米沢市の宮坂考古館を訪問しました。
<宮坂考古館>
宮坂考古館には、初代館長が長年かけて収集した米沢ゆかりの貴重な資料、甲冑や火縄銃といった文化財が収蔵されています。
<公益財団法人>
郷土史の研究に熱心だった館長は、旧米沢藩の文化財が、散り散りになったまま行方がわからなくなることを惜しみ、その収集と保存に力を尽くしたそうです。個人で始めた資料館は、いまは公益財団法人となっています。
<考古館入口>
その集大成を、我々は見学することができるわけです。
<前田慶次>
実は、訪問は初めてではありません。「花の慶次」のファンである私は、慶次所用と伝わる甲冑を見るために、過去に何度かお邪魔させて頂いています。
<宮坂考古館冊子>
受付で頂いた冊子。やはり表紙は前田慶次の甲冑。展示品はそれだけではありませんが、やはり慶次の甲冑見たさに訪問する人は多いようです。
館内は撮影できませんので、冊子に掲載されている甲冑だけでもご紹介させて頂きます。
<冊子裏面を撮影>
左から
伝 上杉謙信所用・伝 上杉景勝所用
伝 直江兼続所用・伝 前田慶次所用
詳細は宮坂考古館のホームページに掲載されています。ここでは、前田慶次の分だけもう少し具体的にご紹介させて頂きます。
朱漆塗 紫絲素掛威 五枚胴具足
しゅうるしぬり
むらさきいとすがけおどし
ごまいどうぐそく
[宮坂考古館HPから引用]
漢字の羅列でちょっととっつきにくいですが、分割すれば納得できます。まず朱の漆を塗るは文字の通りですね。糸が紫もそのまま。素掛(すがけ)は札状の板の上下を重ねることで、次に威ですが、これは「おどし」と読み、糸で札状の板を連結する手法のことです。ですから素掛威(すがけおどし)は札状の板を重ねて糸でつなぐ手法を意味しています。で、胴の板は五枚使用。まぁそんな感じです。冊子だと素掛紫絲威五枚胴具足となっていますが、漢字それぞれの意味は同じです(私は専門家ではないのでその程度に受け止めて下さい)。
南蛮笠風の朱色の兜や、鱗のような模様の袖がひときわ目をひきます。他の武将の風格漂う甲冑とは異なり、かなり個性的だと思います。傾奇者の慶次に相応しい甲冑ですね。出で立ちそのものが、慶次の生き方すら表しているのではないでしょうか。
もっと奇抜でも良いような気もしましたが、新品だとどんな感じだったのでしょうか。そして何より、この甲冑は、数多くの逸話がある前田慶次のどのシーンで身につけたのでしょうか…
私は前田慶次と呼ばせてもらっていますが、正式な名は前田慶次郎利益(とします)。織田信長に仕えた滝川 一益の血縁者、つまりもともとは滝川氏です。諸々の経緯で前田利久の養子となり、前田を名乗りました。あの前田利家の甥となったわけです。のちに出奔し、京などを転々として過ごし、直江兼続と出会いがきっかけで上杉景勝の家臣となりました。上杉家とともに米沢へ移り、晩年は米沢郊外の堂森に居を構えました。
慶次が晩年を過ごしたここ米沢に、本人が使用した甲冑も保存されている。慶次ファンにとっては、感慨深いことです。ちなみに「花の慶次」ではかなりの大男という設定になっていますが、甲冑のサイズは普通でした。
ということで
久々に訪問した宮坂考古館のご紹介でした。
今回は常設の展示とは別に、企画展として上杉家臣団の甲冑も展示されており(期間:令和6年4月16日〜11月24日)、とても満足な訪問となりました。
■訪問:宮坂考古館
[山形県米沢市東]1丁目
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■参考・出典:
・宮坂考古館小冊子
・宮坂考古館HP
https://www.miyasakakoukokan.com/
2024年08月01日
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