<関城坑道跡>せきじょうこうどうあと
まもなく関城到着という地点です。遥か彼方に筑波山。手前には説明板が設置されています。
<現地説明板>
なるほど、分かりやすい
■高師冬による坑道跡■こうのもろふゆ
現地の説明文によれば、坑道は南北朝時代に北朝方の高師冬の指揮で掘られたようです。関城跡は南朝方の拠点です。説明文をそのまま引用させて頂くと『関城の物見やぐらを攻め落とすために抗夫を募って地下道を掘ったあと』とのことです。
凄い作戦に出ましたね。城内の櫓の支柱を地下から破壊しようとしたのでしょう。攻め手が城の東北から掘りはじめると、関城の城兵も城の外に向かって掘り進んだと記されています。これは、どうするつもりだったのでしょうね?いずれにせよ、地盤の軟弱さから攻め手の坑道が落盤してしまい、結局は双方が坑道の掘削を中止したようです。
<未完の坑道>
その時の坑道跡が発見されたのは大正時代。関館の青年2人が、八幡宮西部里道の側面に偶然発見し、世に知られるようになったそうです。『日本3坑道の一つとして戦史上貴重な価値を有するもの』とのこと。念のため他の二つを調べてみましたが、分かりませんでした。(『』内は原文のまま転記)
地盤の弱さから落盤した南北朝時代の坑道が、大正時代まで残っていたことが奇跡ですね。今はコンクリで補強されています。
<坑道入口>
まさか入ろうとは思いませんが、ちょっとで良いので中をのぞいてみたかったですね。ただ御覧の通り立入禁止の鎖が張られています。ルールを守って外からの撮影だけにしました。
<坑道跡石碑>
こちらは説明板背後の盛土の上に設置されている石碑です。周囲に縄が張ってあるので近づけず、ちょっと厳しい角度から撮影しました。盛ってある土は穴を掘った時のなごりでしょうか?あるいは関城の土塁のなごり?石碑の向こうに森が見えていますが、そこはかつての関城の城内で、現在は八幡神社となっています。
<八幡神社鳥居>
説明文にあった八幡様です。
<八幡神社境内>
関城北側の土塁がはっきり残っています。土塁はいまでこそ境内のみですが、城が現役の時には、坑道口付近まで繋がっていたようです。この堅い守りを、北朝方はどうしても突破したかったわけですね。
<つわものどもが夢の跡>
見た目は地味ですが、存在そのものが貴重です
■訪問:関城坑道跡
(八幡神社近く)
[茨城県筑西市関舘]
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■参考及び出典
・現地説明板(筑西市)
・筑西市HP
国指定文化財>関城跡
https://www.city.chikusei.lg.jp/page/page000268.html
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