<池袋四面塔尊>しめんとうそん
こちらです
ちょっと見えにくいですが。石塔の正面には南無妙法蓮蕐經と刻まれています
内部には池袋四面塔尊奉賛会さんによる『四面塔尊の由来』が掲示されています。画像では文字が見えにくいですが、内容は下記の通りです(誤字等ありましたら申し訳ございません)。
『享保の頃(徳川幕府八代将軍吉宗の頃)高田雑司ヶ谷と板橋を結ぶ街道と礫川と東長崎を結ぶ街道の四ツ辻付近(現在の西武線池袋駅東口)は、夕方になると追いはぎや辻斬りが出没し、夜はその難を逃れるため通行する人が途絶えました。
享保六年の夏、一晩で十七名の辻斬り残骸があり、この不祥事を憂いて池袋村民有志六十四人が、雑司ヶ谷鬼子母神威光山法明寺第二十二世日祖上人に供養をお願いし、享保六年九月、法華経のお題目を刻した石塔を建立して無縁仏の霊冥福を供養しました。
正面にはお題目、右側面には、北の方板ばしみち、左側面には、南方高田雑司ヶ谷道が記され、道しるべとしても使われました。
霊験あらたかなこの塔は四面塔尊と称され、以来、法華経の功徳により災難は解消されました。』
いまでは夜でも賑わう池袋ですが、江戸時代には追いはぎや辻斬りが出没するような場所だったようです。追いはぎは強盗、辻斬りは試しに人を斬ることですね。物騒な話ですが、これはこの付近に限ったことではありません。江戸時代、人の往来の少ないところなら、強盗や辻斬りは時々あることでした。
ただ、一晩で17名が犠牲とは酷いですね。しかも吉宗が将軍ということは、家康が江戸に幕府を開いてから百年以上もあとの話です。江戸の整備が進んでも、まだまだ物騒だったわけですね。この事件を機に、犠牲者の供養のための石塔が設けられました。
厳重に施錠されているので石塔は前からしか見ることができませんが、説明文によれば『右側面には、北の方板ばしみち、左側面には、南方高田雑司ヶ谷道』と刻まれ、道標にもなっていたようです。板場は中山道の宿場、雑司ヶ谷は鬼子母神のある古くからの村。暗くなれば物騒な道とはいえ、人の移動には欠かせない道筋だったのでしょう。
ということで
池袋四面塔尊のご紹介でした。
池袋四面塔尊は右側、左は池袋四面塔稲荷大明神です。
■訪問:池袋四面塔尊
[東京都豊島区東池袋]1-50-30
■参考及び抜粋
現地説明
(池袋四面塔尊奉賛会)
お城巡りランキング
タグ:23区