上杉と最上が激突した北の関ヶ原(慶長出羽合戦)。最上義光の居城・山形城の支城として上杉軍を苦しめた上山城(かみのやまじょう)。そのなごりを求めて、山形県上山市を訪問しました。二十四あったといわれる山形城の支城で、上杉軍の猛攻に屈しなかったのは長谷堂城とここ上山城だけです。
<現在の上山城>
あれ、ちょっと立派過ぎるんですが!
堅城と呼ばれた中世の山城。私にとって、上山城とはそういう城。これは明らかに別の世界ですね。早々と廃城になった長谷堂城とは異なり、上山城は江戸時代を通して町の中心であり続けました。
※長谷堂城訪問記→記事へ進む
■米沢と山形の狭間で■
上山は、古くから米沢の伊達氏と山形の最上氏が、その支配権をめぐって衝突する場所でした。両勢力の間に位置しています。これはこの地の宿命ですね。
■北の関ヶ原■ 戦の重要拠点
伊達氏に続いて米沢を支配したのは上杉家です。日ノ本が東軍と西軍に分かれて戦った際には、2万を数える上杉軍が最上領へ侵攻。支城は次々と落とされ、残る支城は長谷堂とここ上山だけになりました。
この時に上山城を任されたのは里見民部(さとみみんぶ)。上杉軍本体から派遣された別働隊を迎え討ち、見事に撃退しました。籠城で耐えたというより、周囲に伏兵を潜ませ、奇襲で勝ったようです。大手柄ですね。ただこの後、里見民部は最上義光との不仲が原因で、最上家を去りました。
里見民部という剛の者。勿体ないですね。ここに書ききれませんが、かなりドロドロで複雑なことになってしまい、あまりいい事はありませんでした。ただそれも元々の強い気質と、そこへ至る経緯があってのこと。それら全てをもって、里見民部らしいと思うしかありませんね。
■上山藩成立■ 城下町・宿場町
上山城は、その後も最上家の身内が城主を務めます。しかし最上義光亡き後、お家騒動(最上騒動)で改易され、城は没収となります。最上家による上山支配はここで終わりました。先述の「長谷堂城」はこの時に廃城。しかし、ここ上山城は統治のための城として、その後も長く存続しました。
能見松平家の松平重忠が4万石で城主となり、上山藩を立藩。以降は城主を務める氏族が次々と変わり、城も改修されたり取り壊されたりして形が変わりますが、上山藩そのものは幕末まで続きました。
まぁ誰が殿様でも、統治の城があれば秩序は保たれ人も集まります。もともと街道の宿場町だったこともあり、上山は栄えます。古くから温泉も発見されていましたので「温泉宿場城下町」ですかね。山形と米沢に挟まれた場所ですから、二つの勢力が争った頃はいろいろと難儀だったかもしれませんが、太平の世となれば、逆に好条件と言えます。
■つわものどもが夢の跡■
<模擬天守>
戦国期には生々しい戦闘のあった場所です。そして江戸時代を通して町の中心だった場所。今では、江戸期の本丸跡には月岡神社が祀られ、二ノ丸跡は公園となっています。そして鉄筋で造られた天守。「羽州の名城」は、郷土資料館として生まれ変わりました。
実は城跡巡りを始めた当初、観光施設としての城の再現はあまり好きではありませんでした。史実の痕跡。それだけで充分だと思っていたわけですね。ただ、模擬天守を見上げる子供の姿とか、充実した資料館とか、そんな光景をいろんな城跡で見かけるうちに、考え方も変わりました。ここ上山城についても、もともとの天守とは形が異なり、場所もかつての本丸ではありません。ただ立派ではないですか。どうせならこのくらい立派にやって欲しい。マニアの細かい拘りは意識の彼方に追いやられ、ごくごく自然に「綺麗だ」と感じました。
闘うためでも治めるためでもありません。歴史ある城下町の象徴として、天守が堂々たる姿を見せてくれています。
--------■ 上山城 ■--------
別 称:月岡城
築城者:武衛義忠(上山氏)
城 主:上山氏 他多数
築城年:1535年
改修者:松平重忠
廃城年:1873年
[ 山形県上山市元城内 ]
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2017年08月16日
2017年08月14日
北の関ヶ原・激戦の山城 長谷堂城
関ヶ原の戦いと同じ日。遠く離れた北の大地でも、西軍と東軍が激しく戦っていました。
■ 長谷堂城 ■ はせどうじょう
<菅沢山から見た長谷堂城>
現在の山形市南部に位置する山城です。最上氏の居城・山形城にとって、防衛のための重要な支城の一つでした。歴史は古いものの、その存在が大きくクローズアップされたのは慶長出羽合戦の時。米沢から北上してくる上杉の大軍を、長谷堂城は最前線で受けとめました。
■ 慶長出羽合戦 ■ 北の関ヶ原
慶長5年(1600年)に出羽国で行なわれた合戦。具体的には、かねてから緊張状態にあった上杉景勝(西軍)と最上義光(東軍)の激突です。この時点では、上杉120万石対最上25万石。明らかに最上側が不利ですね。まず上杉側が重臣・直江兼続を総大将に最上領へ侵攻し、最上側の支城を次々と攻略。当主にしてこの戦の総大将・最上義光は、甥の伊達政宗に援軍を要請し、自らも出陣。最終的には、上杉軍対最上・伊達連合軍の戦いとなりました。
■ 長谷堂城の戦い ■
長谷堂は慶長出羽合戦の主戦場となった場所です。この地で戦いが始まったのは、くしくも関ヶ原と同じ慶長5年9月15日。長谷堂城は集結した上杉軍1万8千に包囲されました。
<上杉軍本陣跡>菅沢山
上杉軍総大将は直江兼続。2万を率いて米沢方面から最上領内に攻め入りました。長谷堂城と並んで堅城と呼ばれる上ノ山城(かみのやまじょう)に2千の兵を送り、自身はここ長谷堂の地で采配を振ります。城の目と鼻の先にある「菅沢山」に陣取りました。
一番最初の画像は、その菅沢山から撮影しました。カメラだとやや遠く見えますが、肉眼では本当にすぐ近くです。攻める側も守る側も、かなりの緊張状態だったでしょうね。一瞬のことではなく、昼も夜もいつもですから。水田が広がっているのが見えますね。合戦の時も、城の周辺は稲田だったと伝わります。
<展示されている推定復元図>
[現地撮影(学習研究社)]
城を任されたのは最上家屈指の智将・志村光安(しむら あきやす)。そして副将格として、これもまた最上家屈指の名将である鮭延秀綱(さけのべひでつな)が入城。説明図にも、山の頂上主郭付近にこの二人の名が記載されています(オレンジ色)。千人という少数ながら精鋭を集結させ、上杉の大軍の前に立ちはだかりました。山城をかすめるように天然の川(本沢川)が流れています。推定図では、この川から水をひいて、掘削した堀を水堀としたようになっていますね。
一方、山城の右上に描かれているのが菅沢山(上杉本陣)。直江兼続のほかに、春日右衛門・色部修理・上泉主水の名があります。少し距離を置いたところには杉原常陸の名も。攻める側もそうそうたるメンバーですね。
この状況、千人対1万8千人です。城を出てまともに激突したら、最上側に勝ち目はありません。堅城の強みを生かし、まずは籠城。そう思わせておいて、夜襲を仕掛けて上杉軍を翻弄。また籠城する最上軍に対し、上杉軍は刈田狼藉(敵側の田畑を荒らす・あるいは収穫物を略奪する行為)で誘い出そうとしますが、智将・志村光安はこれに乗らず、直江兼続に対し「笑止」という返礼を送ったとされます。「笑わせるなアホ」という意味。アホは私の個人的な解釈ですが、とにかく老獪ですね。副将格の鮭延秀綱も、手勢を連れて城を出ては上杉軍を翻弄。敵の総大将に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」とまで言わせる活躍でした。
<縄張り図>
長谷堂城は独立峰に築かれた典型的な山城。構造的にも優れています。しかし「難攻不落の城」と呼ばれる所以は、大軍を前に必死で戦う城兵たち、そしてこの上杉軍との戦いの実績です。長谷堂城より前に上杉軍に立ちはだかった畑谷城(はたやじょう)では、城主・江口五兵衛光清を含む五百の城兵が全員討ち死にしています。いくら戦国の世でも、全員というのは珍しいケース。最上軍の士気がいかに高いか、それを物語っていると思います。
<パンフレット>
私の訪問時には、説明板の左下に無料パンフレットがありました。山形市作成「長谷堂城跡公園散策マップ」です。頂きました。ありがとうございます。公園内のみどころや、おすすめ周遊コースなど、いろいろと丁寧に記載されています。そしてこの城の遺構(土塁・曲輪など・写真付き)や歴史についても。
上杉軍は米沢方面(つまり南側)から最上領に侵攻すると同時に、当時やはり上杉の領地だった庄内地方(まぁ北側と思って頂ければよいかと)からも兵を進めています。これらの総称が慶長出羽合戦。長谷堂城の戦いは、そのなかでも最大の戦いとなりました。
■ 山城探索 ■
<薬研堀>
城の手前で堀の一部が復元されていました。ちょっと綺麗すぎますし、実際にはこんな程度ではなかったはず。まぁ雰囲気は味わいました。要するに、この付近より先は既に城内ということですね。
<長谷堂城の入口>
私はここから登ってみました。標高230mですが、麓からの高さで85mの小規模な山です。小規模といっても、城としては結構な広さになります。
<登山道>
山城らしい雰囲気が漂いますが、残念ながらこれは中世の登山道ではありません。現在は長谷堂城跡公園として整備されていますので、ある程度時間は要しますが、ウォーキングの感覚で登って行けます。頂上直前で、ちょっとだけ険しくなるだけです。私の訪問は夏。蚊の大軍に襲われました。訪問する人はそれなりの準備が必要です。
<山城の頂上>
主郭に到着しました。長谷堂城の天守からの眺め。中央に見える高層ビルの辺りが最上義光の居城「山形城」です。8q程度。この日は遠くまで見渡せました。味方の城を遠くに、そして敵の陣を目の前にして、立て籠もる兵たちはどんな気持ちで戦ったのでしょうか?私だったら「総大将、早く助けに来てくだされ」と思うことでしょう。しかし士気の高い最上の城兵は屈しません。関ヶ原の戦いが僅か一日で終わったことも知らないまま、城兵たちは約半月間も奮闘します。
■最上義光出陣■伊達軍も到着
9月21日 伊達の援軍
最上義光の依頼に応えて政宗が派遣した伊達政景(=留守政景:政宗にとって叔父)が率いる約3千の軍勢が到着。
9月25日 最上義光出陣
山形城を出陣し、自ら本隊を率いて長谷堂城救出へ向かいます。
上杉軍1万8千と最上・伊達連合軍1万2千の総力戦となりました。ただいきなり激突することはなく、しばらく緊張状態が続きます。これには諸説ありますが、上杉・最上双方が、美濃国関ヶ原の戦況が分るまで様子を見ていたとも考えられています。そして9月29日、会津若松城の上杉景勝より、関ヶ原の戦いの報せが直江兼続のもとへ届きます。石田三成率いる西軍の大敗を知り、上杉軍は兵を退くことに。ここでこれ以上犠牲を出しても意味が無いということですね。最上側にも10月1日には報せが届き、最上義光は自ら先頭にたって撤退する上杉軍を追いかけます。長谷堂城を任されていた志村光安もこの追撃に加わり活躍。この最上軍の追撃は相当激しいものになりましたが、上杉軍は総大将・直江兼続が自ら殿(しんがり=撤退する軍の最後尾で敵を食い止める役割)を務めてこれを防ぎ、最上領内から去っていきました。
慶長出羽合戦における最大の激突「長谷堂城の戦い」はこれで終わりました。
■つわものどもが夢の跡■
上杉の大軍を退けた長谷堂城。それから約二十年後の話になりますが、お家騒動により最上家は城も領地も没収となります。西軍上杉と戦った功績で57万石にまでなった最上家ですが、終焉を迎えます。幕府は領内各地に軍勢を向かわせ、城の明け渡しを要求。長谷堂城を任されたのは、米沢30万石の藩主となっていた上杉景勝でした。最上義光も直江兼続も、既にこの世を去った後の出来事。難攻不落の山城は、その後まもなく廃城となりました。
------■ 長谷堂城 ■------
別 名:亀ヶ城
築城年:不明
築城者:最上氏
城 主:最上氏・志村氏・坂氏
廃城年:1622年
[ 山形県山形市長谷堂 ]
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■ 長谷堂城 ■ はせどうじょう
<菅沢山から見た長谷堂城>
現在の山形市南部に位置する山城です。最上氏の居城・山形城にとって、防衛のための重要な支城の一つでした。歴史は古いものの、その存在が大きくクローズアップされたのは慶長出羽合戦の時。米沢から北上してくる上杉の大軍を、長谷堂城は最前線で受けとめました。
■ 慶長出羽合戦 ■ 北の関ヶ原
慶長5年(1600年)に出羽国で行なわれた合戦。具体的には、かねてから緊張状態にあった上杉景勝(西軍)と最上義光(東軍)の激突です。この時点では、上杉120万石対最上25万石。明らかに最上側が不利ですね。まず上杉側が重臣・直江兼続を総大将に最上領へ侵攻し、最上側の支城を次々と攻略。当主にしてこの戦の総大将・最上義光は、甥の伊達政宗に援軍を要請し、自らも出陣。最終的には、上杉軍対最上・伊達連合軍の戦いとなりました。
■ 長谷堂城の戦い ■
長谷堂は慶長出羽合戦の主戦場となった場所です。この地で戦いが始まったのは、くしくも関ヶ原と同じ慶長5年9月15日。長谷堂城は集結した上杉軍1万8千に包囲されました。
<上杉軍本陣跡>菅沢山
上杉軍総大将は直江兼続。2万を率いて米沢方面から最上領内に攻め入りました。長谷堂城と並んで堅城と呼ばれる上ノ山城(かみのやまじょう)に2千の兵を送り、自身はここ長谷堂の地で采配を振ります。城の目と鼻の先にある「菅沢山」に陣取りました。
一番最初の画像は、その菅沢山から撮影しました。カメラだとやや遠く見えますが、肉眼では本当にすぐ近くです。攻める側も守る側も、かなりの緊張状態だったでしょうね。一瞬のことではなく、昼も夜もいつもですから。水田が広がっているのが見えますね。合戦の時も、城の周辺は稲田だったと伝わります。
<展示されている推定復元図>
[現地撮影(学習研究社)]
城を任されたのは最上家屈指の智将・志村光安(しむら あきやす)。そして副将格として、これもまた最上家屈指の名将である鮭延秀綱(さけのべひでつな)が入城。説明図にも、山の頂上主郭付近にこの二人の名が記載されています(オレンジ色)。千人という少数ながら精鋭を集結させ、上杉の大軍の前に立ちはだかりました。山城をかすめるように天然の川(本沢川)が流れています。推定図では、この川から水をひいて、掘削した堀を水堀としたようになっていますね。
一方、山城の右上に描かれているのが菅沢山(上杉本陣)。直江兼続のほかに、春日右衛門・色部修理・上泉主水の名があります。少し距離を置いたところには杉原常陸の名も。攻める側もそうそうたるメンバーですね。
この状況、千人対1万8千人です。城を出てまともに激突したら、最上側に勝ち目はありません。堅城の強みを生かし、まずは籠城。そう思わせておいて、夜襲を仕掛けて上杉軍を翻弄。また籠城する最上軍に対し、上杉軍は刈田狼藉(敵側の田畑を荒らす・あるいは収穫物を略奪する行為)で誘い出そうとしますが、智将・志村光安はこれに乗らず、直江兼続に対し「笑止」という返礼を送ったとされます。「笑わせるなアホ」という意味。アホは私の個人的な解釈ですが、とにかく老獪ですね。副将格の鮭延秀綱も、手勢を連れて城を出ては上杉軍を翻弄。敵の総大将に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」とまで言わせる活躍でした。
<縄張り図>
長谷堂城は独立峰に築かれた典型的な山城。構造的にも優れています。しかし「難攻不落の城」と呼ばれる所以は、大軍を前に必死で戦う城兵たち、そしてこの上杉軍との戦いの実績です。長谷堂城より前に上杉軍に立ちはだかった畑谷城(はたやじょう)では、城主・江口五兵衛光清を含む五百の城兵が全員討ち死にしています。いくら戦国の世でも、全員というのは珍しいケース。最上軍の士気がいかに高いか、それを物語っていると思います。
<パンフレット>
私の訪問時には、説明板の左下に無料パンフレットがありました。山形市作成「長谷堂城跡公園散策マップ」です。頂きました。ありがとうございます。公園内のみどころや、おすすめ周遊コースなど、いろいろと丁寧に記載されています。そしてこの城の遺構(土塁・曲輪など・写真付き)や歴史についても。
上杉軍は米沢方面(つまり南側)から最上領に侵攻すると同時に、当時やはり上杉の領地だった庄内地方(まぁ北側と思って頂ければよいかと)からも兵を進めています。これらの総称が慶長出羽合戦。長谷堂城の戦いは、そのなかでも最大の戦いとなりました。
■ 山城探索 ■
<薬研堀>
城の手前で堀の一部が復元されていました。ちょっと綺麗すぎますし、実際にはこんな程度ではなかったはず。まぁ雰囲気は味わいました。要するに、この付近より先は既に城内ということですね。
<長谷堂城の入口>
私はここから登ってみました。標高230mですが、麓からの高さで85mの小規模な山です。小規模といっても、城としては結構な広さになります。
<登山道>
山城らしい雰囲気が漂いますが、残念ながらこれは中世の登山道ではありません。現在は長谷堂城跡公園として整備されていますので、ある程度時間は要しますが、ウォーキングの感覚で登って行けます。頂上直前で、ちょっとだけ険しくなるだけです。私の訪問は夏。蚊の大軍に襲われました。訪問する人はそれなりの準備が必要です。
<山城の頂上>
主郭に到着しました。長谷堂城の天守からの眺め。中央に見える高層ビルの辺りが最上義光の居城「山形城」です。8q程度。この日は遠くまで見渡せました。味方の城を遠くに、そして敵の陣を目の前にして、立て籠もる兵たちはどんな気持ちで戦ったのでしょうか?私だったら「総大将、早く助けに来てくだされ」と思うことでしょう。しかし士気の高い最上の城兵は屈しません。関ヶ原の戦いが僅か一日で終わったことも知らないまま、城兵たちは約半月間も奮闘します。
■最上義光出陣■伊達軍も到着
9月21日 伊達の援軍
最上義光の依頼に応えて政宗が派遣した伊達政景(=留守政景:政宗にとって叔父)が率いる約3千の軍勢が到着。
9月25日 最上義光出陣
山形城を出陣し、自ら本隊を率いて長谷堂城救出へ向かいます。
上杉軍1万8千と最上・伊達連合軍1万2千の総力戦となりました。ただいきなり激突することはなく、しばらく緊張状態が続きます。これには諸説ありますが、上杉・最上双方が、美濃国関ヶ原の戦況が分るまで様子を見ていたとも考えられています。そして9月29日、会津若松城の上杉景勝より、関ヶ原の戦いの報せが直江兼続のもとへ届きます。石田三成率いる西軍の大敗を知り、上杉軍は兵を退くことに。ここでこれ以上犠牲を出しても意味が無いということですね。最上側にも10月1日には報せが届き、最上義光は自ら先頭にたって撤退する上杉軍を追いかけます。長谷堂城を任されていた志村光安もこの追撃に加わり活躍。この最上軍の追撃は相当激しいものになりましたが、上杉軍は総大将・直江兼続が自ら殿(しんがり=撤退する軍の最後尾で敵を食い止める役割)を務めてこれを防ぎ、最上領内から去っていきました。
慶長出羽合戦における最大の激突「長谷堂城の戦い」はこれで終わりました。
■つわものどもが夢の跡■
上杉の大軍を退けた長谷堂城。それから約二十年後の話になりますが、お家騒動により最上家は城も領地も没収となります。西軍上杉と戦った功績で57万石にまでなった最上家ですが、終焉を迎えます。幕府は領内各地に軍勢を向かわせ、城の明け渡しを要求。長谷堂城を任されたのは、米沢30万石の藩主となっていた上杉景勝でした。最上義光も直江兼続も、既にこの世を去った後の出来事。難攻不落の山城は、その後まもなく廃城となりました。
------■ 長谷堂城 ■------
別 名:亀ヶ城
築城年:不明
築城者:最上氏
城 主:最上氏・志村氏・坂氏
廃城年:1622年
[ 山形県山形市長谷堂 ]
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2017年03月14日
九戸城を訪ねた勢いで・・・四戸城(二戸市)
二戸市を訪れたついでにと言っては失礼ですが、四戸城跡を訪問しました。南部氏が九戸城を攻めた時に、拠点となった城跡です。
■ 四戸城 ■しのへ
<四戸城跡>
現地までなんとかたどり着き、地元の人に場所を尋ねると、「石しかないよ」と笑われました。行ってみると、たしかに四戸城跡を示す標柱と大きな石があるだけ。石は「ベゴ石」と呼ばれているとのこと。あとは周辺に墓地が確認できるだけ。地形だけで判断すると、ちょっとした高台を利用した城だったように思えました。
<説明>
何か書いてありますね。画像下の説明部分です。
『四戸城は上館、中館、下館の3つの曲輪からなっている。
南部氏の一族とされる四戸氏の居城であったが、四戸氏がいつ頃から当地に居住したのかは良く分かっていない。
戦国時代末期、城主四戸宗泰の妹は、九戸城主九戸政実の妻で、また宗泰の妻は政実の叔母であった。
四戸氏は、二戸地方で絶大な勢力を持っていた九戸氏とは親しい間柄であった。
しかし、天正19年・・・・九戸の戦いを前に・・・(以下読めず)』
なるほど
『城主四戸宗泰の妹は、九戸城主九戸政実の妻』
『九戸氏とは親しい間柄』
だったわけですね。
しかし諸事情から四戸氏はこの地を去り、四戸城は九戸政実と対立する南部信直方の居城となりました。四戸氏も九戸氏も南部支族。大きな意味では身内なんですがね。いつの時代でも、人間関係は難しいのですね。九戸政実にとって、この地は途中までは友好の城、南部氏と関係が悪化してからは敵方の拠点だったことになりますね。
そして
『上館、中館、下館の3つの曲輪からなっている』
という説明。なるほど、ならばその痕跡を探すのが城マニア。これこそ城跡巡りの楽しみのですね!
しかし
<遺構の画像>
(ありません・・・)
撮影しなかった訳ではなく、カメラの電池切れでもありません。
実は、探索できませんでした。
城跡と思われる敷地は結構広く、この日はそうとう寒く、更に九戸城探索で体力を使い切ってしまい、もう気力が残っていませんでした。ここまで来たのですがね。曲輪と曲輪の間の堀くらいは確認したかったです。今から思えばですが…
仕方がないので帰宅してから他の方のブログで確認。皆さん詳しく調べていらっしゃいますね!人の手を借りて恐縮ですが「四戸城」で検索するだけで、素晴らしい城ブログと出会えます。特に地元の方と思われるブログは読んでいて楽しいですね。私のように「やっとこさ行ってきた」というのと違って、ブログの行間から肌感覚のようなものが伝わってきます。これは大事です。気候とか、人の気質とか、ものの見かたとか、そこで暮らさなければ分らないものってありますよね。参考になりました。ありがとうございます。
皆さんの情報によれば、3つの曲輪は北から南へ縦に配置されたようですね。連郭式城郭ということです。馬淵川(まべちがわ)左岸の段丘の城。そして、九戸政実の乱のあと、ほどなくして廃城となったようです。
<いわて銀河鉄道>
雰囲気のあるローカル線。二戸駅と金田一温泉駅の間で利用しました。四戸城の別名は金田一城です。
疲れましたが、いい旅でした。
■訪問:四戸城
[岩手県二戸市金田一舘]
↑九戸城も四戸城も二戸市にあります。
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■ 四戸城 ■しのへ
<四戸城跡>
現地までなんとかたどり着き、地元の人に場所を尋ねると、「石しかないよ」と笑われました。行ってみると、たしかに四戸城跡を示す標柱と大きな石があるだけ。石は「ベゴ石」と呼ばれているとのこと。あとは周辺に墓地が確認できるだけ。地形だけで判断すると、ちょっとした高台を利用した城だったように思えました。
<説明>
何か書いてありますね。画像下の説明部分です。
『四戸城は上館、中館、下館の3つの曲輪からなっている。
南部氏の一族とされる四戸氏の居城であったが、四戸氏がいつ頃から当地に居住したのかは良く分かっていない。
戦国時代末期、城主四戸宗泰の妹は、九戸城主九戸政実の妻で、また宗泰の妻は政実の叔母であった。
四戸氏は、二戸地方で絶大な勢力を持っていた九戸氏とは親しい間柄であった。
しかし、天正19年・・・・九戸の戦いを前に・・・(以下読めず)』
なるほど
『城主四戸宗泰の妹は、九戸城主九戸政実の妻』
『九戸氏とは親しい間柄』
だったわけですね。
しかし諸事情から四戸氏はこの地を去り、四戸城は九戸政実と対立する南部信直方の居城となりました。四戸氏も九戸氏も南部支族。大きな意味では身内なんですがね。いつの時代でも、人間関係は難しいのですね。九戸政実にとって、この地は途中までは友好の城、南部氏と関係が悪化してからは敵方の拠点だったことになりますね。
そして
『上館、中館、下館の3つの曲輪からなっている』
という説明。なるほど、ならばその痕跡を探すのが城マニア。これこそ城跡巡りの楽しみのですね!
しかし
<遺構の画像>
(ありません・・・)
撮影しなかった訳ではなく、カメラの電池切れでもありません。
実は、探索できませんでした。
城跡と思われる敷地は結構広く、この日はそうとう寒く、更に九戸城探索で体力を使い切ってしまい、もう気力が残っていませんでした。ここまで来たのですがね。曲輪と曲輪の間の堀くらいは確認したかったです。今から思えばですが…
仕方がないので帰宅してから他の方のブログで確認。皆さん詳しく調べていらっしゃいますね!人の手を借りて恐縮ですが「四戸城」で検索するだけで、素晴らしい城ブログと出会えます。特に地元の方と思われるブログは読んでいて楽しいですね。私のように「やっとこさ行ってきた」というのと違って、ブログの行間から肌感覚のようなものが伝わってきます。これは大事です。気候とか、人の気質とか、ものの見かたとか、そこで暮らさなければ分らないものってありますよね。参考になりました。ありがとうございます。
皆さんの情報によれば、3つの曲輪は北から南へ縦に配置されたようですね。連郭式城郭ということです。馬淵川(まべちがわ)左岸の段丘の城。そして、九戸政実の乱のあと、ほどなくして廃城となったようです。
<いわて銀河鉄道>
雰囲気のあるローカル線。二戸駅と金田一温泉駅の間で利用しました。四戸城の別名は金田一城です。
疲れましたが、いい旅でした。
■訪問:四戸城
[岩手県二戸市金田一舘]
↑九戸城も四戸城も二戸市にあります。
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タグ:岩手
2017年03月13日
北の猛将・九戸政実を訪ねて(二戸市)九戸城
天を衝く
高橋克彦さんの小説を読んで、この地を訪れようと思いました。
天下に異議を申立てて散った北の猛将の居城です。
<九戸城跡>くのへじょう
小説『天を衝く - 秀吉に喧嘩を売った男』は、南部氏庶流だった九戸政実を主人公とした長編歴史小説。マイナー武将?結構話題になりましたが、今でもそうなのですかね?確かに南部や津軽と比較する、全国的にはあまり知られていないかもしれませんね。私もこの小説と出会うまで、九戸政実(くのへまさざね)の名は知りませんでした。ただ、だからこそ感動したような気がします。
関東の覇者・北条氏の小田原城が落ちて、豊臣秀吉が天下統一を果たしたかのような話になっていますが、それより後に、五千人もの兵が城に立て籠もった事実があった。じゃ何を定義に統一したと言ってるんですかね…そんな思いです。もっと平たく言えば「なに無視してんだよ」という思いがしました。その衝動から、北へ旅立つことになりました。
■ 現地訪問 ■
<二戸駅>にのへ
初めてです。目的地の九戸城は、九戸村ではなく二戸市にあります。
<城の西側を流れる馬淵川>まべちがわ
九戸城は三方を川に囲まれた天然の要害。山城です。駅から城跡に行く手前で、早くも足が止まりました。凄い景色です。天下軍もここまで来たのですね。
つまり、まだ天下統一なんて成されてなかったのでしょう。
<外堀跡>
城の内部へ近づきつつあります。現在はただの畑ですが、もともとは九戸城の外堀だったことが分かります。画像が悪くすみません。
<城内へ>
思っていた以上に広い。後で調べたら、東京ドームの10個分のようです。
<山城>
典型的な山城ですね。
<空堀>
雰囲気的に水堀?かとも思いましたが、空堀です。水はけがよく、雨が降っても水が溜まるものではなかったようです。部分的に石垣が残っています。
ここまで整備されたのは、九戸政実より後の時代と思われます。この城は、政実の死後に蒲生氏郷によって改修され、南部宗家の城となり、福岡城と改められました。しかし、九戸城と呼ぶのが一般的です。それってどうしてですかね?
それは
地元の皆さんがそう呼びたいから!
です。いいですね。
<本丸付近の構造>
この案内を見ながら周りを見回すと「なるほど」と実感できます。単純に城跡としても興味深い。この城跡には、もともとの中世の城の特徴と西日本の城の特色があると言われています。九戸政実の城のなごりと、改修された福岡城のなごりということになりますね。
<本丸跡>
本丸は福岡城のなごりです。
■ 九戸城の戦い ■
九戸勢はもともと南部一族の精鋭。南部氏は単独で身内の争いを制圧することができませんでした。天下人に助けを求めた結果、蒲生氏郷ほかの九戸討伐軍6万が九戸城を取り囲むことに。これに対し、籠城する九戸勢は5千でした。
九戸政実の行為は「南部家当主の南部信直および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱」と定義されます。そもそも反乱?ってなんですかね。何を正義とするかで、その扱いは変わるものです。
天下軍を相手に、立て籠もる九戸勢は激しく抵抗。「開城すれば助命」の条件で、九戸政実は降伏します。しかし約束は反故にされ、政実は斬首、城内の者は女こどもを含め斬られた上に、二の丸に押し込まれて焼かれました。炎は三日三晩夜空を焦がしたと言い伝えられています。
これでも天下軍に正義があったと言えますかね?
どんな大義があっても、そう思えません。
■ 悲劇の城 ■
「荒城の月」のモデルとなった城については諸説ありますが、九戸城も有力候補の一つです。林檎狩りに訪れた晩翠が、九戸城の悲劇を聞き「荒城の月」書き残したと考えられています。その歴史を知った上で、この景色の空に月を見上げるとしてら、やはりこの城こそが「荒城の月」のモデルとして相応しいと思うことでしょう。
<本丸堀>
またいつか訪れたいと思っています。
■訪問:九戸城
[岩手県二戸市福岡城ノ内]
お城巡りランキング
高橋克彦さんの小説を読んで、この地を訪れようと思いました。
天下に異議を申立てて散った北の猛将の居城です。
<九戸城跡>くのへじょう
小説『天を衝く - 秀吉に喧嘩を売った男』は、南部氏庶流だった九戸政実を主人公とした長編歴史小説。マイナー武将?結構話題になりましたが、今でもそうなのですかね?確かに南部や津軽と比較する、全国的にはあまり知られていないかもしれませんね。私もこの小説と出会うまで、九戸政実(くのへまさざね)の名は知りませんでした。ただ、だからこそ感動したような気がします。
関東の覇者・北条氏の小田原城が落ちて、豊臣秀吉が天下統一を果たしたかのような話になっていますが、それより後に、五千人もの兵が城に立て籠もった事実があった。じゃ何を定義に統一したと言ってるんですかね…そんな思いです。もっと平たく言えば「なに無視してんだよ」という思いがしました。その衝動から、北へ旅立つことになりました。
■ 現地訪問 ■
<二戸駅>にのへ
初めてです。目的地の九戸城は、九戸村ではなく二戸市にあります。
<城の西側を流れる馬淵川>まべちがわ
九戸城は三方を川に囲まれた天然の要害。山城です。駅から城跡に行く手前で、早くも足が止まりました。凄い景色です。天下軍もここまで来たのですね。
つまり、まだ天下統一なんて成されてなかったのでしょう。
<外堀跡>
城の内部へ近づきつつあります。現在はただの畑ですが、もともとは九戸城の外堀だったことが分かります。画像が悪くすみません。
<城内へ>
思っていた以上に広い。後で調べたら、東京ドームの10個分のようです。
<山城>
典型的な山城ですね。
<空堀>
雰囲気的に水堀?かとも思いましたが、空堀です。水はけがよく、雨が降っても水が溜まるものではなかったようです。部分的に石垣が残っています。
ここまで整備されたのは、九戸政実より後の時代と思われます。この城は、政実の死後に蒲生氏郷によって改修され、南部宗家の城となり、福岡城と改められました。しかし、九戸城と呼ぶのが一般的です。それってどうしてですかね?
それは
地元の皆さんがそう呼びたいから!
です。いいですね。
<本丸付近の構造>
この案内を見ながら周りを見回すと「なるほど」と実感できます。単純に城跡としても興味深い。この城跡には、もともとの中世の城の特徴と西日本の城の特色があると言われています。九戸政実の城のなごりと、改修された福岡城のなごりということになりますね。
<本丸跡>
本丸は福岡城のなごりです。
■ 九戸城の戦い ■
九戸勢はもともと南部一族の精鋭。南部氏は単独で身内の争いを制圧することができませんでした。天下人に助けを求めた結果、蒲生氏郷ほかの九戸討伐軍6万が九戸城を取り囲むことに。これに対し、籠城する九戸勢は5千でした。
九戸政実の行為は「南部家当主の南部信直および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱」と定義されます。そもそも反乱?ってなんですかね。何を正義とするかで、その扱いは変わるものです。
天下軍を相手に、立て籠もる九戸勢は激しく抵抗。「開城すれば助命」の条件で、九戸政実は降伏します。しかし約束は反故にされ、政実は斬首、城内の者は女こどもを含め斬られた上に、二の丸に押し込まれて焼かれました。炎は三日三晩夜空を焦がしたと言い伝えられています。
これでも天下軍に正義があったと言えますかね?
どんな大義があっても、そう思えません。
■ 悲劇の城 ■
「荒城の月」のモデルとなった城については諸説ありますが、九戸城も有力候補の一つです。林檎狩りに訪れた晩翠が、九戸城の悲劇を聞き「荒城の月」書き残したと考えられています。その歴史を知った上で、この景色の空に月を見上げるとしてら、やはりこの城こそが「荒城の月」のモデルとして相応しいと思うことでしょう。
<本丸堀>
またいつか訪れたいと思っています。
■訪問:九戸城
[岩手県二戸市福岡城ノ内]
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