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2024年07月31日

2024年(令和6年)米沢詣での帰り道

猛暑がつづく7月下旬、また「米沢詣で」をしてきました。

<米沢駅>
Yonezawa-Station-2024.JPG
8時半には既に米沢に到着していました

<松が岬公園>まつがさき
matsugasakikouen-yonezawa.JPG
いつも通り、まずは松が岬公園へ。米沢城の本丸跡です。

<懸かり乱れ龍>かかりみだれりゅう
Military-Flag-Uesugi.JPG
力強く柔らかな字体で記された龍のひと文字。不動明王を表しています。上杉謙信が掲げた軍旗が風になびいていました。

<英雄たちの像>
x-shirononagori-0228.JPG
上杉の英雄たち。そして上杉神社の鳥居

<上杉神社>
Uesugi-jinja-Shrine-Yonezawa.JPG
ここは特別な場所。いつも凛とした気持ちになります。

さて
ここからどこへ行くのかは、来るたびに違います。やや郊外へ行くこともあれば、市街地でまだ歩いたことがないエリアを探索することもあります。今回はこのあと福島へ向かうつもりだったので、市街地探索としました。昨年は米沢城の北側を歩いたので、東側と南側をゆっくり見て回りながら駅へ向かうことにしました。

<ウコギ垣>
ukogi-fence.JPG
道路沿いにはウコギ垣。ウコギはトゲがあることから防犯に役立つ一方で、薬効もあり、非常食にもなります。江戸時代に下級武士の屋敷の垣根として奨励され、今では米沢の名物となっています。

その後もこまごまと足を止めながら、最終ゴールの宮坂考古館へ

<宮坂考古館>みやさかこうこかん
Miyasaka-Museum-Yonezawa.JPG
Miyasaka-Museum.JPG
[米沢市東1丁目]2-24
かなり久しぶりの訪問となりました。詳細は省略しますが、武将ゆかりの貴重な収蔵品を見学することができます。

<前田慶次>
kabukimono-panel.JPG
私は「花の慶次」のファンです。宮坂考古館には、前田慶次郎所用と伝わる甲冑も展示されています(館内の撮影できません)。初めてお邪魔した時のわくわく感が蘇りました。


<帰り道>
Miyasaka-Kokokan.JPG
満足感を味わって、あとは駅へ向うだけ。宮坂考古館を出たところで、今度は小さな説明板「旧町名由来」に足が止まりました。

<上花沢信濃町>かみはなざわしなのまち
Explanation-board-shinanomachi.JPG
上花沢…花沢はかつての村名として、信濃町とは?

説明文によれば、この付近には信濃から移ってきた下級武士たちが住んだそうです。これが名の由来。また、市内の堂森善光寺に通じる町だからという説もあるようです。

米沢で信濃か…

上杉家はもともとは越後。信濃というと広範囲になってしまいますが、北信濃とは密接な関係にありました。上杉配下の信濃武士が、上杉とともに会津へ移り、最終的に米沢に定着した。よく考えれば、自然な流れです。上杉家において中核となっていた信濃武士も多いかと思いますが、ここではあくまで下級武士の話。彼らは、この付近に居を構えたということのようです。

<信濃町横断歩道橋>
pedestrian-bridge-Shinano.JPG
宮坂考古館のすぐ近くで撮影しました。会津と米沢をむすぶ八谷街道に架けられた歩道橋です。現在の地名だと「東」ですが歩道橋には「信濃町」の文字。この付近、そして更に南へ進んだエリアが、原方衆と呼ばれる半士半農の下級武士たちが暮らしていた場所なのです(現在の地名だと通町や芳泉町など)。

会津120万石から米沢30万石に減封となった上杉家では、連れてきた家臣を全て城下に住まわせることができませんでした。下級武士たちには手つかずの荒地があてがわれ、自力で開拓することが求められました。ほぼ農夫という暮らしながらも、あくまで上杉の武士です。城の南側を守る役割を与えられていました。

あまり意識しないで歩いてきたが、
そういうエリアに既に足を踏み入れていたということか…

そんな感慨深さもありながら、滞在時間が残り少なくなったことから、やや速足で駅へ向かいました。もう寄り道はしない。そのつもりでしたが…道沿いにまた気になるものを見つけてしまいました。

<道沿いの木陰>
Ibokororijizo-Yonezawa.JPG
なんだこの光景は…

かなり古い二体のお地蔵さん。『いぼころり地蔵』と記されていました。「いぼ地蔵」とか「いぼ取り地蔵」という言葉はよく耳にしますので、それと同じでしょう。まわりの小さな石でこすると、イボが取れるのだそうです。まぁイボといっても、軽いものから悪性のものまであり、症状はまちまち。昔はいまと違って、身近にして深刻なものだったのでしょう。

左手の説明板には『ここは昔の原方士族(半士半農)の村はずれ』と記されています。そう、むかしこの付近を通り過ぎたのは、城下からはみ出した下級武士たちです。彼ら、そしてその家族は、道沿いのこの地蔵尊に、切実な願いを込めていたのかもしれません。

<いぼころり地蔵>
Ibokorori-Jizo-Yonezawa.JPG
このお地蔵さんは、そんな人たちの人間模様をずっと見てきたわけですね。かなり疲れたご様子ですが、そう思うと尊いお姿に映ります。

原方衆の暮らしの場は、城下と比べれば決して恵まれた環境ではなかったはず。それでも、あくまで米沢藩士です。強い集団に欠かせないのは現場の力。そして当時の経済の基本はなんといっても農業。土と向き合った武士たちの奮闘が、困窮した米沢藩の財政再建に大きく貢献したことは言うまでもないことですね。


ということで
米沢へ来ると指導者たちに思いを馳せることが多いのですが、今回はそんなことを再認識する帰り道となりました。

<原方衆の地蔵>
Ibokorori-Jizo-Harakata.JPG
ご利益はイボ取りだけではなさそうですね

令和6年7月

----------■ 参考画像 ■----------
参考として別の日に芳泉町で撮影した画像を貼っておきます。
<下級武士屋敷跡>
sirononsgori YONEZAWA 149b  (1).jpg
原方衆と呼ばれる下級武士の屋敷跡です。右手前に映っているのはウコギの垣根。藩の改革を推し進めた上杉鷹山が推奨したと伝わります。


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posted by Isuke at 05:00| Comment(0) | TrackBack(0) | その他
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