<三峯神社>
訪問した三峯神社の御由緒に、関東郡代・伊奈氏のことが記されているのを見つけました。その部分だけ以下に転記させて頂きます(『』内は原文)。
『江戸時代、関東郡代伊奈半十郎検地の折、三里四方を境内地として除地され、寛文元年 現在の本殿が造営されました。』
伊奈氏は関八州の天領の治水や新田開発、検地で功績を上げ、徳川家の関東支配の基盤整備に大きく貢献した一族です。初代の伊奈忠次から始まり、『関東郡代』を十二代にわたって世襲しました。関東の代官の筆頭というポジションですので、秩父と関りがあってもなんら不思議ではありませんが、直接関与していたあたりに、徳川幕府が三峯神社を優遇していたことが伝わってきます。文中の『除地』とは、その土地の税を免除することを意味しています。
さて
御由緒には『伊奈半十郎』と記されていますが、半十郎はあくまで通称です。伊奈氏歴代当主のうち、複数人が半十郎を名乗りました。具体的にはどなたですかね?
現在の本殿が造営されたのが『寛文元年』となっていますが、これは西暦だと1661年。検地と税の免除がほぼ同時だとすると、この時の関東郡代は伊奈忠克ですので、これが半十郎の正体?かと思いましたが、よく調べると、伊奈忠克の通称は半左衛門でした。ちなみに、忠克の先代であり父である忠治と、後継者で息子の忠常の通称は半十郎です。忠常ですかね?(個人的推測です)
いずれにせよ
徳川幕府の意向と、関東の代官の頭である伊奈氏の尽力もあり、三峯神社は江戸時代におおいに栄えて、庶民にも広く知られるようになりました。
秩父に生息する狼は、猪などから農作物を守る神の使いとされました。
やがては火防や盗賊除けなど御利益の範囲は広がり、神そのものとしてあがめられました。
最後に
伊奈氏による関東郡代世襲は、十二代目の伊奈忠尊が諸事情で改易(1792)となったことで幕引きとなります。伊奈氏そのものが、幕府の中核からは外れることとなりました。ただ、長年に渡る伊奈一族の功績は否定されるものではありませんでした。幕府は伊奈忠治の三男・忠重の子孫にあたる忠盈(ただみつ)に対し、武蔵国秩父および常陸国信太合せて千石を与えて、伊奈氏の名跡を継がせました。伊奈氏と秩父の関係は、その後も続いたということですね。
■訪問:三峯神社
[埼玉県秩父市三峰]298-1
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■参考及び出典
・現地説明板(御由緒)
・三峯神社HP
https://www.mitsuminejinja.or.jp/keidai/
2024年09月09日
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