上杉と最上が激突した北の関ヶ原(慶長出羽合戦)。最上義光の居城・山形城の支城として上杉軍を苦しめた上山城(かみのやまじょう)。そのなごりを求めて、山形県上山市を訪問しました。二十四あったといわれる山形城の支城で、上杉軍の猛攻に屈しなかったのは長谷堂城とここ上山城だけです。
<現在の上山城>
あれ、ちょっと立派過ぎるんですが!
堅城と呼ばれた中世の山城。私にとって、上山城とはそういう城。これは明らかに別の世界ですね。早々と廃城になった長谷堂城とは異なり、上山城は江戸時代を通して町の中心であり続けました。
※長谷堂城訪問記→記事へ進む
■米沢と山形の狭間で■
上山は、古くから米沢の伊達氏と山形の最上氏が、その支配権をめぐって衝突する場所でした。両勢力の間に位置しています。これはこの地の宿命ですね。
■北の関ヶ原■ 戦の重要拠点
伊達氏に続いて米沢を支配したのは上杉家です。日ノ本が東軍と西軍に分かれて戦った際には、2万を数える上杉軍が最上領へ侵攻。支城は次々と落とされ、残る支城は長谷堂とここ上山だけになりました。
この時に上山城を任されたのは里見民部(さとみみんぶ)。上杉軍本体から派遣された別働隊を迎え討ち、見事に撃退しました。籠城で耐えたというより、周囲に伏兵を潜ませ、奇襲で勝ったようです。大手柄ですね。ただこの後、里見民部は最上義光との不仲が原因で、最上家を去りました。
里見民部という剛の者。勿体ないですね。ここに書ききれませんが、かなりドロドロで複雑なことになってしまい、あまりいい事はありませんでした。ただそれも元々の強い気質と、そこへ至る経緯があってのこと。それら全てをもって、里見民部らしいと思うしかありませんね。
■上山藩成立■ 城下町・宿場町
上山城は、その後も最上家の身内が城主を務めます。しかし最上義光亡き後、お家騒動(最上騒動)で改易され、城は没収となります。最上家による上山支配はここで終わりました。先述の「長谷堂城」はこの時に廃城。しかし、ここ上山城は統治のための城として、その後も長く存続しました。
能見松平家の松平重忠が4万石で城主となり、上山藩を立藩。以降は城主を務める氏族が次々と変わり、城も改修されたり取り壊されたりして形が変わりますが、上山藩そのものは幕末まで続きました。
まぁ誰が殿様でも、統治の城があれば秩序は保たれ人も集まります。もともと街道の宿場町だったこともあり、上山は栄えます。古くから温泉も発見されていましたので「温泉宿場城下町」ですかね。山形と米沢に挟まれた場所ですから、二つの勢力が争った頃はいろいろと難儀だったかもしれませんが、太平の世となれば、逆に好条件と言えます。
■つわものどもが夢の跡■
<模擬天守>
戦国期には生々しい戦闘のあった場所です。そして江戸時代を通して町の中心だった場所。今では、江戸期の本丸跡には月岡神社が祀られ、二ノ丸跡は公園となっています。そして鉄筋で造られた天守。「羽州の名城」は、郷土資料館として生まれ変わりました。
実は城跡巡りを始めた当初、観光施設としての城の再現はあまり好きではありませんでした。史実の痕跡。それだけで充分だと思っていたわけですね。ただ、模擬天守を見上げる子供の姿とか、充実した資料館とか、そんな光景をいろんな城跡で見かけるうちに、考え方も変わりました。ここ上山城についても、もともとの天守とは形が異なり、場所もかつての本丸ではありません。ただ立派ではないですか。どうせならこのくらい立派にやって欲しい。マニアの細かい拘りは意識の彼方に追いやられ、ごくごく自然に「綺麗だ」と感じました。
闘うためでも治めるためでもありません。歴史ある城下町の象徴として、天守が堂々たる姿を見せてくれています。
--------■ 上山城 ■--------
別 称:月岡城
築城者:武衛義忠(上山氏)
城 主:上山氏 他多数
築城年:1535年
改修者:松平重忠
廃城年:1873年
[ 山形県上山市元城内 ]
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2017年08月16日
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