今回は天然の地形を巧みに活かした高天神城の険しい尾根道と、そこを駆け抜けた戦国武将の話です。
<甚五郎抜け道>
ここは険しい山城の抜け道。細い尾根道が続き『犬戻り・猿戻り』とも言われる難所です。意味ですが、たぶん機敏な犬や猿ですら行きかけて戻ってきてしまう険しさということでしょう。
<説明板>
軍艦の甚五郎が落城を報告すべく駆け抜けたということですね。以下に転記します。
『天正九年三月落城の時、二十三日早朝、軍艦横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城の模様を報告する為、馬を馳せて、是より西方の約一千米の尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去った』『この難所を別名犬戻り猿戻りとも言う』
[大東町教育委員会]
なるほど。大東町は掛川市と合併する前の町名ですね。『天正九年三月落城』ですから、これは当時武田が支配していた高天神城が、宿敵徳川勢に包囲され、兵糧攻めのあげく落城した時のお話です(1581年:第二次高天神城の戦い)。補給路も断たれ、城は本国に救援を求めましたが援軍は来ず、最後は城将の岡部元信らが城から討って出ますが、率いた兵とともに討ち死に。高天神城は落城となりました。この壮絶な戦いの最後に、軍監の横田甚五郎が難所から脱出し、本国の武田勝頼に落城を報告したということです。
<馬場平>
城の西端の曲輪です。ここ馬場平から更に西へ延びる尾根道が『甚五郎抜け道』と呼ばれています。
■横田甚五郎尹松■ただとし
武田信玄にも仕えた武将です。祖父は武田二十四将の一人に数えられる原虎胤(とらたね)といいますから、古くから武田家に仕えた家柄ということですね。この時は猛将で知られる岡部元信とともに高天神城に入っていました。岡部元信が城を死守すべく武田勝頼に援軍を求めたのに対し、横田甚五郎は『武田全体の兵力の温存を優先すべき』という内容の書状を密かに勝頼に送っていたようです。つまり、戦略上重要拠点ではあるものの、高天神城に拘らないことを勧めたということですね。武田勝頼は一時期の破竹の勢いを既に失っており、取り巻く状況も複雑だったので、両者のどちらが正しかったのか分かりません。ただ少なくとも、岡部元信と横田甚五郎とでは、武田にとって良かれと思う選択が異なっていたわけですね。
岡部元信らの最後の奮闘もありましたが、高天神城は落城。
城が徳川勢に屈したことを甲州の勝頼に伝えるべく、横田甚五郎は冒頭の細い尾根道を馬で駆け抜けたそうです。犬や猿でも躊躇する難所を馬でですか。かなり厳しい道のりですね。勝頼は死地から生還した横田甚五郎を褒め、太刀を与えようとします。劣勢の勝頼としては、側近の帰還は素直に嬉しかったのではないでしょうか。しかし甚五郎はこれを断ったそうです。
負け帰って褒美を貰ったのでは
筋がたたない
甚五郎にもいろんな思いがあったのでしょうね。
■つわものどもが夢の跡■
武田滅亡後、甚五郎は徳川家康の家臣となります。この尾根道を駆け抜けた先に、そんな将来が待っていようとは思いもよらなかったでしょうね。やがて江戸幕府が開かれると旗本となり、当時としては長生きをして、82歳で没しました(1635年)。
■訪問:高天神城 馬場平
甚五郎抜け道(犬戻り猿戻り)
[静岡県掛川市]
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