<鎧宮八幡神社>よろいのみや
現地は岩槻区南辻の八幡神社です。古くは、ここ辻村の鎮守社でした。
岩槻城を攻める豊臣軍がこの地に集まり、鎧兜を整えてから出陣したと伝わります。このことから、鎧宮八幡と呼ばれています。これに関連して、ある伝説が残されています。紹介している資料やサイトによって微妙に言い回しが異なるので、ここでは「猫の足あと」さんのサイトに掲載されていた「埼玉の神社」による「鎧宮八幡神社の由緒」の一部を参考にさせて頂きます(『』内転記)。
『水嵩の増した元荒川を前にして、秀吉方の軍勢が岩槻城を攻めるのに攻めあぐね、一呼吸置いて休んでいたところ、白馬に乗った人物が川を渡ったのと見て、八幡神社の前が浅いということがわかってしまい、それがもとで城は攻め落とされてしまった。この時、白い馬に乗って川を渡ったのは、辻の八幡様で、総攻撃が近いことを岩槻城内に知らせようとしたわけであるが、かえって仇になってしまった。』
八幡さまが仇に…
神様のご厚意が仇になるというのは、ちょっと受け止め方に苦慮する伝説ですね。八幡神は多くの武将から崇敬され、有名な武将が必勝祈願した話などもよく耳にします。攻め手である豊臣軍を導いたというなら、何となく筋が通りますが、それでは立て籠もる岩槻城の城兵が見捨てられたようで気の毒ですし、何とも言えません。
<昔の荒川の流路>
鎧宮八幡神社の目の前です。一部は調整池になっていますが、水の姿はありません。当時の荒川(のちの元荒川)はここを流れていました。そして、鎧宮八幡側から見て対岸は岩槻城の北側の守り「新正寺曲輪」でした。伝説に登場する白い馬に乗った人物は、この付近を駆け抜けていったことになります。
川の浅瀬を承知している地元の者が、豊臣軍の攻撃が始まることを察し、良かれと思って川を渡った。あるいは、豊臣軍に強要されて仕方なく川を渡った。元の話はそんな感じだったと思いたいですね。または、城内からの脱出用に、川底に石を敷いた場所があったという話もありますので、伝令のために城内に入ろうとした兵が豊臣勢に見つかってしまった。納得できるとしたら、そんな感じでしょうか。まぁどうであれ、八幡さまが仇になるというのは、ちょっと酷な伝説です(あくまで個人の感覚の問題です)。
<八幡神社本殿>
この地の八幡神社は、岩槻城落城後も辻村の鎮守であり続けました。つまり辻村の人たちに慕われ続けたのです。長い時を経るうちに、いろんな人の思惑が絡みあって伝承され、いつの間にか八幡さまにとって厳しい伝説になった。私は地元民ならではの繊細な事情は分かりませんので、その程度に受け止めたいと思います。
<南辻の八幡神社>
ここに集結した豊臣軍は、鎧兜を整えてから川を渡った。そんなことが想像できるだけで充分です。
<つわものどもが夢の跡>
秀吉の命令により、豊臣軍は岩槻城攻めにあまり時間をかけられなかった、つまり辛抱強く待つという選択は許されなかったそうです。力攻めを敢行するしかなかった豊臣の兵たちは、どんな思いでここから出陣したのでしょうね。
■訪問:鎧宮八幡神社
(南辻の八幡神社)
[埼玉県さいたま市岩槻区南辻]68
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■参考及び出典
・Wikipedia:2024/1/18
・猫の足あと「鎧宮八幡神社」
https://tesshow.jp/saitama/saitama/shrine_iwa_szji.html
タグ:埼玉