つわものどもが夢の跡
今回は関東七名城のひとつに数えられる山城です。
<金山城>かなやまじょう
復元された大手虎口
■山 城■
群馬県太田市の金山城は、標高239mの山全体を利用した山城。独立峰に築かれているので厳密には平山城となりますが、当ブログでは山城で通します。自然の地形を巧みに利用し、山頂を城の中心部として四方に延びる尾根上に曲輪を配置する連郭式山城です。斜面の要所要所には堀切や土塁が設けられ、戦国時代の城としては関東屈指の名城といえます。関東七名城のひとつ、そして日本100名城にも選定されています。
<物見台>
■石 垣■
戦国期の関東の山城で、石垣や石敷が多用されているのは大変珍しいケースです。
<石垣・石敷>
現在の金山城の復元については賛否ありますが、発掘調査の裏付けがあってのことなので、私個人は好意的に見ています。というより、この城で山城の魅力に取りつかれたといっても過言ではないので、むしろ感謝しています。資料館『金山城跡ガイダンス施設』の係の人に、金山城の仕組みを模型を使って説明してもらったことで、山城の構造に興味を持つようになりました。ですから、金山城は私にとっていわば教科書のような存在なのです。
頂いたパンフレットです。資料館ではパネルなどを使って歴史についても丁寧な紹介がなされています。
■広い敷地■
金山城は絶妙の地形に加えて、広さにおいても山城としては大きな部類と言えます。
独立丘陵に築かれています。山頂付近に設けられた実城(みじょう)を中心に、北城・西城、そして南側に八王子山ノ砦などが配置されています。冒頭で縄張りを連郭式とご紹介しましたが、複数の砦がエリアごとに設けられていたという印象です。これらの他に、金山の麓には屋敷なども設けられていたと考えられており、中世の城としてはかなり凝った縄張りだったようです。つまり攻めるに難儀な城といえます。
■新田の流れを汲む城■
城の始まりについては、あの新田義貞が砦を築いた時とする説もあります。ただ、調査による裏付けがなされていないことから、築城者は新田氏の子孫にあたる岩松家純とするのが一般的です。岩松氏の家系は足利氏の支流にあたりますが、諸事情から母方の家系である新田一族であることを自称しました。身内の同士の対立や分裂ののち、家純が長らく遠ざけられていた本領・新田荘への復帰を果たし、岩松氏はようやく統一されます。この時に築かれたのが金山城です(1469年)。
■横瀬氏の下剋上■のちの由良氏
岩松氏を取りまとめた家純ですが、当時の関東管領と古河公方の対立を背景に、方針を巡って長男の明純を勘当するに至り、舵取りを家臣の横瀬国繁に任せます。執事に就任した国繁の働きかけにより、明純の子である尚純は金山城へ戻りますが、明純が許しを得ることはありませんでした。
1494年に長きに渡って家を束ねてきた家純が86歳で没してしまうと、内部の揉め事が再燃。重臣である横瀬氏と、既に金山城を去っていた明純の対立です。明純は実子である尚純を味方につけ、重臣からの権力奪還のために金山城を攻めますが、堅城はそう簡単に落とせません。この対立は、尚純の子である昌純(夜叉王丸)を当主とすることで決着し、尚純も父とともに失脚することとなります。横瀬氏は幼い当主を抱えながらも、これで実質は全権を握ることになります。やがて成長した昌純は横瀬氏により殺害され(1528年)、跡を継いだ弟は自害に追い込まれます。
実権を握った横瀬氏は、由良氏に改称。その名は、かつて新田氏宗家が代々相伝していた上野国新田郡由良郷に由来します。由良氏は自らを新田家の子孫と称しました。
結構省略していますが、ちょっと説明が長すぎましたかね?
要するに
岩松氏により築かれた金山城は、下剋上で実権を握った由良氏の城となった。
まぁそういうことです。
■激戦区の山城■
現在の群馬県は戦国時代の激戦区です。関東の武士は、上杉・武田・北条の巨大勢力に翻弄され続けます。金山城を手中に収めた由良氏も同じでした。関東に出陣する上杉謙信に城を攻められ、これに属すると今度は武田信玄や北条氏康に攻められる。
現在の群馬県太田市
位置的に厳しいですね
やがて小田原北条氏の勢力が拡大すると、由良氏は上杉に反して北条側に寝返ります。これにより北からは上杉謙信、そして東からは謙信と結ぶ常陸国の佐竹氏に攻められることになります。ただ関東制圧を目指す北条氏康が由良氏を孤立させることはなく、武勇の誉れ高い北条氏照を援軍に向かわせます。関東の覇権争いにおいて、金山城がいかに重要な城だったか伝わってきますね。
■越相同盟の仲介役■えつそうどうめい
1569年、北条氏康と上杉謙信の和睦が設立。双方は共通の敵である武田信玄に備えることとなります。このいわゆる越相同盟の成立に、元上杉家臣である由良成繁は和睦仲介役として貢献しています。
この頃の由良氏は、北条配下で一定の地位と独立を保つ一方で、地元では勢力拡大も実現し、現在の群馬県東部の覇者として君臨しています。由良氏の歴史をざっと調べた程度で言うのもなんですが、勢力という意味ではこの辺りがピークだったかもしれません。
■軍神でも落とせず■
越相同盟から2年後、上杉謙信や武田信玄と渡り合ってきた小田原北条氏の第3代当主・氏康が没します。第4代当主となった氏政は、上杉との軍事同盟を解消。武田信玄と手を結ぶ選択をします(1571年:第二次甲相同盟)。
この影響を受け、金山城は上杉謙信によって5度に渡り攻められることになります。軍神と呼ばれた男に5回も!しかし由良氏が守る山城が落とされることはなく、謙信は攻略できないまま越後に兵を引き揚げています。
難航不落
よく耳にする言葉ですが、それに相応しい城なのではないでしょうか。
■北条氏への明け渡し■
巨大勢力の狭間でなんとか生き残ってきた由良氏ですが、武田信玄も上杉謙信もこの世を去り、関東での北条氏の力が圧倒的となると、もはやこれに逆らうことは許されなくなります。
1582年、小田原北条氏第5代当主・氏直は、佐竹氏を攻めることを理由に金山城の借用を当主・由良国繁に要請。反発した家臣たちによる城立て籠りがあったものの、ほどなく北条氏へ明け渡されることになりました。
落とされたのではなく
政治的な理由での明け渡し
いろんな評価があろうかと思いますが、難航不落の山城を拠点としてきた由良氏は、逆に城を捨てることで生き延びたような気がします。そう感じる背景には、由良氏が徳川の時代には高家として扱われ、明治維新を迎えている事実があります。
■訪問記■
城跡巡りは原則独りですが、この日の散策は久しく会っていなかった旧友たちと。私は何度か訪問経験があるので、ちょっとだけ案内人のような気分で秋の金山を登っていきました。駐車場がある付近が金山城の中でも西城とよばれるエリア。そこから実城と呼ばれる頂上付近、つまり本丸を目指しました。
<西矢倉台西堀切>
攻め手の侵入を鈍らせるための堀切(ほりきり)です。大きな意味では堀のことです。まぁ山城特有の堀という理解で良いと思います。このルートでけでも、山頂までに複数の堀切を確認できました。城兵の通路としても利用されていたようです。
<馬場下通路>
この位置からはよく分かりませんが、この通路は進んで行っても行き先が二手に分かれ、どちらを選んでも本丸へ辿り着くことはなく、逆に城兵の餌食になるようになっています。戦いは騙し合い。それが形となっている場所です。
<大手口馬場址>
<大手虎口>
金山城の歴史は長いですが、戦国時代の末期を再現したものだそうです。
戦国期の関東の山城に石垣は無いとされる常識が覆った城跡です。当時は『土の城』が主役でしたからね。
雨水を効率よく排出するための石組み排水路
<日ノ池>
枯れることがないと言われる城内の溜池です。直径約16m(17m?)。山頂付近にも関わらず、水が湧き出るとされていますが、城内に整備された排水路の役割が大きいと思われます。造りといい神秘的な感じがしますね。何らかの信仰の場とも考えられています。
<月ノ池>
こちらも石垣で囲まれた城内の溜池です。大手虎口付近に位置し、直径は約7m。
<本丸跡>
標高239mに築かれた山城の頂上は、現在新田神社となっています。関東平野を一望に収めることができます。
<新田神社拝殿>
新田義貞を祭神として祀る神社です
■つわものどもが夢の跡■
あの太田道灌が難攻不落の要害と賞賛した城。そして軍神とまで言われた上杉謙信が5度も攻めながら落とせなかった山城です。そんな関東屈指の名城も、1590年に豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼすと、城としての役割を終えました。
--------■ 金山城 ■--------
別 名:新田金山城
築城年:1469年(文明元)
築城者:岩松家純
(新田一族)
改修者:小田原北条氏
城 主:岩松氏 由良氏
北条氏
廃 城:1590年(天正18)
[ 群馬県太田市金山町 ]
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2020年04月18日
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コメントありがとうございます。GORIさんの記憶と拙ブログの内容が化学反応をおこしてくれたようで嬉しいです。城ブログなので廃城で終わりにしましたが、金山は後に別の意味で注目されます。ここで採れる松茸が徳川幕府に長きにわたり献上され、やがて金山は幕府直轄林となりました。つわものどもが夢の跡は、やがて松茸の産地となったのです。
興味深い記事をアップしていただいて感謝します。楽しめました!