<大宝城跡の標柱>だいほうじょうあと
大宝城跡?ここって城跡なの?
場所は関城跡の目の前です。
<関城跡>
たったいま関城の南端の遺構を確認して…
<下り坂>
微高地から低地へ降りたばかり…
関城の天然堀だった沼へ降り立ったことは意識していましたが、急に「大宝城跡」と言われても、意味が分かりませんでした。とりあえず現地からX(旧twitter)で冒頭の画像をアップ。すると、この付近に詳しいフォローワーさんからすぐに連絡からあり、標柱はこの付近のかなり広範囲に設置されていることを教えてもらいました。
更に現地でネット検索すると、大宝城そのものは、ここからもう少し南へ行った大宝八幡宮付近であることが分かりました。直線距離で2kmちょっと。本来なら余裕で徒歩圏内です。
行ってみたいなぁ…
ただ、この日は午前中が小山市、午後から筑西市探索というスケジュール。既に体力を使い切っていました。
また来られるとは限らないが…
断念しました(残念)。
仕方なく、帰宅してからゆっくり調べ直すことに。そこで分かったことは…
<国指定史跡>
設置されている標柱には『国指定史跡大宝城跡』と記されていますが、大宝城本体だけでなく、大宝城の天然の堀だった大宝沼をも含めた範囲を指しているということ。むしろ史跡指定区域の大半は、かつての大宝沼と重なるようです。
つまり私が出合った標柱は、ここがかつての大宝沼であることの目印になっていたわけですね。その沼の北岸に築かれたのが関城なのですから、やっと納得できました。
更に分かったことは
<飛び地あり>
関城のまん前なので、私は筑西市のつもりで歩いていましたが、市境となるこの付近は、ところどころ下妻市の飛び地となっているようです。下妻市の城の標柱が、この付近に点在していることも納得できました。
■大宝城とは■
せっかくですので、大宝城について。茨城県教育委員会さんのホームページによれば、大宝城は『西、北、および東方の一部を旧大宝沼に囲まれた台地の自然の地形を利用して造築された城郭であり、東方も古い時代は沼か湿地であったと思われることから三方断崖に面した要害の地でした。』とのこと。北側に向かって突き出した舌状台地に築かれた城だったようですね。そして、その範囲は東西288m、南北576mといいますから、相当広かったようです。
(『』内はHPの原文をそのまま転記)
大宝城主の築城者は下妻長政。元の名は小山長政です。つまり下野の小山氏の出です。下妻の地頭となり、そのまま地名を名乗りました。そして孫にあたる下妻政泰の時に、南朝・北朝の壮絶な戦いに巻き込まれることになりました。
私が訪問した関城同様、南朝方の重要拠点だったようです。というより、戦においては関城とセットで機能していたようです。関城には北畠顕家が、大宝城には同族の春日顕国が南朝の征夷大将軍・興良親王を奉じて入城。南朝方の二大拠点という感じですね。ただその後の戦況は好ましくなく、北朝方による激しい攻撃に晒され続けます。長期の籠城戦の末に大宝城は関城とほぼ時を同じくして落城(1343年)。城主である下妻政泰は命を落としました。
<水田地帯>
大宝沼は大宝城と関城の天然の堀でした。いまは御覧の通りで、水田に姿を変えています。私の訪問は3月下旬のためこんな眺めでしたが、いずれ稲穂がたなびく素晴らしい景色になるのでしょう。
ということで
関城跡を訪ねた帰りに、大宝沼のなごりを感じ、帰宅してから大宝城についても調べてみたという内容でした。会社員の拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
<内沼川>うちぬまがわ
この水の流れも沼地だったなごりですね
■訪問:大宝沼の跡
(大宝城指定区域)
[茨城県筑西市関舘]
[茨城県下妻市福田](飛び地)
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■参考及び出典
・Wikipedia:2024/7/7
・茨城県教育委員会HP
いばらきの文化財>大宝城跡
https://kyoiku.pref.ibaraki.jp/bunkazai/kuni-94/
タグ:茨城