今回は上杉謙信の遺骸が納められていた御堂の話です。場所は米沢城本丸跡です。
■上杉謙信祠堂跡■うえすぎけんしんしどう
上杉謙信の居城といえば越後の春日山城ですね。戦国最強の武将といわれた謙信は、春日山城で生まれ、春日山城で没しました(49歳)。遺骸は城内に祀られましたが、継承者の上杉景勝が豊臣秀吉から国替えを命じられて会津120万石を領することになると、越後の地を離れることになります。やがて関ヶ原の戦いで西軍に組した上杉家が、徳川家康の命で出羽米沢30万石へ削封されると、謙信の亡骸も米沢へと移されました。
上杉景勝の命により、米沢城の本丸に謙信公祠堂が創設されます。それ以降、謙信の遺骸を納めた御堂は、米沢城内の特別な場所であり続けました。
<上杉謙信公祠堂跡>
この階段の先ですね
<祠堂跡の石碑>
ありました。平城の米沢城としては最も高い場所です
<説明板>
亡くなった謙信の遺骸は『甲冑を着せ甕に納め、漆で密閉したと言われている』とのこと。甲冑姿のままカメに収められたようです。また『遺骸の左右に善光寺如来と泥足毘沙門天像が置かれ』たと記されています。謙信とともに祀られていたということですね。ひとつは、いわゆる長野の善光寺に由来する阿弥陀如来像。そして泥足毘沙門天像ですが、こちらは謙信ファンの方の間では有名な話に由来する仏像です。ある時、戦から帰って毘沙門堂へ上がった謙信が見たものは、毘沙門天像まで続く泥の足跡でした。謙信は毘沙門天が共に戦ってくれたと受け止め、その毘沙門天像を泥足毘沙門天と呼ぶようになった。 幼少より深い信仰心を持っていた謙信らしい逸話です。御堂はなくなり、善光寺如来像と泥足毘沙門天像は、現在米沢市内の法音寺に祀られています。
<上杉謙信公祠堂跡>
城下を見渡せる場所に祀られていたわけですね。上杉謙信の遺骸は、江戸時代を通してここに安置されていました。ずっと上杉の町を見守っていた。そんな印象を受けました。
<高台>
城外から撮影。一番高い位置が御堂があった場所です。城に出入りする者たちにとって、特別な意味を持つ場所だったのでしょう。上杉謙信は最強の戦国武将であっただけでなく、死してなお長きに渡って上杉家臣団の心の支えであり続けたわけですね。
やがて明治になり、米沢城は廃城。謙信の遺骸は上杉家歴代の墓所に移されます。そして、ずっと米沢城とともにあった謙信の魂を祀るべく、上杉神社が建立されました。
<上杉家廟所>うえすぎけびょうしょ
亡骸は米沢藩歴代藩主たちの墓所へ
<上杉神社>
謙信の魂が祀られています
上杉謙信は本来越後の人
でもここ米沢にいると受け止めています
■訪問:上杉謙信公祠堂跡
米沢城本丸跡(松が岬公園)
[山形県米沢市丸の内]
2019年12月13日
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