝手に想像しながらてくてくと。目黒区から流れてきたこの川の水は、東京湾へと注ぎ込みます。特に行く先も決めていないので、蛇行する水の流れを追って川下へと向かうことにしました。
■訪問
関ヶ原公園
[東京都品川区東大井] 6丁目
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<関ヶ原公園>
関ヶ原!いわゆる関ヶ原と関係あるのでは?
戦国武将好きとしては、どうしても期待してしまいます。ここは現在の住所だと東大井六丁目。かつては大井関ヶ原町と呼ばれていました。公園の名はそのなごりですね。
説明板を見つけました。もしかしたら、地名の由来が分かるかもしれません。
<説明書き>
地名の由来については特に記載がないようです。残念。じゃ何が書かれているのか?
どうもここ関ヶ原一帯は、かつては島津家の屋敷だったようです。関ヶ原、そして島津家。なおさら由来が気になります。天下分け目の戦いで西軍に与しながら、お家断絶どころか減封もなかった島津家。何かの縁を感じずにはいられません。
関係ないよ!
はい。ほぼ関係ないと思います。ただ、関ヶ原の戦い後の「奇跡」ともいうべき島津家の生き残り。どうしても妄想したくなります。
<説明板>
会社員ブログとはいえ、こんな内容で終わると訪問頂いた方に申し訳ないので、品川区教育委員会さんのちゃんとした説明書きを一部抜粋させて頂きます。『』内が転記です。
『この付近より東海道線を越えた地域を含む広大な地は、鹿児島藩島津家の抱屋敷(万治2年(1658)買得)および抱地(天保3年(1832)取得)であった。敷地は約1万8千坪に及ぶ。安政3年(1856)当時、藩主島津斉彬の父で前藩主の斉興(松平大隅守)がこの抱屋敷で隠居生活を送っていたため、絵図上では「松平大隅守」と表記されている場合がある。』
とのこと。後半省略しています。
あの島津斉彬(なりあきら)のお父様が隠居生活を送った屋敷ということですね。抱屋敷?これは「かかえやしき」と読みます。いろんな意味がありますが、ここでは幕府から公給されるのとは別に、自費で調達した屋敷のこととお考え下さい。抱地も同様の意味で良いかと。
島津家の上屋敷は現在の三田にありましたので、江戸城からみて更に郊外に自費で設けた屋敷、いわば別荘のような屋敷だったのかもしれません。
<公園沿いの道>
これは関ヶ原公園沿いの道。ただの道ではなく、かつての川跡です。川は地下に埋設されており、その流れを見ることはできません。いわゆる暗渠(あんきょ)ですね。立会川の暗渠です。
斉彬の父・斉興は、藩政改革に取り組んで成果を上げた藩主。幕府とのかけひきや息子・斉彬との確執やら、とにかく波乱万丈の人生でしたが、この地で暮らした頃はどんな心境だったのでしょうか。
いまとは異なり、きっとのどかな景色が広がっていたのでしょう。もしかしたら、さらさらと流れる立会川に、心を癒されるなんてこともあったかもしれませんね。
<立会川の暗渠>
そんなことを勝手に想像しながらてくてくと。目黒区から流れてきたこの川の水は、東京湾へと注ぎ込みます。特に行く先も決めていないので、蛇行する水の流れを追って川下へと向かうことにしました。
■訪問
関ヶ原公園
[東京都品川区東大井] 6丁目
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タグ:暗渠
2019年06月04日
梶原氏館跡(品川区)
つわものどもが夢の跡
小田原北条氏家臣の館跡と伝わる場所を訪ねました。
<目的地>
こちらが今回の目的地と定めた稲荷神社です。JR大井町駅から寄り道をしなければ徒歩10程度ですかね。
■梶原氏館■
梶原氏は小田原北条氏の家臣で、現在の品川区付近を領有したとされています。今回の訪問は品川区の梶原稲荷神社。この周辺が一族の拠点であったと考えられています。
<案内板>
やや道に迷いかけた時、この案内板に救われました。この付近は寺院が多いすね。右側に嶺雲寺・来福寺・大福生寺・西光寺が紹介されています。そして左下に梶原稲荷神社を見つけました。更には、この付近が梶原氏ゆかりの地であることも紹介されています。ちょっと気分が盛り上がります。
<稲荷神社入口付近>
目的地に到着です。
<細道>
小さな神社ですが、住宅地のパワースポットのような空気が漂います。
<梶原稲荷神社>
源頼朝の命により梶原景時が創建したと伝わり、境内には梶原塚と呼ばれる塚が残されています。この画像だと、鳥居の左手です。
梶原景時といえば鎌倉幕府の御家人。源頼朝に重用された幕府の中心人物ですね(頼朝の死後に失脚)。小田原の北条氏が台頭するのは、ずっとずっと後の話になります。北条家臣とされる梶原氏とは、景時の末裔と考えて良いのでしょうか?ちょっと調べましたが分からず(私には)。
館跡はこの神社そのものというより、この付近にあったとされています。ということで、周辺を散策することに。遺構は無いと聞いているので、いつも通り地形を味わうことにします。
<犬坂>
梶原稲荷神社近くの坂です。犬坂?
<標識>
説明書きを読みましたが、坂の名の由来ははっきりしないそうですね。俗称は"へびだんだん"。かわいい呼び名です。
<地形>
犬坂付近で撮影しました。高低差、伝わりますでしょうか。館跡とされる場所はこの高台に位置しています。今は建物が多く実感が湧きませんが、低地に面した見晴らしの良い丘だったのでしょう。
ということで
遺構は無いものの、起伏に富んだ地形を充分に味わえたので、それなりに満足な散策となりました。
<大福生寺>
いい雰囲気のお寺とも出会いえました。変わった形の鳥居がありますが、お寺さんです。
-------■梶原氏館■-------
築城年:不明
築城者:梶原氏?
城 主:梶原氏
[東京都品川区東大井]3丁目
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小田原北条氏家臣の館跡と伝わる場所を訪ねました。
<目的地>
こちらが今回の目的地と定めた稲荷神社です。JR大井町駅から寄り道をしなければ徒歩10程度ですかね。
■梶原氏館■
梶原氏は小田原北条氏の家臣で、現在の品川区付近を領有したとされています。今回の訪問は品川区の梶原稲荷神社。この周辺が一族の拠点であったと考えられています。
<案内板>
やや道に迷いかけた時、この案内板に救われました。この付近は寺院が多いすね。右側に嶺雲寺・来福寺・大福生寺・西光寺が紹介されています。そして左下に梶原稲荷神社を見つけました。更には、この付近が梶原氏ゆかりの地であることも紹介されています。ちょっと気分が盛り上がります。
<稲荷神社入口付近>
目的地に到着です。
<細道>
小さな神社ですが、住宅地のパワースポットのような空気が漂います。
<梶原稲荷神社>
源頼朝の命により梶原景時が創建したと伝わり、境内には梶原塚と呼ばれる塚が残されています。この画像だと、鳥居の左手です。
梶原景時といえば鎌倉幕府の御家人。源頼朝に重用された幕府の中心人物ですね(頼朝の死後に失脚)。小田原の北条氏が台頭するのは、ずっとずっと後の話になります。北条家臣とされる梶原氏とは、景時の末裔と考えて良いのでしょうか?ちょっと調べましたが分からず(私には)。
館跡はこの神社そのものというより、この付近にあったとされています。ということで、周辺を散策することに。遺構は無いと聞いているので、いつも通り地形を味わうことにします。
<犬坂>
梶原稲荷神社近くの坂です。犬坂?
<標識>
説明書きを読みましたが、坂の名の由来ははっきりしないそうですね。俗称は"へびだんだん"。かわいい呼び名です。
<地形>
犬坂付近で撮影しました。高低差、伝わりますでしょうか。館跡とされる場所はこの高台に位置しています。今は建物が多く実感が湧きませんが、低地に面した見晴らしの良い丘だったのでしょう。
ということで
遺構は無いものの、起伏に富んだ地形を充分に味わえたので、それなりに満足な散策となりました。
<大福生寺>
いい雰囲気のお寺とも出会いえました。変わった形の鳥居がありますが、お寺さんです。
-------■梶原氏館■-------
築城年:不明
築城者:梶原氏?
城 主:梶原氏
[東京都品川区東大井]3丁目
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2019年04月02日
星ヶ岡城跡とされる高台 (山王日枝神社)
つわものどもが夢の跡
星ヶ岡城跡と言われる赤坂の神社を訪ねました。
<土塁>
城跡巡りご先達の方々の情報によれば、こちらが遺構のようです。確かに土は盛ってあります。ただ城の土塁とみなしてよいのか?ちょっと実感が湧きませんでした。
<日枝神社>ひえじんじゃ
現地はとても有名な神社です。創建の時期は不明ですが、江戸城の築城者である太田道灌が、川越日枝神社を勧請したのに始まるとされています(1478年)。徳川家からも城の鎮守として崇敬され、1659年に当地へ移されました。
<境内の高低差>
由緒正しき立派な神社ですが、そういった内容は神社専門のブログにお任せするとして、ここでは高低差が伝わる画像だけにしました。高台にあり、中世の山城が築かれていても不思議ではない地形です。
日枝神社がこの地に移された直接の理由は、明暦の大火でした。江戸の大半を焼いた大規模火災ですね。その直後、「松平忠房の邸地が社地にあてられた」とされています。松平忠房は後に島原藩主となる人物。想像の域を出ませんが、土塁が松平忠房の屋敷のものということも考えられますね。繰り返しますが、盛ってある土を、外敵の侵入を防ぐための土塁と思いたい城好きの勝手な想像です。神社が鎮座する平らな区画の隅に、土塁は位置しています。防衛策として理に適っています。
さてさて
星ヶ岡城に関しては、いろんな情報が交錯していて、私にはちょっと整理しきれません。まぁ真相はわからないのですが、現地を見る限り「山城だったとしてもおかしくない場所」というふうに受け止め、探索を終わりにしました。ここ山王日枝神社は太田道灌や徳川家康ゆかりの神社。それだけでも来た甲斐はあります。
桜の時期、気持ちの良い探索となりました。
-------■ 星が丘城 ■-------
(詳細不明)
現 況:日枝神社
[東京都千代田区永田町]
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星ヶ岡城跡と言われる赤坂の神社を訪ねました。
<土塁>
城跡巡りご先達の方々の情報によれば、こちらが遺構のようです。確かに土は盛ってあります。ただ城の土塁とみなしてよいのか?ちょっと実感が湧きませんでした。
<日枝神社>ひえじんじゃ
現地はとても有名な神社です。創建の時期は不明ですが、江戸城の築城者である太田道灌が、川越日枝神社を勧請したのに始まるとされています(1478年)。徳川家からも城の鎮守として崇敬され、1659年に当地へ移されました。
<境内の高低差>
由緒正しき立派な神社ですが、そういった内容は神社専門のブログにお任せするとして、ここでは高低差が伝わる画像だけにしました。高台にあり、中世の山城が築かれていても不思議ではない地形です。
日枝神社がこの地に移された直接の理由は、明暦の大火でした。江戸の大半を焼いた大規模火災ですね。その直後、「松平忠房の邸地が社地にあてられた」とされています。松平忠房は後に島原藩主となる人物。想像の域を出ませんが、土塁が松平忠房の屋敷のものということも考えられますね。繰り返しますが、盛ってある土を、外敵の侵入を防ぐための土塁と思いたい城好きの勝手な想像です。神社が鎮座する平らな区画の隅に、土塁は位置しています。防衛策として理に適っています。
さてさて
星ヶ岡城に関しては、いろんな情報が交錯していて、私にはちょっと整理しきれません。まぁ真相はわからないのですが、現地を見る限り「山城だったとしてもおかしくない場所」というふうに受け止め、探索を終わりにしました。ここ山王日枝神社は太田道灌や徳川家康ゆかりの神社。それだけでも来た甲斐はあります。
桜の時期、気持ちの良い探索となりました。
-------■ 星が丘城 ■-------
(詳細不明)
現 況:日枝神社
[東京都千代田区永田町]
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