<明暦の大火供養塔>
こちらです
明暦の大火の死者は約10万ともいわれています。城下より高台にある江戸城も例外ではなく、徳川幕府の権力の象徴ともいうべき天守もこの時に焼け落ちました。火災は1657年の3月2日から4日とされていますので、季節でいうとちょうど今頃(明暦3年1月18日から20日)です。明和の大火が1772年4月1日(明和9年2月29日)、文化の大火は1806年4月22日(文化3年3月4日)ですので、江戸三大大火は全て春ということになります。木造建築が根付いている日本にあって、江戸という町は既に過密都市となっていました。火災に弱い木造の都市です。これに春特有の乾燥と強い風が重なり、大惨事になったということでしょうか。
明暦の大火の時、将軍は徳川家綱でした。しかしまだ17歳と若く、復興の指揮はサポート役の保科正之がとったと言われています。会津藩主であり、家光の異母兄弟ですね。焼失した天守の再建を断念し、寺社や徳川御三家を含む武家屋敷の移転や架橋など、城下町の再設計・整備に精力を傾けました。町のなかに空地を確保したり、土蔵造や瓦葺屋根を奨励するなどして、火が燃え広がりにくい町を目指しました。
<本妙寺>ほんみょうじ
現在の本妙寺です。本妙寺は大火後も本郷丸山に再建を許されました。そして、幕府から特別な扱いを受けています。これにより、本当の火元は別の場所(幕府要職の屋敷)で、本妙寺は火元を引受けただけという説もあります。ここ巣鴨に移ったのは明治になってからです。
火事の原因や火元については諸説ありますが、10万人規模の犠牲者がでたことに変わりはありません。安らかな眠りを祈る供養塔は、いまも境内の一角でひっそりと佇んでいます。
■訪問:本妙寺
[東京都豊島区巣鴨] 5丁目
■参考
Wikipedia:2023/3/4
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