<謙信公の像>
[米沢城本丸跡]
米沢市街地のほぼ中心に位置する城跡。米沢城は本丸・二の丸・三の丸からなる輪郭式の平城でした。市街化がすすむなか、かつての本丸跡に「城のなごり」を感じることができます。上杉ファンのみならず、多くの人が訪れる人気スポットです。
<米沢城址>松が岬公園
正面入り口です。左右には「毘」と「龍」の軍旗。そのずっと奥に、謙信公が祀られている上杉神社が見えています。
<上杉神社>鳥居
上杉神社の鳥居。七五三の時期です。
<上杉神社>社殿入口
朝早かったせいか、丁度お浄めの最中でした。
<上杉神社 稽照殿> けいしょうでん
宝物殿。戦国武将の刀や甲冑など多数が展示されています。直江兼続のいわゆる「愛」の前立の甲冑もこちらです。他に謙信や景勝が所用した具足、鷹山に関わるものなどなど。人気の場所です。
■伊達氏の城■長井氏から伊達氏
ここ米沢城は、米沢盆地の南に位置します。「上杉の城」というイメージですが、起源は相当古く、鎌倉時代中期まで遡ります。幕府中枢であった長井時広(ながいときひろ:出羽長井氏の祖)が出羽国置賜郡長井荘を所領し、拠点を築いたのが始まりとされています。
まぁこの時代ですから、堀と策で外との隔たりを設けた館のようなものだったのでしょう。最上川の西岸の比較的平らな地形であることから、周辺に湿地なども広がっていたのかも知れませんね。以後、長井氏の支配は約150年続きました。
やがて置賜地方に伊達氏が侵攻。長井氏の置賜支配は終わりを告げ、米沢の地は伊達氏の支配下になります。それから相当あとの話になりますが、伊達政宗はここ米沢で生まれています。父である輝宗、そして政宗の時代において、伊達氏は戦国大名としての地位を確立。米沢の地に城下町が形成され始めたのは伊達時代と考えられています。
<伊達政宗公誕生記念碑>
米沢は政宗の故郷です。
■秀吉の影■1590年
伊達政宗は、会津の覇者だった蘆名氏を滅ぼす(1589年)など破竹の勢いで快進撃を続けました。しかし天下人となっていた豊臣秀吉の裁定により、米沢の地は没収(政宗は蘆名氏から勝ち取った黒川城に本拠を移しましたが米沢へ戻され、最終的に没収という流れでした)。伊達氏は米沢城から去ります(伊達氏は葛西・大崎の旧領を与えられ岩出山城へ。現在の宮城県大崎市です)。
置賜の地は蒲生氏郷に任され、米沢城には氏郷の家臣・蒲生郷安が3万5千石を得て入城しました(氏郷本人の居城は会津若松城。それ以前に黒川と呼ばれていた地名<黒川城など>は、この時に「若松」へと改められました)。
やがて(1598年)蒲生氏※は宇都宮に転封となり、ここで越後から上杉景勝が会津120万石を得て、米沢もその支配下に組み込まれます。米沢城には重臣の直江兼続が入城。兼続が30万石の知行を受けたことも含め、すべて秀吉の思惑によるものでした。
(ちょっと話がそれますが)
※築城や経済政策で手腕を発揮した蒲生氏郷ですが、この「宇都宮に転封」の時には既に他界していました。まだ40歳。いろいろと謎の残る早死にです。子の秀行が会津92万石から宇都宮18万石で移封となりました。この裁定も不自然。本人に責任のない人事異動のようにも映ります。この裁定後まもなく秀吉は没していますので、秀行の災難はここまでですね。
ここまで悪いことが目立つ蒲生家。後に徳川の命により、拠点である宇都宮にて今回の主役「上杉」をけん制する役割を担うことになります。これが認められ、蒲生秀行は陸奥に60万石を得ます。更に家康の娘と結婚し、松平の名字を与えられました。立派な徳川氏の一門ですネ!・・・が、どうしてそうなるのか、秀行も30歳で亡くなりました。心労とされています。
(話を戻します)
家臣である直江兼続に米沢30万石。ちょっとあり得ない栄誉ですね。これに関しては、秀吉が兼続に惚れ込んでいたという解釈もある一方、上杉と直江の分断を狙ったとする説もあります。どちらでしょうね。いずれにしても、兼続本人は上杉家内での役割に追われ、米沢城でじっくりと領内の統治に取り組む余裕はなかったようです。この頃は。
■上杉の城下町■
1600年の関ヶ原の戦い。上杉家は直接徳川家康と戦うことはありませんでしたが、戦後処理として、会津120万石(米沢30万石含む)から、米沢30万石のみに減封されました(形としては、直江兼続が米沢城を景勝に譲ったことになりますね)。家臣を見捨てなかった上杉景勝。厳しい経済環境下、直江兼続を中心に新たな国造りが始まります。この時に米沢城も改築・拡張されました。
<祠堂遺跡> しどういせき
謙信の遺骸は越後にて甲冑を着たまま一旦埋葬されました。しかし上杉景勝は越後を去る時に会津へ持ち出し、最終的に米沢へ持ち込みました。そして本丸の一番高い所に御堂を建て、謙信の霊柩を安置しました。明治になって別の場所(上杉家御廟所)へ移されました。
まず二の丸、数年後には門や堀などが改築され、更に数年後には直江兼続の縄張により大改築が行われました。一気にできないところに、道程の厳しさを感じますね。時間をかけながら、米沢城は近世城郭へと進化していきました。ただし、いわゆる天守は無し。石垣も使いませんでした。
<水堀>
旧本丸の回りの堀。原則は「土の城」です。
■15万石に縮小■更なるピンチ
米沢藩は後の家督の継承問題で、30万石を半分にまで減らされる憂き目に(会津藩主・保科正之の助けで断絶だけは回避。上杉家は吉良家から養子を迎えて存続)。更なる財政難に、米沢藩は破産寸前にまで追い込まれます。しかし中興の祖・上杉鷹山により再建され、藩は明治まで続きました。
<上杉鷹山像>
本丸跡に建つ銅像。若干17歳で米沢15万石の藩主となり、改革を行った上杉治憲。のちの鷹山です。左側は鷹山の名言を刻んだ石碑。『なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり』
<松岬神社>まつがさきじんじゃ
こちらは二の丸跡です。鷹山は上杉景勝や直江兼続らとともに祀られています。神社の名は、米沢城の別称「松岬城」に由来します。
■つわものどもが夢の跡■
<上杉家御廟所>うえすぎけごびょうしょ
カリスマがこの世を去ったのが1578年。波乱万丈ながら、上杉家は米沢の地で約三百年続きました。画像は上杉景勝から始まる米沢藩主たちの墓所。明治になり、謙信の霊柩もここへ移されました。中央正面がその祠堂になります。越後の龍・上杉謙信は、その後の歴代当主たちとともにここ米沢にいます。
-------■米沢城■-------
別 名 :松ヶ岬城・舞鶴城
築城者:長井時広
築城年:1238年(暦仁2)
城 主 :長井氏・伊達氏・蒲生氏
直江氏・上杉氏
廃城年:1873年(明治6)
[山形県米沢市丸の内]
お城巡りランキング
2017年11月05日
2017年10月31日
米沢藩の礎 景勝と兼続
<謙信の旗印>
[米沢城跡]
戦国時代の武将で、上杉と言えばやはり「上杉謙信」ですね。越後の龍。毘沙門天の生まれ変わり。信長・秀吉・家康、そして武田信玄などと肩を並べる人気武将ではないでしょうか。私も大好きです。
<上杉神社>
[米沢城跡]
ただ、そのあとを継いだ上杉景勝、補佐役だった直江兼続も魅力的です。カリスマが去ったあとの内輪もめ、外には強敵ばかり。そして時代が大きく変わろうとする過渡期での難しい舵取り。更には、米沢へ移ってからの財政難。もしかしたら、血で血を洗う戦そのものより、これらに立ち向かった姿の方が、現代人の心に響くのではないでしょうか。
<義と愛>
[米沢駅前]
人心が荒廃した戦国の世を、義と愛の精神で生き抜いた。
ちょっと美化しすぎと思われるかも知れませんね。二人のファンである私も、あまり興味のない友人にはそこまで言えません。そして、直江兼続と上杉景勝について、別な評価があることも承知しています。ただ、それを知って、それで終わって、何か役に立つのでしょうか?「知ってる」ことより「そう思っている」ということを増やしたいです。
個性の異なるこの二人に惚れ込むことは、結局は自分のためなのかもしれない。そう思っています。そんな思いも含めて、共有できれば嬉しいです。
■米沢30万石■
会津120万石から出羽米沢30万石へ減移封となった上杉家。これは徳川を敵に回した代償ですね。まぁ家が取り潰されなかっただけ良かったと思うしかありません。
例えばの話ですが、年商120億の会社が来年からは30億になるとしたら、何を思い浮かべますでしょうか?入ってくるカネが減る。ならば、出て行くカネを何とかしなければ、経営が破たんしてしまいますね。じゃどうする?これはもう出て行くカネの中でも大きな割合を占める人件費を削るしかありません。世間一般でいうところの「リストラ」ですね。
■解雇せず■全員連れて行く
上杉景勝は苦楽を共にしてきた者たちを一人も解雇しませんでした。これぞ上杉の義。さすがです。と言いたいですが、じゃどうすればいいのか?現実はそんなに甘くありません。家臣団は約6千人もいます。その家族や従属の者も含めると、数万人になってしまいます。所領120万石で賄えても、4分の1の石高では無理。
しかし
やるしかありませんでした
そもそも、リストラとは本来は人員削減の意味ではありません。
Restructuring
リ・ストラクチャリング、つまり再構築ですね。見直して再び築く。人員ばかりが矢面に立ちますが、仕事そのもの、不採算の事業・・・しいてはその組織の悪習などなど、断ち切るべきものはいろいろとありますね。景勝が掲げる「上杉の義」。これを実践するために直江兼続は指導者としての手腕を存分に発揮します。
もともと小さな町だった米沢は既に人でいっぱいです。住む場所も不足。食べるものも不足。兼続は早急に手をうちました。
■城下町の整備と治水■
〈堀立川〉
ほったてがわ。掘立小屋のようなネーミングですね。ただの川?ではありません。これは直江兼続が掘削させた人工の水路で、もともとは役割として堀も兼ねていました。兼続の治水事業は、自然の川である最上川(松川)に造った石堤とこの堀立川と言っても過言ではありません。
兼続は減らされた石高を補うため、米沢で未開発だった南部・西部の土地の新たな開墾を目指しました。そのためには水路を通す必要があったのです。これが経済的な役割。もう一つが城としての役割です。水路は所々で堰き止め安いように幅を狭くしてあり、有事には水を貯めて堀の代わりとすることができました。予算も人員も限られるなか、一つの仕事で二つの効果です。もともと「堀楯川」という字であったそうです。目的を知ってしまうと、こっちの方がしっくりするのは私だけでしょうか。
<米沢城下絵図>
[米沢城内案内板を撮影し加工]
城下町そのものが要塞のように設計されています。水色の●印が堀立川。まず「喰うこと」ですが、兼続は並行して軍事のことも考えていたのですね。
■荒地の開墾■半士半農
兼続は、城下を拡げて家臣の屋敷割りを行い、城下に入りきれない下級武士には、郊外の南原、東原の開拓にあたらせました。下級武士たちが開墾に挑んだエリアは当時は荒地。身分は武士のまま、警備の任務に当たらせると同時に自給自足の生活をさせました。いわゆる「半士半農」ということですね。この者たちは「原方衆」と呼ばれ、家臣の8割が下級武士という状況で、その半分を占めました。農民とほぼ変わらない生活になりますが、兼続は下級武士たちが自ら開拓した土地は本人に与えたり、年貢を免除するなどして開墾を促しました。とにかく「自力で何とかする」環境を整えたわけですね。
<イメージ>
[伝国の杜にて]展示されているジオラマを撮影
下級下級といいますが、兼続本人も高い身分の出ではありません。元の名は樋口与六。説によりますが、下級武士の出とする説もあり、私個人もそう思っています。ですから、下級武士たちの痛みにも心が及んだはず。そう思っています。
<下級武士屋敷跡>
郊外南原地区の芳泉町。江戸時代に下級武士が住んだエリアです。野に散って開拓をした武士たちのなごりです。
治水事業、強固な城下町作り、そして農業労働力の増加。これに加えて、兼続は殖産興業にも力を入れました。とにかく収入を増さなくてはなりません。紅花や漆などの「おカネになる」作物の栽培、鯉の養殖なども奨励しました。
兼続よりずっと後の時代の話になりますが、やはり財政難となった米沢藩を救った第9代藩主・上杉鷹山が、食糧にもなるウコギの垣根を奨励した話は有名です。このウコギの栽培、兼続の時代に始まりました。
<ウコギの垣根>
10月の訪問時には既に枯れ始め変色していたので、これは7月に訪問した時に撮影したものです。この時は青々としていました。
■学問所■学問のすすめ
<法泉寺>
米沢の法泉寺(先ほどの絵図のオレンジの●印)。もとは直江兼続が創建した禅林寺です。直江兼続は、足利学校で学ばせていた九山禅師を米沢に呼び戻し、米沢藩士の子を教育するための学問所を作りました。財政にゆとりがない状態ですが、教育がいかに大切かを知っていたのでしょうね。まずは目先のことが大切ですが、同時に将来の種を植える。兼続は私材※も投入してこの学問所「禅林文庫」を創設しました。
※兼続収集の蔵書は貴重な文化財として現存しています。
九山禅師が京都の名園をまねて造ったと伝えられています。法泉寺から道を挟んだ正面に位置します。
兼続が創設した学問所はのちの時代に一旦途切れますが、のちに同じく藩政改革に挑んだ鷹山により再興します。鷹山の師・細井平洲により藩校「興譲館」と命名されました。これは兼続の時代から約150後のお話です。
■兼続の評価■鷹山が再評価
実は、直江兼続はあまり世間的には評価される人物ではありませんでした。徳川幕府からみれば、主君をたぶらかして石田三成と共に徳川家康に刃向った人物です。上杉の家を守るべく、すべての責任を背負ったのですから、表向きとしては筋が通った評価ということですね。
そして身内からみれば、名門上杉家でありながら倹約・質素を推進する厄介な指導者。勿論同志も沢山いたとは思われますが、この状況でまだ「古き良き」にしがみつくロートルたち、あるいはまだ「戦うつもり」の血気盛んな若者たちも大勢いたはずです。
外からも内からも、あまり評価されないのも分かる気がします。
しかし上杉鷹山が兼続を手本に藩政改革を行なったことで、再評価されるようになりました(鷹山が藩主となった時には、30万石が15万石となっていました。半分ですよ!これは厳しいです。上杉はもう破産寸前でした)。その鷹山も、改革途上では苦難の連続。領民や下級武士に指示されても、比較的身分が高い人たちにとっては厄介な存在だったようです。
いつの時代も、改革は既得権者に都合が悪いものです。そういう皆さんからの妨害や非協力、誹謗中傷が付きもの。改革者の評価は、後の時代の人たちに託されています。
■つわものどもが夢の跡■
<松岬神社>まつがさきじんじゃ
松岬神社です。画像だとやや地味ですが、奥深い雰囲気があります。米沢藩の礎を造った景勝と兼続、そしてのちに中興の祖となる鷹山が祀られています。この地はもともと兼続の屋敷。そして藩主となった景勝も屋敷とした場所です。
兼続の苦労(実際には上杉家全員の努力)の甲斐あって、30万石の米沢藩は表向きの石高を大幅に上回る51万石になっていたと伝わります。藩政の基礎を築いたのち、兼続は60歳で生涯を閉じました。それから長い時を経て、今では人々から慕われる存在となっています。私もファンの一人です。
お城巡りランキング
[米沢城跡]
戦国時代の武将で、上杉と言えばやはり「上杉謙信」ですね。越後の龍。毘沙門天の生まれ変わり。信長・秀吉・家康、そして武田信玄などと肩を並べる人気武将ではないでしょうか。私も大好きです。
<上杉神社>
[米沢城跡]
ただ、そのあとを継いだ上杉景勝、補佐役だった直江兼続も魅力的です。カリスマが去ったあとの内輪もめ、外には強敵ばかり。そして時代が大きく変わろうとする過渡期での難しい舵取り。更には、米沢へ移ってからの財政難。もしかしたら、血で血を洗う戦そのものより、これらに立ち向かった姿の方が、現代人の心に響くのではないでしょうか。
<義と愛>
[米沢駅前]
人心が荒廃した戦国の世を、義と愛の精神で生き抜いた。
ちょっと美化しすぎと思われるかも知れませんね。二人のファンである私も、あまり興味のない友人にはそこまで言えません。そして、直江兼続と上杉景勝について、別な評価があることも承知しています。ただ、それを知って、それで終わって、何か役に立つのでしょうか?「知ってる」ことより「そう思っている」ということを増やしたいです。
個性の異なるこの二人に惚れ込むことは、結局は自分のためなのかもしれない。そう思っています。そんな思いも含めて、共有できれば嬉しいです。
■米沢30万石■
会津120万石から出羽米沢30万石へ減移封となった上杉家。これは徳川を敵に回した代償ですね。まぁ家が取り潰されなかっただけ良かったと思うしかありません。
例えばの話ですが、年商120億の会社が来年からは30億になるとしたら、何を思い浮かべますでしょうか?入ってくるカネが減る。ならば、出て行くカネを何とかしなければ、経営が破たんしてしまいますね。じゃどうする?これはもう出て行くカネの中でも大きな割合を占める人件費を削るしかありません。世間一般でいうところの「リストラ」ですね。
■解雇せず■全員連れて行く
上杉景勝は苦楽を共にしてきた者たちを一人も解雇しませんでした。これぞ上杉の義。さすがです。と言いたいですが、じゃどうすればいいのか?現実はそんなに甘くありません。家臣団は約6千人もいます。その家族や従属の者も含めると、数万人になってしまいます。所領120万石で賄えても、4分の1の石高では無理。
しかし
やるしかありませんでした
そもそも、リストラとは本来は人員削減の意味ではありません。
Restructuring
リ・ストラクチャリング、つまり再構築ですね。見直して再び築く。人員ばかりが矢面に立ちますが、仕事そのもの、不採算の事業・・・しいてはその組織の悪習などなど、断ち切るべきものはいろいろとありますね。景勝が掲げる「上杉の義」。これを実践するために直江兼続は指導者としての手腕を存分に発揮します。
もともと小さな町だった米沢は既に人でいっぱいです。住む場所も不足。食べるものも不足。兼続は早急に手をうちました。
■城下町の整備と治水■
〈堀立川〉
ほったてがわ。掘立小屋のようなネーミングですね。ただの川?ではありません。これは直江兼続が掘削させた人工の水路で、もともとは役割として堀も兼ねていました。兼続の治水事業は、自然の川である最上川(松川)に造った石堤とこの堀立川と言っても過言ではありません。
兼続は減らされた石高を補うため、米沢で未開発だった南部・西部の土地の新たな開墾を目指しました。そのためには水路を通す必要があったのです。これが経済的な役割。もう一つが城としての役割です。水路は所々で堰き止め安いように幅を狭くしてあり、有事には水を貯めて堀の代わりとすることができました。予算も人員も限られるなか、一つの仕事で二つの効果です。もともと「堀楯川」という字であったそうです。目的を知ってしまうと、こっちの方がしっくりするのは私だけでしょうか。
<米沢城下絵図>
[米沢城内案内板を撮影し加工]
城下町そのものが要塞のように設計されています。水色の●印が堀立川。まず「喰うこと」ですが、兼続は並行して軍事のことも考えていたのですね。
■荒地の開墾■半士半農
兼続は、城下を拡げて家臣の屋敷割りを行い、城下に入りきれない下級武士には、郊外の南原、東原の開拓にあたらせました。下級武士たちが開墾に挑んだエリアは当時は荒地。身分は武士のまま、警備の任務に当たらせると同時に自給自足の生活をさせました。いわゆる「半士半農」ということですね。この者たちは「原方衆」と呼ばれ、家臣の8割が下級武士という状況で、その半分を占めました。農民とほぼ変わらない生活になりますが、兼続は下級武士たちが自ら開拓した土地は本人に与えたり、年貢を免除するなどして開墾を促しました。とにかく「自力で何とかする」環境を整えたわけですね。
<イメージ>
[伝国の杜にて]展示されているジオラマを撮影
下級下級といいますが、兼続本人も高い身分の出ではありません。元の名は樋口与六。説によりますが、下級武士の出とする説もあり、私個人もそう思っています。ですから、下級武士たちの痛みにも心が及んだはず。そう思っています。
<下級武士屋敷跡>
郊外南原地区の芳泉町。江戸時代に下級武士が住んだエリアです。野に散って開拓をした武士たちのなごりです。
治水事業、強固な城下町作り、そして農業労働力の増加。これに加えて、兼続は殖産興業にも力を入れました。とにかく収入を増さなくてはなりません。紅花や漆などの「おカネになる」作物の栽培、鯉の養殖なども奨励しました。
兼続よりずっと後の時代の話になりますが、やはり財政難となった米沢藩を救った第9代藩主・上杉鷹山が、食糧にもなるウコギの垣根を奨励した話は有名です。このウコギの栽培、兼続の時代に始まりました。
<ウコギの垣根>
10月の訪問時には既に枯れ始め変色していたので、これは7月に訪問した時に撮影したものです。この時は青々としていました。
■学問所■学問のすすめ
<法泉寺>
米沢の法泉寺(先ほどの絵図のオレンジの●印)。もとは直江兼続が創建した禅林寺です。直江兼続は、足利学校で学ばせていた九山禅師を米沢に呼び戻し、米沢藩士の子を教育するための学問所を作りました。財政にゆとりがない状態ですが、教育がいかに大切かを知っていたのでしょうね。まずは目先のことが大切ですが、同時に将来の種を植える。兼続は私材※も投入してこの学問所「禅林文庫」を創設しました。
※兼続収集の蔵書は貴重な文化財として現存しています。
九山禅師が京都の名園をまねて造ったと伝えられています。法泉寺から道を挟んだ正面に位置します。
兼続が創設した学問所はのちの時代に一旦途切れますが、のちに同じく藩政改革に挑んだ鷹山により再興します。鷹山の師・細井平洲により藩校「興譲館」と命名されました。これは兼続の時代から約150後のお話です。
■兼続の評価■鷹山が再評価
実は、直江兼続はあまり世間的には評価される人物ではありませんでした。徳川幕府からみれば、主君をたぶらかして石田三成と共に徳川家康に刃向った人物です。上杉の家を守るべく、すべての責任を背負ったのですから、表向きとしては筋が通った評価ということですね。
そして身内からみれば、名門上杉家でありながら倹約・質素を推進する厄介な指導者。勿論同志も沢山いたとは思われますが、この状況でまだ「古き良き」にしがみつくロートルたち、あるいはまだ「戦うつもり」の血気盛んな若者たちも大勢いたはずです。
外からも内からも、あまり評価されないのも分かる気がします。
しかし上杉鷹山が兼続を手本に藩政改革を行なったことで、再評価されるようになりました(鷹山が藩主となった時には、30万石が15万石となっていました。半分ですよ!これは厳しいです。上杉はもう破産寸前でした)。その鷹山も、改革途上では苦難の連続。領民や下級武士に指示されても、比較的身分が高い人たちにとっては厄介な存在だったようです。
いつの時代も、改革は既得権者に都合が悪いものです。そういう皆さんからの妨害や非協力、誹謗中傷が付きもの。改革者の評価は、後の時代の人たちに託されています。
■つわものどもが夢の跡■
<松岬神社>まつがさきじんじゃ
松岬神社です。画像だとやや地味ですが、奥深い雰囲気があります。米沢藩の礎を造った景勝と兼続、そしてのちに中興の祖となる鷹山が祀られています。この地はもともと兼続の屋敷。そして藩主となった景勝も屋敷とした場所です。
兼続の苦労(実際には上杉家全員の努力)の甲斐あって、30万石の米沢藩は表向きの石高を大幅に上回る51万石になっていたと伝わります。藩政の基礎を築いたのち、兼続は60歳で生涯を閉じました。それから長い時を経て、今では人々から慕われる存在となっています。私もファンの一人です。
お城巡りランキング
2017年10月28日
正々堂々の敗者 景勝と兼続
(長谷堂古戦場の追記です)
<上杉景勝と重臣・直江兼続>
[撮影:米沢城] 上杉神社
会津120万石から出羽米沢30万石へ減移封となった上杉家。ようするに、時の最大勢力に立ち向かった結果です。ただ、石田三成のように、徳川家康と直接戦った訳ではありませんよね(結果的に)。
前回の投稿で、上杉軍が最上軍と戦った「北の関ヶ原」について触れさせて頂きました。
記事→『長谷堂古戦場』
そこに至る経緯は少な目になっていますので、その補足として、おおざっぱではありますがまとめさせて頂きました。宜しければお付き合い下さい。
■秀吉亡き後の勢力■
[五大老]
@徳川家康:関東支配・五大老筆頭
A前田利家:北陸支配・秀吉の盟友
B上杉景勝:東北南部・謙信後継者 (越後から会津へ)
C毛利輝元:中国西部・毛利元就の孫
D宇喜多秀家:中国東部
(↑秀家は小早川隆景死去後)
秀吉の死後、家康は四大老五奉行と対立。1599年3月3日には有力者だったA前田利家がこの世を去ります。家康は加賀前田家にも攻勢を掛けますが、結果としては両家が和解。
Q.そうすると、次の実力者は?
A.B上杉景勝
ということですね(答え早すぎ)
■国替え間もない上杉家■城の整備開始
越後から会津へ国替えになった上杉家。人員をつぎ込み、新たな城造りに着手しました(神指城:こうざしじょう)。120万石の拠点てしては、既存の城では手狭だった。それはそうかもしれませんが、もしかしたら、秘めたる野心もあったかも知れませんね。これらの動きを、上杉のあとに越後領主となっていた堀秀治が徳川家康に報告。「謀反の疑いがあり」ということですね。上杉家と堀家の関係は、越後の引継ぎに関してトラブルもあったようなので、あまり良いものではなかったようです(上杉側は憎まれていたと思った方がわかりやすいです)。更に、同じく近隣の大名で、後に刃を交えることになる最上義光からも同様の報告がなされていました。
これらを理由に、徳川家康は上杉景勝に使者を出し、上洛を促します。まぁ自分がいる京都へ「顔を出せや」ということですね。この要求に対し、返事の書状の筆をとったのは重臣・直江兼続でした。内容としては国内事情の説明と、謀反の疑いがあると言う者にその真偽を確かめるべきというもの。これがのちに有名になる「直江状」ですね。堂々と申し開きをした上で「来るなら来い。相手になる」と喧嘩を売ったような受け止め方もされていますが、直江状のオリジナルは現存していないため、真意はわかりません。ただ「お断り」したことと、家康が怒ったことは事実のようです。
[米沢市:伝国の杜にて]天地人イベント
■上杉征伐■
上洛要求を拒んだこと、新たな城を築いて謀反を企てていること。これを理由に、徳川家康は伏見から会津に向けて出兵。ただ下野国の小山まで来たところで石田三成挙兵の報せが入り、評定の末(小山評定)、5万の兵を率いて西に方向転換しました。ただし、上杉軍が南下して後方から攻めてくることを警戒し、次男の結城秀康を抑えとして留まらせています。
(ちょっと話がそれますが)
弟・秀忠と比較すると、秀康は損な役回りが多いですね。徳川軍本隊は家康が率いる。中山道を進む別働隊は秀忠が率いる。秀康は宇都宮で押さえにあたる。主力から外された上に、本当に上杉軍が攻めてきたら命掛け。私「花の慶次」のファンなのですが、秀康の生い立ちという前ふりも含め、このあたりは泣かせるシーンでした。武将としての器量に恵まれながら、待遇には恵まれなかった秀康。この時は家康に抗議したようですが、受け入れてはもらえませんでした。
(話を戻します)
■追撃せず■千載一遇
徳川の大軍と戦う覚悟だった上杉軍。白河の南にある革籠原(かわごはら)を決戦の場と決め、万全の準備で待機していました(行ったことがありませんが土塁などの遺構が残されています。いつか訪問したいですね)。
しかし徳川の大軍は背を向けて去っていきます。これでひと安心?いやいや、実はこれは千載一遇のチャンスでした。戦いにおいて、追い討ちほど有利な戦いはないのです。直江兼続は徳川軍を背後から襲うよう上杉景勝に進言。一気に徳川を倒す。あるいは、大打撃を与えれば西の石田三成と連携して、徳川を追い詰めることが可能と考えたのでしょう。またこの時点で、常陸の佐竹と上杉は密約を結んでいたという話もあります。他にも声をあげないだけで、徳川に不満を持っている者たちは沢山います。「流れを変える!」直江兼続、そう見込んだのだと思います。しかし景勝は首を縦に振りませんでした。
追い討ちは謙信公の教えに背く
追撃の話はなくなりました。景勝が兼続の助言を退けることは希です。上杉軍は最大の敵を攻めることなく兵を退きました。
もう無いかもしれないチャンス。それ以前、その後も含めて、秀吉亡きあとで家康を討てる可能性があったのは、この瞬間の上杉家だったと思います。兼続、どんな思いでしたかね。2009年のNHK大河ドラマ「天地人」では、基本的に主君に従順な直江兼続が、唯一激高したシーンでした(ここが見せ場だったと思います)。しかし景勝の言葉は重く、上杉軍は引き返すことになりました。
■上杉の義■大義
人心も荒廃する戦国時代。越後の龍・上杉謙信は、助けを求める者に見返りも求めず軍勢を差し向けた武将でした。秩序を重んじて将軍家を敬い、官位官職を得たうえで大義の名のもとに行動し、家臣たちを統率しました。
そんな謙信に率いられ、家風として熟成されていった大義こそが「上杉の義」なのかもしれませんね。箇条書きにできるような細かな決め事ではなく、言葉で言い現わせない空気のようなもの。大きな枠組みとしては
『利より大義を軸に動く』
ということかと思われます。
上杉の義を「正義」と言い切る人もいます。それも受け止め方として良いと思いますが、私個人はあくまで「大義」と思う方がしっくりきます。思考のパターンとして、細かい事情より、大枠で大切な方を選択する。といった感じですかね、、、。
謙信が実際の行動で示してきたことが、上杉家の家風の根底にある。だからこそ、謙信亡きあとも、上杉の家風はそう簡単には変わらない。上杉景勝が家康を追撃しなかった理由については諸説あり、謎のままです。私個人は『景勝という男が謙信から受け取ったものは、実利より重いものだった』と思っています。私のような凡人では受け取れないものを、きっと大切にしていたのだと。
そもそも景勝という人は、ちょっと変わった人物だったようですね。人前であまり表情は変えず、生涯に一度しか笑わなかったとさえ言われています(飼っていた猿の仕草を見て笑っただけ)。筋を通し、かなりガンコ。なぜか女嫌い。実務的なことは頭の回転の速い兼続がこなし、景勝はドンと構えているタイプ(逆にチョコチョコとは動けないのかもしれませんね?)。そういう人ですから、目先にのことに戦々恐々としてしまう一般人と感覚がかけ離れていても、あまり違和感がありません。
■慶長出羽合戦■〜長谷堂城の戦い〜
家康を追撃しなかった上杉軍。会津へ戻ると、直江兼続が兵を率いて最上義光の領内へ侵攻します。これについては前の投稿通りです。
<長谷堂城跡と稲田>
この戦いの背景として、まぁ諸説あるのですが、もともと豊臣秀吉が上杉家を越後から会津へ国替えとした大義は「東北の押さえ役」を任せるため。豊臣家にとっての「北の守護神」となるためです。領土を欲した戦いではなく、服従させて味方にし、豊臣時代の決め事を次々と反故にする徳川に対抗することが目的だったと思います。
ただ、まさか「関ヶ原の戦い」が一日で終わるとは考えてもみなかったでしょうね。徳川軍が西に行っている間に山形を攻略しておく。この目論見が外れた上に、西軍が敗れるという結末。お先真っ暗ですね。景勝の気持ちは想像できませんが、兼続ほかの家臣団はさぞ途方に暮れたことでしょう。
<展望台から見た山形市>
山形城三の丸跡に建つ高層ビル(霞城セントラル)からの眺め。逆光でちょっと分りにくいですが、左手の下の方に見える小さな山が長谷堂城(背景の大きな山ではなく手前)。その周辺が古戦場です。約8qの距離。肉眼ではもうちょっと良く見えました。
上杉軍は長谷堂から兵を退きます。最上軍から激しい追撃を受けながらも、何とか撤退は終了。もっと巨大な敵とどう向き合うか、生き残りを掛けた選択を迫られます。
■和議の道■
関ヶ原の戦いで西軍敗北。といっても、上杉家そのものが戦に敗れた訳ではありません。その後も徳川家との緊張状態は続きました。まだ戦うつもりの者も多かったことでしょう。ただ内部で協議を繰り返した結果、和議の道を模索することになります。勿論、和議の条件があまりに理不尽なものであれば、改めて戦う準備をしたかもしれません。
翌年(1601年7月)、上杉景勝と直江兼続は会津を発ち京都へ向かいました。事前にさまざまな交渉を繰り返し(主に家康側近の本田正信と交渉)、この時を迎えました。兼続は、戦に関する責任は全て重臣である自分にあること、主君・景勝は徳川軍への追撃を自分に許さなかったなどを説明。一身に罪を受ける旨を申し出ました。その姿は、強きにへつらう者とはほど遠い、正々堂々たる武士の姿だったと伝わります。
■つわものどもが夢の跡■
<米沢城にて>
上杉景勝は出羽米沢30万石へ減移封となるものの、家の存続は許されました。上杉の歴史は続きます。いや、もしかしたらここからが本番かも知れませんね。
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<上杉景勝と重臣・直江兼続>
[撮影:米沢城] 上杉神社
会津120万石から出羽米沢30万石へ減移封となった上杉家。ようするに、時の最大勢力に立ち向かった結果です。ただ、石田三成のように、徳川家康と直接戦った訳ではありませんよね(結果的に)。
前回の投稿で、上杉軍が最上軍と戦った「北の関ヶ原」について触れさせて頂きました。
記事→『長谷堂古戦場』
そこに至る経緯は少な目になっていますので、その補足として、おおざっぱではありますがまとめさせて頂きました。宜しければお付き合い下さい。
■秀吉亡き後の勢力■
[五大老]
@徳川家康:関東支配・五大老筆頭
A前田利家:北陸支配・秀吉の盟友
B上杉景勝:東北南部・謙信後継者 (越後から会津へ)
C毛利輝元:中国西部・毛利元就の孫
D宇喜多秀家:中国東部
(↑秀家は小早川隆景死去後)
秀吉の死後、家康は四大老五奉行と対立。1599年3月3日には有力者だったA前田利家がこの世を去ります。家康は加賀前田家にも攻勢を掛けますが、結果としては両家が和解。
Q.そうすると、次の実力者は?
A.B上杉景勝
ということですね(答え早すぎ)
■国替え間もない上杉家■城の整備開始
越後から会津へ国替えになった上杉家。人員をつぎ込み、新たな城造りに着手しました(神指城:こうざしじょう)。120万石の拠点てしては、既存の城では手狭だった。それはそうかもしれませんが、もしかしたら、秘めたる野心もあったかも知れませんね。これらの動きを、上杉のあとに越後領主となっていた堀秀治が徳川家康に報告。「謀反の疑いがあり」ということですね。上杉家と堀家の関係は、越後の引継ぎに関してトラブルもあったようなので、あまり良いものではなかったようです(上杉側は憎まれていたと思った方がわかりやすいです)。更に、同じく近隣の大名で、後に刃を交えることになる最上義光からも同様の報告がなされていました。
これらを理由に、徳川家康は上杉景勝に使者を出し、上洛を促します。まぁ自分がいる京都へ「顔を出せや」ということですね。この要求に対し、返事の書状の筆をとったのは重臣・直江兼続でした。内容としては国内事情の説明と、謀反の疑いがあると言う者にその真偽を確かめるべきというもの。これがのちに有名になる「直江状」ですね。堂々と申し開きをした上で「来るなら来い。相手になる」と喧嘩を売ったような受け止め方もされていますが、直江状のオリジナルは現存していないため、真意はわかりません。ただ「お断り」したことと、家康が怒ったことは事実のようです。
[米沢市:伝国の杜にて]天地人イベント
■上杉征伐■
上洛要求を拒んだこと、新たな城を築いて謀反を企てていること。これを理由に、徳川家康は伏見から会津に向けて出兵。ただ下野国の小山まで来たところで石田三成挙兵の報せが入り、評定の末(小山評定)、5万の兵を率いて西に方向転換しました。ただし、上杉軍が南下して後方から攻めてくることを警戒し、次男の結城秀康を抑えとして留まらせています。
(ちょっと話がそれますが)
弟・秀忠と比較すると、秀康は損な役回りが多いですね。徳川軍本隊は家康が率いる。中山道を進む別働隊は秀忠が率いる。秀康は宇都宮で押さえにあたる。主力から外された上に、本当に上杉軍が攻めてきたら命掛け。私「花の慶次」のファンなのですが、秀康の生い立ちという前ふりも含め、このあたりは泣かせるシーンでした。武将としての器量に恵まれながら、待遇には恵まれなかった秀康。この時は家康に抗議したようですが、受け入れてはもらえませんでした。
(話を戻します)
■追撃せず■千載一遇
徳川の大軍と戦う覚悟だった上杉軍。白河の南にある革籠原(かわごはら)を決戦の場と決め、万全の準備で待機していました(行ったことがありませんが土塁などの遺構が残されています。いつか訪問したいですね)。
しかし徳川の大軍は背を向けて去っていきます。これでひと安心?いやいや、実はこれは千載一遇のチャンスでした。戦いにおいて、追い討ちほど有利な戦いはないのです。直江兼続は徳川軍を背後から襲うよう上杉景勝に進言。一気に徳川を倒す。あるいは、大打撃を与えれば西の石田三成と連携して、徳川を追い詰めることが可能と考えたのでしょう。またこの時点で、常陸の佐竹と上杉は密約を結んでいたという話もあります。他にも声をあげないだけで、徳川に不満を持っている者たちは沢山います。「流れを変える!」直江兼続、そう見込んだのだと思います。しかし景勝は首を縦に振りませんでした。
追い討ちは謙信公の教えに背く
追撃の話はなくなりました。景勝が兼続の助言を退けることは希です。上杉軍は最大の敵を攻めることなく兵を退きました。
もう無いかもしれないチャンス。それ以前、その後も含めて、秀吉亡きあとで家康を討てる可能性があったのは、この瞬間の上杉家だったと思います。兼続、どんな思いでしたかね。2009年のNHK大河ドラマ「天地人」では、基本的に主君に従順な直江兼続が、唯一激高したシーンでした(ここが見せ場だったと思います)。しかし景勝の言葉は重く、上杉軍は引き返すことになりました。
■上杉の義■大義
人心も荒廃する戦国時代。越後の龍・上杉謙信は、助けを求める者に見返りも求めず軍勢を差し向けた武将でした。秩序を重んじて将軍家を敬い、官位官職を得たうえで大義の名のもとに行動し、家臣たちを統率しました。
そんな謙信に率いられ、家風として熟成されていった大義こそが「上杉の義」なのかもしれませんね。箇条書きにできるような細かな決め事ではなく、言葉で言い現わせない空気のようなもの。大きな枠組みとしては
『利より大義を軸に動く』
ということかと思われます。
上杉の義を「正義」と言い切る人もいます。それも受け止め方として良いと思いますが、私個人はあくまで「大義」と思う方がしっくりきます。思考のパターンとして、細かい事情より、大枠で大切な方を選択する。といった感じですかね、、、。
謙信が実際の行動で示してきたことが、上杉家の家風の根底にある。だからこそ、謙信亡きあとも、上杉の家風はそう簡単には変わらない。上杉景勝が家康を追撃しなかった理由については諸説あり、謎のままです。私個人は『景勝という男が謙信から受け取ったものは、実利より重いものだった』と思っています。私のような凡人では受け取れないものを、きっと大切にしていたのだと。
そもそも景勝という人は、ちょっと変わった人物だったようですね。人前であまり表情は変えず、生涯に一度しか笑わなかったとさえ言われています(飼っていた猿の仕草を見て笑っただけ)。筋を通し、かなりガンコ。なぜか女嫌い。実務的なことは頭の回転の速い兼続がこなし、景勝はドンと構えているタイプ(逆にチョコチョコとは動けないのかもしれませんね?)。そういう人ですから、目先にのことに戦々恐々としてしまう一般人と感覚がかけ離れていても、あまり違和感がありません。
■慶長出羽合戦■〜長谷堂城の戦い〜
家康を追撃しなかった上杉軍。会津へ戻ると、直江兼続が兵を率いて最上義光の領内へ侵攻します。これについては前の投稿通りです。
<長谷堂城跡と稲田>
この戦いの背景として、まぁ諸説あるのですが、もともと豊臣秀吉が上杉家を越後から会津へ国替えとした大義は「東北の押さえ役」を任せるため。豊臣家にとっての「北の守護神」となるためです。領土を欲した戦いではなく、服従させて味方にし、豊臣時代の決め事を次々と反故にする徳川に対抗することが目的だったと思います。
ただ、まさか「関ヶ原の戦い」が一日で終わるとは考えてもみなかったでしょうね。徳川軍が西に行っている間に山形を攻略しておく。この目論見が外れた上に、西軍が敗れるという結末。お先真っ暗ですね。景勝の気持ちは想像できませんが、兼続ほかの家臣団はさぞ途方に暮れたことでしょう。
<展望台から見た山形市>
山形城三の丸跡に建つ高層ビル(霞城セントラル)からの眺め。逆光でちょっと分りにくいですが、左手の下の方に見える小さな山が長谷堂城(背景の大きな山ではなく手前)。その周辺が古戦場です。約8qの距離。肉眼ではもうちょっと良く見えました。
上杉軍は長谷堂から兵を退きます。最上軍から激しい追撃を受けながらも、何とか撤退は終了。もっと巨大な敵とどう向き合うか、生き残りを掛けた選択を迫られます。
■和議の道■
関ヶ原の戦いで西軍敗北。といっても、上杉家そのものが戦に敗れた訳ではありません。その後も徳川家との緊張状態は続きました。まだ戦うつもりの者も多かったことでしょう。ただ内部で協議を繰り返した結果、和議の道を模索することになります。勿論、和議の条件があまりに理不尽なものであれば、改めて戦う準備をしたかもしれません。
翌年(1601年7月)、上杉景勝と直江兼続は会津を発ち京都へ向かいました。事前にさまざまな交渉を繰り返し(主に家康側近の本田正信と交渉)、この時を迎えました。兼続は、戦に関する責任は全て重臣である自分にあること、主君・景勝は徳川軍への追撃を自分に許さなかったなどを説明。一身に罪を受ける旨を申し出ました。その姿は、強きにへつらう者とはほど遠い、正々堂々たる武士の姿だったと伝わります。
■つわものどもが夢の跡■
<米沢城にて>
上杉景勝は出羽米沢30万石へ減移封となるものの、家の存続は許されました。上杉の歴史は続きます。いや、もしかしたらここからが本番かも知れませんね。
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2017年10月21日
長谷堂古戦場 秋の訪問記
<富神山>
綺麗な円錐と聞いていたので間違いありません。富神山(とがみやま)です。ここでの合戦の際に上杉軍総大将の直江兼続が登った山。敵方である最上義光の居城・山形城を眺めようとしましたが、霞で十日間見ることはできませんでした。これによりあの山は十日見山(とうかみ→とがみ)、山形城は霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれるようになりました。
■長谷堂古戦場■
関ヶ原の戦いと同時期に始まった慶長出羽合戦。上杉軍と最上軍の激突です。その最大の戦いの舞台となったのがここ長谷堂。最上側の防衛の要である長谷堂城を陥落させるべく、上杉勢が怒涛のごとく攻め寄せました。「北の関ヶ原」と呼ばれる攻防戦。山形市南部に位置するその古戦場を探索しました。
<長谷堂>
到着しました。山形市南部のバス停。かつて歴史に残る合戦があった場所です。山形城から約8kmの距離を実感すべく、今回は山形駅前からバスを利用しました。
■稲田と山城■
関ヶ原の戦いは慶長5年9月15日。西暦だと1600年10月21日。遠く離れたここ出羽国長谷堂における合戦も偶然同日に始まりました。この地には過去に2度来ていますが、今回は意識してこの季節に訪問。稲穂が波をうつ古戦場で難攻不落の山城を眺めるために。
<稲田と長谷堂城>
あら、稲刈りは済んでますね。
いきなり見込み違いです。そりゃそうか・・・。残念です。まぁ想像力で補います。
攻め手の上杉軍は、稲を荒らして籠城する最上軍を挑発しました。まぁ当時はこんなに整備された姿ではないでしょうが、やはり食糧となる命の息吹に囲まれていたはずです。上杉兵はその深田に足をとられ、機動力が大幅に制限されました。城の強さには、周辺の環境も含まれます。
<古戦場>
広い古戦場は、一見すると平らに映りますが、実際に訪れてみれば、水の流れと稲田の段差が、緩やかな傾斜であることを教えてくれます。
<古戦場暗渠>あんきょ
復元された堀もいいですが、何とか昔の堀のなごりでもないかとうろうろ。この暗渠(道の部分です)は怪しいと思いながら撮影しましたが、あまり根拠はありません。まぁハズレも含めて探索です。
<復元>
薬研掘(やげんぼり)をイメージした堀跡の復元。この付近にかつて堀があったという目印ですね。
<長谷堂城跡公園入口>
山城の「八幡崎口」付近の広場と無料駐車場。トイレもあり。裏の小山が長谷堂城。
<案内板>
案内板も設置されています。左下のガラスケースにはパンフレット。訪問者に親切な公園です。
<八幡崎口>
案内板のすぐ近くが登山道入り口なので、今回もここから登りました。私はすんなり通過できますが、上杉軍は当初ここ八幡崎口と大手口を目掛けて力攻めを敢行し、堅い守りに阻まれました。
<城内>
前回の投稿とほぼ重複するので省略しますが、季節が違うとなんとなく気分も変わりますね。城内の緑も多少は秋らしくなりつつあります。それと、あまり汗をかかずに済みました。
■この時点での城の意義■
長谷堂城は最上義光の本城である山形城の支城の一つ。上ノ山(かみのみや)城、畑谷(はたや)城と並び、守りの固い城でした。畑谷城は壮絶な戦いの末に落城しており、本城での決戦を避けるためには、この城で上杉軍の進攻を食い止める必要がありました。
攻める上杉軍にとって、長谷堂城は通過点。目指すのはその先の山形城です。攻め滅ぼすというより、相当有利な条件での和議を考えていたのではないでしょうか。上杉軍は直江兼続の本隊が米沢方面から進撃するのと並行して、当時上杉領だった庄内地方からも最上領を侵攻していました。つまり、現在の山形県のほぼ全域が戦に巻き込まれていたわけですね。
■長谷堂城の戦い■
長谷堂城については夏の訪問記を「北の関ヶ原・激戦の山城」というタイトルで投稿させて頂きました。よろしければ覗いてみて下さい。
→記事へ進む
この時は最上側の視点でしたので、今度は上杉目線でふれさせて頂きます。
<展示されている推定復元図>
[現地撮影(学習研究社)]
-----最上側の武将-----
ともに最上家屈指の名将です。
■志村光安(しむら あきやす)
■鮭延秀綱(さけのべひでつな)
-----上杉側の武将-----
名前が載っている5名について
■直江兼続
ながらく上杉景勝を支えてきた智将。そして家老。この戦では総大将。上杉景勝より最上領攻略の指揮を任されていました。山城の右上に描かれている菅沢山に陣を敷いて全体を指揮しました。
■春日右衛門
春日元忠(かすがもとただ)はもともと武田氏の家臣。上杉に逃れ、家臣として活躍しますが、長谷堂城の戦いでは最上側の夜襲で陣屋を焼かれるなどの大敗を喫しました。右衛門は通称。
■色部修理
金山城主・色部光長(いろべみつなが)。直江兼続とは義兄弟(兼続の妹が正室)。この戦いでは先鋒を任されました。色部氏は謙信時代から上杉を補佐した家柄です。修理は自称の官位。
■上泉主水
上泉泰綱(かみいずみ やすつな)は新陰流の祖・上泉伊勢守信綱の孫で、会津一刀流剣術の開祖。小田原北条氏に仕えていたが、滅亡後は浪人となり、軍備補強を図る上杉家に仕官。臨時で集められた浪人衆とは異なり、身分はあくまで上杉家の正式な家臣です。長谷堂城の戦いで奮闘しますが戦死。
■杉原常陸
水原親憲(すいばらちかのり)は謙信にも仕えた上杉屈指の武将。長谷堂城の戦いでも活躍し、撤退戦では鉄砲隊二百を率いて最上軍の追撃を阻止した。のちに将軍家が書状の宛名を間違えて「杉原」としたのを機に改名。読み方は「すいばら」のまま。常陸は自称の官位(常陸介)。
以上、そうそうたるメンバーです。記載はありませんが、別な資料によれば、上泉主水と並んで前田利益(慶次郎)も陣取っていたと思われます。「花の慶次」のファンなので念のため。他に家臣とて溝口左馬之助や、牢人衆では山上道及なども参戦しています。
[兵力比較]
●上杉軍18,000
●最上軍 1,000(城兵)
<航空写真>
[現地の案内板を撮影]
まぁ写真だとこんな感じなので、色分けさせてもらいました。オレンジ●が長谷堂城。水色●が上杉軍が陣を敷いた菅沢山。
■最上・伊達の連合軍■別々に布陣
大軍をもってしても、志村光安が守る長谷堂城はなかなか陥落しません。そんなさなか、最上義光の援軍要請に応えるかたちで伊達軍が到着(上杉に和睦を申し出たばかりでしたが反故にして参戦)。政宗の叔父・留守政景が率いる3千です。更に最上義光も山形城を出陣。いよいよ本隊が動き始めました(9月25日)。
[兵力比較]
●上杉軍18,000
●連合軍12,000(城兵+最上・伊達軍)
だいぶ状況が変わりました。ただ伊達軍も最上本隊もいきなり長谷堂へ雪崩れ込むのではなく、適度な距離(2qくらい?)を保って止まります(合流せずそれぞれに布陣)。途中で川(須川)を渡る必要がありますが、その気になればいつでも接近できる距離です。ここからしばらくこう着状態となりました。
そして9月29日
上杉軍は長谷堂城へ総攻撃を仕掛けます。激しい戦闘となり、上杉軍の猛将・上泉主水が最上側に討ち取られました。
<主水塚>
古戦場に残る主水塚。上泉主水が壮絶な最期を遂げた場所です。後ろに見える小山が長谷堂城。すぐそばですね。
戦いが終わると、村人が主水ほか両軍の死者の供養のためにこの塚を作りました。
■西軍敗北の報せ■三成敗北
上杉軍1万8千をもってしても、約千人で立て籠もる長谷堂城は落ちませんでした。 戦いが始まってから約半月が過ぎ、関ヶ原における「西軍敗北」の報せが届き、上杉軍は退却を余儀なくされます。
上杉はもともと徳川家康を敵に回しています。こんなところで戦っている場合ではないということですね。ただ撤退というのはそう簡単なことではありません。更に、それまで戦況を見守っていた伊達軍と最上軍が足並みを揃えて動き始め、上杉軍の撤退は困難を極めます。
■総大将の殿■しんがり
ここで総大将の直江兼続が自ら殿(撤退する自軍の最後尾で敵をくい止める危険な役割)を買って出るところが泣かせます。自身の配下であっても、兵は主君・上杉景勝から預かったもの。これを守るために戦いました。
上杉側の視点では、ここが最大のポイントです。数的優位だったのが一転、逆に数で劣る状態で退きながら戦うことになりました。さすがに苦戦し、追い詰められた直江兼続は自害しようとしますが、前田利益(慶次郎)らに叱咤激励を受け、生きて役割を全うしました。鉄砲隊を率いた水原常陸介(親憲)の活躍が際立つのもこの場面です。
■つわものどもが夢のあと■
<最上義光>
[撮影:山形城] 霞城公園
北の関ヶ原で東軍として戦った最上義光。徳川家康から善戦を評価され、57万石の領地を支配することになります。足利一門(清和源氏)の最上氏は、義光の時に繁栄を極めます。
<上杉景勝と重臣・直江兼続>
[撮影:米沢城] 上杉神社
長谷堂城の戦いの翌年、上杉家は会津120万石から出羽米沢30万石へ減移封となりました。これ以降、直江兼続は領内の土地の開墾や治水事業に力を入れ、表向きの石高を大幅に上回る国を築き上げました。町の整備や殖産興業を推進し、米沢藩の基礎を築いてその生涯を閉じます。上杉家の米沢藩は幕末まで存続。上杉景勝はその初代藩主として藩政確立に力を注ぎました。
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綺麗な円錐と聞いていたので間違いありません。富神山(とがみやま)です。ここでの合戦の際に上杉軍総大将の直江兼続が登った山。敵方である最上義光の居城・山形城を眺めようとしましたが、霞で十日間見ることはできませんでした。これによりあの山は十日見山(とうかみ→とがみ)、山形城は霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれるようになりました。
■長谷堂古戦場■
関ヶ原の戦いと同時期に始まった慶長出羽合戦。上杉軍と最上軍の激突です。その最大の戦いの舞台となったのがここ長谷堂。最上側の防衛の要である長谷堂城を陥落させるべく、上杉勢が怒涛のごとく攻め寄せました。「北の関ヶ原」と呼ばれる攻防戦。山形市南部に位置するその古戦場を探索しました。
<長谷堂>
到着しました。山形市南部のバス停。かつて歴史に残る合戦があった場所です。山形城から約8kmの距離を実感すべく、今回は山形駅前からバスを利用しました。
■稲田と山城■
関ヶ原の戦いは慶長5年9月15日。西暦だと1600年10月21日。遠く離れたここ出羽国長谷堂における合戦も偶然同日に始まりました。この地には過去に2度来ていますが、今回は意識してこの季節に訪問。稲穂が波をうつ古戦場で難攻不落の山城を眺めるために。
<稲田と長谷堂城>
あら、稲刈りは済んでますね。
いきなり見込み違いです。そりゃそうか・・・。残念です。まぁ想像力で補います。
攻め手の上杉軍は、稲を荒らして籠城する最上軍を挑発しました。まぁ当時はこんなに整備された姿ではないでしょうが、やはり食糧となる命の息吹に囲まれていたはずです。上杉兵はその深田に足をとられ、機動力が大幅に制限されました。城の強さには、周辺の環境も含まれます。
<古戦場>
広い古戦場は、一見すると平らに映りますが、実際に訪れてみれば、水の流れと稲田の段差が、緩やかな傾斜であることを教えてくれます。
<古戦場暗渠>あんきょ
復元された堀もいいですが、何とか昔の堀のなごりでもないかとうろうろ。この暗渠(道の部分です)は怪しいと思いながら撮影しましたが、あまり根拠はありません。まぁハズレも含めて探索です。
<復元>
薬研掘(やげんぼり)をイメージした堀跡の復元。この付近にかつて堀があったという目印ですね。
<長谷堂城跡公園入口>
山城の「八幡崎口」付近の広場と無料駐車場。トイレもあり。裏の小山が長谷堂城。
<案内板>
案内板も設置されています。左下のガラスケースにはパンフレット。訪問者に親切な公園です。
<八幡崎口>
案内板のすぐ近くが登山道入り口なので、今回もここから登りました。私はすんなり通過できますが、上杉軍は当初ここ八幡崎口と大手口を目掛けて力攻めを敢行し、堅い守りに阻まれました。
<城内>
前回の投稿とほぼ重複するので省略しますが、季節が違うとなんとなく気分も変わりますね。城内の緑も多少は秋らしくなりつつあります。それと、あまり汗をかかずに済みました。
■この時点での城の意義■
長谷堂城は最上義光の本城である山形城の支城の一つ。上ノ山(かみのみや)城、畑谷(はたや)城と並び、守りの固い城でした。畑谷城は壮絶な戦いの末に落城しており、本城での決戦を避けるためには、この城で上杉軍の進攻を食い止める必要がありました。
攻める上杉軍にとって、長谷堂城は通過点。目指すのはその先の山形城です。攻め滅ぼすというより、相当有利な条件での和議を考えていたのではないでしょうか。上杉軍は直江兼続の本隊が米沢方面から進撃するのと並行して、当時上杉領だった庄内地方からも最上領を侵攻していました。つまり、現在の山形県のほぼ全域が戦に巻き込まれていたわけですね。
■長谷堂城の戦い■
長谷堂城については夏の訪問記を「北の関ヶ原・激戦の山城」というタイトルで投稿させて頂きました。よろしければ覗いてみて下さい。
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この時は最上側の視点でしたので、今度は上杉目線でふれさせて頂きます。
<展示されている推定復元図>
[現地撮影(学習研究社)]
-----最上側の武将-----
ともに最上家屈指の名将です。
■志村光安(しむら あきやす)
■鮭延秀綱(さけのべひでつな)
-----上杉側の武将-----
名前が載っている5名について
■直江兼続
ながらく上杉景勝を支えてきた智将。そして家老。この戦では総大将。上杉景勝より最上領攻略の指揮を任されていました。山城の右上に描かれている菅沢山に陣を敷いて全体を指揮しました。
■春日右衛門
春日元忠(かすがもとただ)はもともと武田氏の家臣。上杉に逃れ、家臣として活躍しますが、長谷堂城の戦いでは最上側の夜襲で陣屋を焼かれるなどの大敗を喫しました。右衛門は通称。
■色部修理
金山城主・色部光長(いろべみつなが)。直江兼続とは義兄弟(兼続の妹が正室)。この戦いでは先鋒を任されました。色部氏は謙信時代から上杉を補佐した家柄です。修理は自称の官位。
■上泉主水
上泉泰綱(かみいずみ やすつな)は新陰流の祖・上泉伊勢守信綱の孫で、会津一刀流剣術の開祖。小田原北条氏に仕えていたが、滅亡後は浪人となり、軍備補強を図る上杉家に仕官。臨時で集められた浪人衆とは異なり、身分はあくまで上杉家の正式な家臣です。長谷堂城の戦いで奮闘しますが戦死。
■杉原常陸
水原親憲(すいばらちかのり)は謙信にも仕えた上杉屈指の武将。長谷堂城の戦いでも活躍し、撤退戦では鉄砲隊二百を率いて最上軍の追撃を阻止した。のちに将軍家が書状の宛名を間違えて「杉原」としたのを機に改名。読み方は「すいばら」のまま。常陸は自称の官位(常陸介)。
以上、そうそうたるメンバーです。記載はありませんが、別な資料によれば、上泉主水と並んで前田利益(慶次郎)も陣取っていたと思われます。「花の慶次」のファンなので念のため。他に家臣とて溝口左馬之助や、牢人衆では山上道及なども参戦しています。
[兵力比較]
●上杉軍18,000
●最上軍 1,000(城兵)
<航空写真>
[現地の案内板を撮影]
まぁ写真だとこんな感じなので、色分けさせてもらいました。オレンジ●が長谷堂城。水色●が上杉軍が陣を敷いた菅沢山。
■最上・伊達の連合軍■別々に布陣
大軍をもってしても、志村光安が守る長谷堂城はなかなか陥落しません。そんなさなか、最上義光の援軍要請に応えるかたちで伊達軍が到着(上杉に和睦を申し出たばかりでしたが反故にして参戦)。政宗の叔父・留守政景が率いる3千です。更に最上義光も山形城を出陣。いよいよ本隊が動き始めました(9月25日)。
[兵力比較]
●上杉軍18,000
●連合軍12,000(城兵+最上・伊達軍)
だいぶ状況が変わりました。ただ伊達軍も最上本隊もいきなり長谷堂へ雪崩れ込むのではなく、適度な距離(2qくらい?)を保って止まります(合流せずそれぞれに布陣)。途中で川(須川)を渡る必要がありますが、その気になればいつでも接近できる距離です。ここからしばらくこう着状態となりました。
そして9月29日
上杉軍は長谷堂城へ総攻撃を仕掛けます。激しい戦闘となり、上杉軍の猛将・上泉主水が最上側に討ち取られました。
<主水塚>
古戦場に残る主水塚。上泉主水が壮絶な最期を遂げた場所です。後ろに見える小山が長谷堂城。すぐそばですね。
戦いが終わると、村人が主水ほか両軍の死者の供養のためにこの塚を作りました。
■西軍敗北の報せ■三成敗北
上杉軍1万8千をもってしても、約千人で立て籠もる長谷堂城は落ちませんでした。 戦いが始まってから約半月が過ぎ、関ヶ原における「西軍敗北」の報せが届き、上杉軍は退却を余儀なくされます。
上杉はもともと徳川家康を敵に回しています。こんなところで戦っている場合ではないということですね。ただ撤退というのはそう簡単なことではありません。更に、それまで戦況を見守っていた伊達軍と最上軍が足並みを揃えて動き始め、上杉軍の撤退は困難を極めます。
■総大将の殿■しんがり
ここで総大将の直江兼続が自ら殿(撤退する自軍の最後尾で敵をくい止める危険な役割)を買って出るところが泣かせます。自身の配下であっても、兵は主君・上杉景勝から預かったもの。これを守るために戦いました。
上杉側の視点では、ここが最大のポイントです。数的優位だったのが一転、逆に数で劣る状態で退きながら戦うことになりました。さすがに苦戦し、追い詰められた直江兼続は自害しようとしますが、前田利益(慶次郎)らに叱咤激励を受け、生きて役割を全うしました。鉄砲隊を率いた水原常陸介(親憲)の活躍が際立つのもこの場面です。
■つわものどもが夢のあと■
<最上義光>
[撮影:山形城] 霞城公園
北の関ヶ原で東軍として戦った最上義光。徳川家康から善戦を評価され、57万石の領地を支配することになります。足利一門(清和源氏)の最上氏は、義光の時に繁栄を極めます。
<上杉景勝と重臣・直江兼続>
[撮影:米沢城] 上杉神社
長谷堂城の戦いの翌年、上杉家は会津120万石から出羽米沢30万石へ減移封となりました。これ以降、直江兼続は領内の土地の開墾や治水事業に力を入れ、表向きの石高を大幅に上回る国を築き上げました。町の整備や殖産興業を推進し、米沢藩の基礎を築いてその生涯を閉じます。上杉家の米沢藩は幕末まで存続。上杉景勝はその初代藩主として藩政確立に力を注ぎました。
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2017年10月17日
出羽の虎将・最上義光 (山形城)
(山形城訪問の追記です)
最上義光
私が説明すると感情が入りすぎて長くなるので、まずは「ウィキペディア」さんの一部をそのまま引用させてもらいます。
『最上 義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。最上氏第11代当主。出羽山形藩の初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長させて全盛期を築き上げた。』
[出典元:wikipedia]2017/10/17
大筋はこんな戦国武将です。清和源氏の血をひく最上義守の嫡男として生まれ、戦国の世を駆け抜けた出羽の名将。個人的に上杉びいきなので、最初は『鬼』のように思っていました。これは、もれ伝わるご本人の体格やら腕力の強さなども含めて。しかし良く知れば、戦国期屈指の魅力的な武将です。
<最上義光騎馬像>
足二本で立つ騎馬像は珍しく、武勇で知られる最上義光らしい姿です。
■群雄割拠■ ライバル多い
戦国の世です。出羽には最上氏のほかに天童氏、白鳥氏、寒河江(さがえ)氏、大江氏らの実力者がそれぞれに勢力を誇っていました。まさに群雄割拠。最上義光はこれらと骨肉の争いを重ねながら、徐々に頭角を現していきます。明らかに勢いが増してくるのは三十代半ば以降でしょうか。中には白鳥十郎に対する「騙し討ち」なども含まれます。これはよほど思い通りにならない強敵だったのでしょう。このとき義光は39歳でした。寒河江氏を滅ぼし、天童頼久を討ったのもこの頃。今でいうアラフォーです。
■なぜ強い■ただの名門ではない
武勇に優れた義光。自らの手で武功を上げた話は多々ありますが、戦そのものも上手だったと言われています。具体的には調略。つまり「悪いようにしないから」という話で、敵の一部を味方に取り込んでしまい、相手の体制を切り崩す策を得意としました。卑怯?せこい?いや、なるべく「戦わずして勝つ」は孫子の兵法の極意。義光はそれを実践していたのではないでしょうか。そもそも信用されていなければ、敵も罠と思って話に乗ってはくれません。怖い存在でありながら、人情味もある最上義光の人柄が敵方にも知れ渡っていたからこそ、内通の話がまとまり易かった。そう考えられています。
まぁ騙し討ちされた白鳥十郎のようなケースもあることはありますね。ただその一方で、いかにも情に溢れる話も沢山あります。義光は三十代半ばで鮭延城を攻略しました。しかし城主の鮭延秀綱(さけのべひでつな)は家来となり、のちには重臣として活躍します。
また天童城を攻略した時、城主・天童頼澄(てんどうよりずみ)が陸奥国へと落ち延びようとすると、敢えて追撃するのをやめました。これは調略により自分の味方となった延沢満延(のべさわみつのぶ)の嘆願に応じたものです。「見逃してやってくれ」という思い。盟主を裏切る者の負い目を、義光が受け止めたからでしょう。
戦って強いだけでなく、その度量の広さゆえに、味方する者たちが増えた。私はそんな風に思っています。
●当ブログ関連記事
『鮭延秀綱の軌跡』
『天童城最後の城主・天童頼澄』
覗いて頂ければ嬉しいです。
■統治者・義光■ 戦だけじゃない
決して戦だけに明け暮れていた訳ではありません。この間に山形の街の整備、最上川の治水事業、はたまた山寺立石寺に土地を寄進するなど、国を治める者としてなすべきことも成しています。領民からも慕われる立派な統治者でした。また、最上氏はもともと名門の家柄。義光は育ちに由来して教養も兼ね備えた人物でした。
ちょっと褒めすぎですかね?文武両道にして人間味もある。そこに喜怒哀楽の激しさとか、荒々しさといった人間臭さも加えたのが、私にとっての最上義光です。逸話に事欠かない義光。こんな話があります。
『戦を指揮している最中、興奮して自ら戦場に飛び込んで行き、敵の首を一つぶら下げて誇らしげに戻って来た。すると家臣に「そんなつまらぬ首を誰に見せるおつもりか」(=大将のすることですか!)と涙ながらに諌められ、義光は気まずそうに手柄首を放り捨てた。』
かなり抜粋していますが大筋こんな話です。後世の作り話かも知れませんが、いかにもそれらしい。最上義光と家臣の関係すら伝わってくる話だと思います。
■甥との不仲■ 政宗の叔父
家臣にも領民にも好かれた大将。親戚であるはずの伊達政宗とは犬猿の仲でした。義光の妹・義姫は伊達家に嫁ぎました。政宗の実母です。四十を過ぎた頃、甥の政宗が大崎氏を攻めたのに対し、義光は大崎側に援軍を送ることになりました。最上義光と伊達政宗の間の緊張が最も高まった瞬間です。双方が戦闘体制となりましたが、義姫の尽力で和睦しました。
これまた逸話ですが、義姫は戦場に出向き、両軍の間に立ち塞がって動かなかったといわれています。
■迷惑な豊臣家■
伊達政宗が渋っていた豊臣秀吉の小田原攻め(1590年)。義光はしっかり参陣しています。この時45歳。その二年後には朝鮮出兵のため肥後に赴きます。かなり遠いですね。ただ渡航はしないで済んだようです。そして娘・駒姫の悲劇。駒姫は豊臣秀次に嫁ぐことになっていましたが、秀吉の命により突然秀次が切腹。これに伴い、娘まで処刑されてしまいました。この頃の秀吉は尋常ではありません。最上氏は秀次派とみなされる危機にさらされ続けました。
■上杉征伐に参陣■
徳川家康による上杉征伐。家康率いる大軍が会津を目指して北上する一方、これに従う奥羽の諸将は、北側から南下して米沢城を攻撃すべく、最上領内に集結していました。上杉家はこのとき120万石を誇る大大名ですが、これを包囲して攻撃する体制が整いました。ところが、家康の本隊が来ません。石田三成の挙兵により、上杉征伐は一旦中止となりました。
理由を失った諸将たちは、最上領内から引き上げてしまいます。特に領内で一揆が起きた南部氏(利直)は、急いで引き返してしまいました。これに対し、徳川家康の大軍と戦うつもりだった上杉家はいつも以上に豊富な兵力。伊達政宗は急いで上杉と和議。これができなかった最上家は、孤立した状態で上杉家120万石と対峙すことになってしまいました。
■長谷堂城の戦い■ 1600年
直江兼続率いる2万を超える軍勢が最上領内へ侵攻を開始。これに対し、最上義光の配下は7千余りでした。圧倒的に不利。支城は次々に陥落し、直江軍は山形城から目と鼻の先の長谷堂城まで迫りました。そして遠く離れた関ケ原で東軍と西軍が激突した日、長谷堂城での攻防戦も始まりました。半月間戦うも勝敗はつかず。関ケ原の報せが届き、上杉軍が兵を退いて幕引きとなりました。
●当ブログ関連記事
『北の関ヶ原・激戦の山城』
長谷堂城[山形市長谷堂]
■大大名・最上義光■
北の関ケ原。終わってみれば、上杉家は反徳川ということで大幅減封。最上家は東軍という扱いで評価され、57万石に加増。最上義光は全国屈指の大大名になりました。
戦乱の世も終わりに近づき、義光は領内の復興に力を入れました。山形城の改築や城下町の整備に取りかかり、治水事業も推し進めました。義光の政策は総じて領民思い。一揆もなく、良い統治者だったようです。1614年に病没。69年の生涯を閉じました。
最後に
冒頭の騎馬像。これは最上義光が決戦の場へ向かっていく勇姿を再現したものと言われています。決戦の場とは長谷堂城。つまり、上杉軍に立ち向かうべく自ら出陣した総大将の姿です。
追記としては長くなり恐縮です。最後までお読み頂いた方、ありがとうございます。
お城巡りランキング
最上義光
私が説明すると感情が入りすぎて長くなるので、まずは「ウィキペディア」さんの一部をそのまま引用させてもらいます。
『最上 義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。最上氏第11代当主。出羽山形藩の初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長させて全盛期を築き上げた。』
[出典元:wikipedia]2017/10/17
大筋はこんな戦国武将です。清和源氏の血をひく最上義守の嫡男として生まれ、戦国の世を駆け抜けた出羽の名将。個人的に上杉びいきなので、最初は『鬼』のように思っていました。これは、もれ伝わるご本人の体格やら腕力の強さなども含めて。しかし良く知れば、戦国期屈指の魅力的な武将です。
<最上義光騎馬像>
足二本で立つ騎馬像は珍しく、武勇で知られる最上義光らしい姿です。
■群雄割拠■ ライバル多い
戦国の世です。出羽には最上氏のほかに天童氏、白鳥氏、寒河江(さがえ)氏、大江氏らの実力者がそれぞれに勢力を誇っていました。まさに群雄割拠。最上義光はこれらと骨肉の争いを重ねながら、徐々に頭角を現していきます。明らかに勢いが増してくるのは三十代半ば以降でしょうか。中には白鳥十郎に対する「騙し討ち」なども含まれます。これはよほど思い通りにならない強敵だったのでしょう。このとき義光は39歳でした。寒河江氏を滅ぼし、天童頼久を討ったのもこの頃。今でいうアラフォーです。
■なぜ強い■ただの名門ではない
武勇に優れた義光。自らの手で武功を上げた話は多々ありますが、戦そのものも上手だったと言われています。具体的には調略。つまり「悪いようにしないから」という話で、敵の一部を味方に取り込んでしまい、相手の体制を切り崩す策を得意としました。卑怯?せこい?いや、なるべく「戦わずして勝つ」は孫子の兵法の極意。義光はそれを実践していたのではないでしょうか。そもそも信用されていなければ、敵も罠と思って話に乗ってはくれません。怖い存在でありながら、人情味もある最上義光の人柄が敵方にも知れ渡っていたからこそ、内通の話がまとまり易かった。そう考えられています。
まぁ騙し討ちされた白鳥十郎のようなケースもあることはありますね。ただその一方で、いかにも情に溢れる話も沢山あります。義光は三十代半ばで鮭延城を攻略しました。しかし城主の鮭延秀綱(さけのべひでつな)は家来となり、のちには重臣として活躍します。
また天童城を攻略した時、城主・天童頼澄(てんどうよりずみ)が陸奥国へと落ち延びようとすると、敢えて追撃するのをやめました。これは調略により自分の味方となった延沢満延(のべさわみつのぶ)の嘆願に応じたものです。「見逃してやってくれ」という思い。盟主を裏切る者の負い目を、義光が受け止めたからでしょう。
戦って強いだけでなく、その度量の広さゆえに、味方する者たちが増えた。私はそんな風に思っています。
●当ブログ関連記事
『鮭延秀綱の軌跡』
『天童城最後の城主・天童頼澄』
覗いて頂ければ嬉しいです。
■統治者・義光■ 戦だけじゃない
決して戦だけに明け暮れていた訳ではありません。この間に山形の街の整備、最上川の治水事業、はたまた山寺立石寺に土地を寄進するなど、国を治める者としてなすべきことも成しています。領民からも慕われる立派な統治者でした。また、最上氏はもともと名門の家柄。義光は育ちに由来して教養も兼ね備えた人物でした。
ちょっと褒めすぎですかね?文武両道にして人間味もある。そこに喜怒哀楽の激しさとか、荒々しさといった人間臭さも加えたのが、私にとっての最上義光です。逸話に事欠かない義光。こんな話があります。
『戦を指揮している最中、興奮して自ら戦場に飛び込んで行き、敵の首を一つぶら下げて誇らしげに戻って来た。すると家臣に「そんなつまらぬ首を誰に見せるおつもりか」(=大将のすることですか!)と涙ながらに諌められ、義光は気まずそうに手柄首を放り捨てた。』
かなり抜粋していますが大筋こんな話です。後世の作り話かも知れませんが、いかにもそれらしい。最上義光と家臣の関係すら伝わってくる話だと思います。
■甥との不仲■ 政宗の叔父
家臣にも領民にも好かれた大将。親戚であるはずの伊達政宗とは犬猿の仲でした。義光の妹・義姫は伊達家に嫁ぎました。政宗の実母です。四十を過ぎた頃、甥の政宗が大崎氏を攻めたのに対し、義光は大崎側に援軍を送ることになりました。最上義光と伊達政宗の間の緊張が最も高まった瞬間です。双方が戦闘体制となりましたが、義姫の尽力で和睦しました。
これまた逸話ですが、義姫は戦場に出向き、両軍の間に立ち塞がって動かなかったといわれています。
■迷惑な豊臣家■
伊達政宗が渋っていた豊臣秀吉の小田原攻め(1590年)。義光はしっかり参陣しています。この時45歳。その二年後には朝鮮出兵のため肥後に赴きます。かなり遠いですね。ただ渡航はしないで済んだようです。そして娘・駒姫の悲劇。駒姫は豊臣秀次に嫁ぐことになっていましたが、秀吉の命により突然秀次が切腹。これに伴い、娘まで処刑されてしまいました。この頃の秀吉は尋常ではありません。最上氏は秀次派とみなされる危機にさらされ続けました。
■上杉征伐に参陣■
徳川家康による上杉征伐。家康率いる大軍が会津を目指して北上する一方、これに従う奥羽の諸将は、北側から南下して米沢城を攻撃すべく、最上領内に集結していました。上杉家はこのとき120万石を誇る大大名ですが、これを包囲して攻撃する体制が整いました。ところが、家康の本隊が来ません。石田三成の挙兵により、上杉征伐は一旦中止となりました。
理由を失った諸将たちは、最上領内から引き上げてしまいます。特に領内で一揆が起きた南部氏(利直)は、急いで引き返してしまいました。これに対し、徳川家康の大軍と戦うつもりだった上杉家はいつも以上に豊富な兵力。伊達政宗は急いで上杉と和議。これができなかった最上家は、孤立した状態で上杉家120万石と対峙すことになってしまいました。
■長谷堂城の戦い■ 1600年
直江兼続率いる2万を超える軍勢が最上領内へ侵攻を開始。これに対し、最上義光の配下は7千余りでした。圧倒的に不利。支城は次々に陥落し、直江軍は山形城から目と鼻の先の長谷堂城まで迫りました。そして遠く離れた関ケ原で東軍と西軍が激突した日、長谷堂城での攻防戦も始まりました。半月間戦うも勝敗はつかず。関ケ原の報せが届き、上杉軍が兵を退いて幕引きとなりました。
●当ブログ関連記事
『北の関ヶ原・激戦の山城』
長谷堂城[山形市長谷堂]
■大大名・最上義光■
北の関ケ原。終わってみれば、上杉家は反徳川ということで大幅減封。最上家は東軍という扱いで評価され、57万石に加増。最上義光は全国屈指の大大名になりました。
戦乱の世も終わりに近づき、義光は領内の復興に力を入れました。山形城の改築や城下町の整備に取りかかり、治水事業も推し進めました。義光の政策は総じて領民思い。一揆もなく、良い統治者だったようです。1614年に病没。69年の生涯を閉じました。
最後に
冒頭の騎馬像。これは最上義光が決戦の場へ向かっていく勇姿を再現したものと言われています。決戦の場とは長谷堂城。つまり、上杉軍に立ち向かうべく自ら出陣した総大将の姿です。
追記としては長くなり恐縮です。最後までお読み頂いた方、ありがとうございます。
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2017年10月16日
最上家歴代当主の居城 山形城
最上義光の居城を訪ねました。「よしみつ」なんて読まないで下さいね。「よしあき」です。戦国武将ファンの間では有名ですが、世間一般の人気ではどうしても甥の伊達政宗に負けてしまいますね。知れば知るほど味があり、心が熱くなってしまう武将。そのなごりを感じるために山形市へやってまいりまた。
<本丸と堀>
10月中旬の訪問となりましたが、紅葉の見ごろはもうちょっと先ですかね。でもいい感じです。本丸は一度埋められてしまったそうですが、調査をしながら復元中です。
■最上氏の居城■ 初代から続く当主の城
この地に最初に城が築かれたのは1357年頃。羽州探題として山形へやってきた斯波兼頼(しばかねより)が城を構えたのが始まりとされています。斯波氏はのちに最上氏を名乗り、ここ山形城は最上氏宗家の城として歴代当主に受け継がれてきました。最上氏の祖である斯波氏は、室町幕府の将軍足利氏の有力一門。つまり最上氏も、清和源氏の足利氏の支流ということになります。
■最上義光の登場■ 出羽の虎将
血筋は名門でありながら長らく衰退した最上氏。しかし第11代当主の義光により、最上氏は飛躍的に勢力を拡大します。現在の山形県のうち、置賜郡(米沢周辺)を除くほぼ全域を支配するに至りました。名実ともに出羽の覇者。関ケ原の戦い直後の最上家は57万石。これはこの時点で全国5位です。最上義光は大大名にまで上り詰めました。
<最上義光公騎馬像>
こちらの銅像は絵として有名ですね。ここは二の丸跡。背後に見えているのは東大手門の裏側です。
繰り返しますが57万石で全国5位ですよ!実高は100万石とも言われる北の王国です。そしてあの有名な伊達政宗の叔父(妹の義姫が政宗の母)。もっと知られていても良いはずですよね。弱小と言っては言い過ぎですが、由緒正しいながらもあまり振るわなかった家の地位を、一気に押し上げた名将なのです。プロセスにおいてはかなりラフな(非道と思ったこともあります)側面もありますが、それが故に人情味のある部分が際立ち、なんとも魅力的な戦国武将です。英雄にして豪傑、、、、 (長くなりそうなので次の投稿にてまた・・・)
■広大な平城■ 輪郭式平城
現在の城跡は最上義光が城主の時に拡張したものが原型とされています。最上氏が改易された後、鳥居忠政により改修がなされ、ほぼいまの形となりました。遺構として面影を残す二の丸の堀・土塁・石垣は、鳥居忠政時代のものと推定されています。輪郭式平城としては全国有数の規模。いわゆる日本100名城に選ばれています。
(城用語の補足)曲輪の配置
輪郭式(りんかくしき)は二の丸や三の丸が本丸を囲むように配置される縄張り。本丸・二の丸・三の丸といった曲輪が並べて配置されるのが連郭式です。他にも種類はありますが、この二つがメジャーです。
■霞城公園■ 城址公園
城の遺構を保護しつつ、美しい公園として整備されています。城跡及び周辺には、山形市郷土館や山形県立博物館、山形美術館などなど。城下町として発展した市街地の中心に位置する城跡は、現在では文化の中心地となっています。また戦国武将ファンには嬉しい「最上義光歴史館」もすぐそば。上杉軍の銃弾で歪んでしまった最上義光の鎧も展示されています。
<水堀>
二の丸と三の丸を隔てる水堀。山形城は石垣も立派ですが、地味に土塁などを楽しみながら城跡散歩。
<南門>
今回はここから二の丸へ入りました。手前は三の丸跡ということになりますが、完璧に市街地化されているので遺構という感じはしません。駅から徒歩できましたが、実は駅もかつての三の丸のなかにあります。相当広い城だったことが分かります。
<堀と電車>
東京の四谷(真田濠付近)を思い出します。
■つわものどもが夢の跡■
<空堀>
隆盛を極めた最上義光ですが、最上家では義光亡きあと家督をめぐるお家騒動が勃発。その結論、幕府の命により最上家は改易されることとなりました。先祖代々の城も所領も没収。残念な結果です。1622年、義光が亡くなってから8年後のことでした。
-------■ 山形城 ■-------
別 名:霞ヶ城・霞城(か じょう)
築城年:1357年
築城者:斯波兼頼
改修者:最上義光・鳥居忠政
城 主:最上家歴代・鳥居氏他
廃城年:1871年(明治4)
[山形県山形市霞城町]
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<本丸と堀>
10月中旬の訪問となりましたが、紅葉の見ごろはもうちょっと先ですかね。でもいい感じです。本丸は一度埋められてしまったそうですが、調査をしながら復元中です。
■最上氏の居城■ 初代から続く当主の城
この地に最初に城が築かれたのは1357年頃。羽州探題として山形へやってきた斯波兼頼(しばかねより)が城を構えたのが始まりとされています。斯波氏はのちに最上氏を名乗り、ここ山形城は最上氏宗家の城として歴代当主に受け継がれてきました。最上氏の祖である斯波氏は、室町幕府の将軍足利氏の有力一門。つまり最上氏も、清和源氏の足利氏の支流ということになります。
■最上義光の登場■ 出羽の虎将
血筋は名門でありながら長らく衰退した最上氏。しかし第11代当主の義光により、最上氏は飛躍的に勢力を拡大します。現在の山形県のうち、置賜郡(米沢周辺)を除くほぼ全域を支配するに至りました。名実ともに出羽の覇者。関ケ原の戦い直後の最上家は57万石。これはこの時点で全国5位です。最上義光は大大名にまで上り詰めました。
<最上義光公騎馬像>
こちらの銅像は絵として有名ですね。ここは二の丸跡。背後に見えているのは東大手門の裏側です。
繰り返しますが57万石で全国5位ですよ!実高は100万石とも言われる北の王国です。そしてあの有名な伊達政宗の叔父(妹の義姫が政宗の母)。もっと知られていても良いはずですよね。弱小と言っては言い過ぎですが、由緒正しいながらもあまり振るわなかった家の地位を、一気に押し上げた名将なのです。プロセスにおいてはかなりラフな(非道と思ったこともあります)側面もありますが、それが故に人情味のある部分が際立ち、なんとも魅力的な戦国武将です。英雄にして豪傑、、、、 (長くなりそうなので次の投稿にてまた・・・)
■広大な平城■ 輪郭式平城
現在の城跡は最上義光が城主の時に拡張したものが原型とされています。最上氏が改易された後、鳥居忠政により改修がなされ、ほぼいまの形となりました。遺構として面影を残す二の丸の堀・土塁・石垣は、鳥居忠政時代のものと推定されています。輪郭式平城としては全国有数の規模。いわゆる日本100名城に選ばれています。
(城用語の補足)曲輪の配置
輪郭式(りんかくしき)は二の丸や三の丸が本丸を囲むように配置される縄張り。本丸・二の丸・三の丸といった曲輪が並べて配置されるのが連郭式です。他にも種類はありますが、この二つがメジャーです。
■霞城公園■ 城址公園
城の遺構を保護しつつ、美しい公園として整備されています。城跡及び周辺には、山形市郷土館や山形県立博物館、山形美術館などなど。城下町として発展した市街地の中心に位置する城跡は、現在では文化の中心地となっています。また戦国武将ファンには嬉しい「最上義光歴史館」もすぐそば。上杉軍の銃弾で歪んでしまった最上義光の鎧も展示されています。
<水堀>
二の丸と三の丸を隔てる水堀。山形城は石垣も立派ですが、地味に土塁などを楽しみながら城跡散歩。
<南門>
今回はここから二の丸へ入りました。手前は三の丸跡ということになりますが、完璧に市街地化されているので遺構という感じはしません。駅から徒歩できましたが、実は駅もかつての三の丸のなかにあります。相当広い城だったことが分かります。
<堀と電車>
東京の四谷(真田濠付近)を思い出します。
■つわものどもが夢の跡■
<空堀>
隆盛を極めた最上義光ですが、最上家では義光亡きあと家督をめぐるお家騒動が勃発。その結論、幕府の命により最上家は改易されることとなりました。先祖代々の城も所領も没収。残念な結果です。1622年、義光が亡くなってから8年後のことでした。
-------■ 山形城 ■-------
別 名:霞ヶ城・霞城(か じょう)
築城年:1357年
築城者:斯波兼頼
改修者:最上義光・鳥居忠政
城 主:最上家歴代・鳥居氏他
廃城年:1871年(明治4)
[山形県山形市霞城町]
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2017年10月14日
三戸城 南部宗家の夢の跡
<三戸城>
陸奥北部に勢力を誇った南部一族。ここ三戸城は南部氏の宗家・三戸南部氏の本拠でした。場所は岩手県との県境。青森県三戸郡三戸町です。城跡は城山公園として整備されています。別名は留ケ崎城(とどめがさき)。ちょっと季節が違いますが、桜の名所とのことです。
--------( 南部氏 )--------
■南部氏の起源■甲斐源氏の一族
甲斐源氏は甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門(八幡太郎義家の弟・源義光から始まる)。なんとなくピンとこなくても、その代表格が「武田氏」と聞けば「ああ」と納得して頂けるのではないでしょうか。今回登場の南部氏も甲斐源氏から枝分かれした家筋。清和源氏の流れをくむ一族です。
南部氏の始祖は南部光行。源頼朝から甲斐国の南部郷(現在の山梨県南部町)を与えられ、館を構えて拠点としました(この時に南部三郎と名乗りました)。
それ山梨の話だろ?
はい。ちょっと青森からは遠いですね。ただこの時代の猛者たちは、ほんとうにフロンティア。東北のあちらこちらに源氏の末裔が根をはっています。南部氏もそんなフロンティア一族の仲間と言って良いのではないでしょうか。
■陸奥国へ■
鎌倉の源頼朝と奥州藤原氏との戦いにおいて、南部光行は頼朝に従軍(1189年)。この功績により、陸奥国糠部五郡の土地を与えられ(奉行を命じられ)、家臣とともに移住しました(1191年頃)。一族は陸奥北部に勢力を拡大します(移住については資料により異なっていますが、概ねこの時期)。
どういう感覚で突き進んで行ったのかわかりませんが、比較的安定を求める日本人の気質とはちょっと違いますね。ひとつの一所に留らず、流動的に次なる場所へと移って行く。現代でも、転職を繰り返してステップアップしていく人たちがいますね。身軽というか、考え方が流動的というか。リスクを受け入れて、新たな何かを手にしようとする姿勢。まぁ正直無茶するのもイヤなんですが、ちょっとは見習いたいですね。ちょっとは。
■三戸城■晴政
<石碑>
三戸城を築いたのは24代目当主の晴政(はるまさ)でした。もともと拠点としていた平城(聖寿寺館:しょうじゅじだて)を家臣に焼かれ、新たに築いた山城です。
家臣に放火されるとは物騒な・・・。拡大し続ける南部氏でしたが、あまり統制がとれていないのが実情だったようです。新たに堅固な山城を必要としたのは、他国の侵入に備えるというより、領内の中央集権化を推し進めるための手段だったようです。この当主、やや問題ありといった話もありますが、周囲の助けもあって、とにかく勢力を拡大しました。
■南部氏の謎■
三戸城を築いた晴政。この頃、南部氏そのものが八戸系と三戸系に分裂していたようで、晴政が本当に宗家の三戸系の生まれかどうか疑問視する説もあります。つまり、八戸系でありながら宗家を乗っ取ったという説です。これだけでも話がこんがらがるのに、晴政には長らく男子がなかったことから、勢力拡大に尽力した家から養子(娘の婿)を迎える話がまとまっていました。家督相続の候補者は田子信直。のちの南部信直です。ところが、晴政に実子・晴継が誕生。晴政は信直を疎んじ始め、更には争い、ドロドロの世界に突入です(そうとういろいろあるので省略)。
晴政が病没すると、長男・晴継が第25代当主となりますが、相続した直後に死亡。まだ13歳でした。諸説ありますが、父の葬儀からの帰路に暗殺された可能性が高いようです。首謀者としては、家督を狙っていた南部信直とする説が有力。ただ対立する九戸政実とする説まであります。いずれにしても、三戸城を築いた南部晴政の実子は、暗殺により短い生涯を閉じました。
1582年
田子信直が三戸南部氏の家督を継ぎ三戸城へ入城。第26代当主・南部信直の誕生です。
------( 城探索 )------
■縄張り■
典型的な山城です。城は馬淵川と熊原川の浸食によって形成された細長い独立峰を利用して築かれました。「天然の要害」です。この言葉、当ブログで頻繁に使いますが、そういう城に興味があって訪問してるので、結果としてそうなります。
東西に長い城山。西側に大手口、東側に搦手口。最も高い所が本丸で、その他の随所に曲輪。構造そのものは予習した通りです。
<鳩御門跡>
やや観光用に整備されているエリアもありますが、なるべく遺構と出会えるところを探索。
■広い・・・■予習不足
構造そのものは予習した通り。ただこの細長い山城、なんと1.5kmもあります。標高130m、比高で約90m。ネット検索して城の形に惚れ込んで訪問しましたが、思ったより広いです。
「これは結構疲れるかも」
登城前に川沿いも歩き回ったので、城内全部を徒歩は厳しいか?などと思い始めました。が、ひたすら歩きました。
時代が時代なので、もう少し小さく、のんびり歩き回れば縄張りを実感できるという甘い期待で訪問してしまいました。壮大な規模を誇る大掛かりなお山城です。復元された石垣とは別に、何らかの目的で集められた大きな石があちらこちらにゴロゴロ。これらもどこかに積まれていたのでしょうね。
<現地説明>
いまさら遅いですが、ちゃんと書いてありますね。
<網御門付近にて>
復元された門より、土塁ばかり眺めていました。奥に「天地有情」の石碑。
<武者溜>
ようするに城兵の詰所ですね。そのための曲輪です。
<糠部神社付近>
この付近には太鼓櫓跡や樹齢800年を越す杉などなど
<糠部神社本殿>
城内には模擬天守(歴史民俗資料館)などもありますが、この付近の方が重みがあっていいですね。他に武家屋敷跡や御馬屋跡などを徘徊し、探索を終了させました。
とにかくたくさんの曲輪を巡って石碑を確認する。その間に土塁や堀切と出会う。そんな探索でした。ひとつひとつの曲輪が予想より広く、城のなごりを味わうというより、せっせと任務?をこなすような感覚で歩き回りました。一通り終わってから、改めて縄張り図を確認。後からじんわりと実感がわいてきました。
■つわものどもが夢の跡■
<本丸跡>
南部氏は後に本拠を九戸城(岩手県二戸市)、そして盛岡城へ移すことになります。やがて盛岡藩が成立すると、信直の長男で、南部氏27代目当主となっていた利直が初代藩主となりました。
長い長い南部氏の歴史のなかで、ここ三戸城が拠点だった頃は、内部的には大混乱、対外的には飛躍の礎を築く時期だったのではないでしょうか。何かが変わる瞬間というのは、そういうものなのかもしれませんね。陸奥の猛者たちが栄華を夢見たところ。そのなごりを味わうことができました。
[青森県三戸町梅内]
お城巡りランキング
陸奥北部に勢力を誇った南部一族。ここ三戸城は南部氏の宗家・三戸南部氏の本拠でした。場所は岩手県との県境。青森県三戸郡三戸町です。城跡は城山公園として整備されています。別名は留ケ崎城(とどめがさき)。ちょっと季節が違いますが、桜の名所とのことです。
--------( 南部氏 )--------
■南部氏の起源■甲斐源氏の一族
甲斐源氏は甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門(八幡太郎義家の弟・源義光から始まる)。なんとなくピンとこなくても、その代表格が「武田氏」と聞けば「ああ」と納得して頂けるのではないでしょうか。今回登場の南部氏も甲斐源氏から枝分かれした家筋。清和源氏の流れをくむ一族です。
南部氏の始祖は南部光行。源頼朝から甲斐国の南部郷(現在の山梨県南部町)を与えられ、館を構えて拠点としました(この時に南部三郎と名乗りました)。
それ山梨の話だろ?
はい。ちょっと青森からは遠いですね。ただこの時代の猛者たちは、ほんとうにフロンティア。東北のあちらこちらに源氏の末裔が根をはっています。南部氏もそんなフロンティア一族の仲間と言って良いのではないでしょうか。
■陸奥国へ■
鎌倉の源頼朝と奥州藤原氏との戦いにおいて、南部光行は頼朝に従軍(1189年)。この功績により、陸奥国糠部五郡の土地を与えられ(奉行を命じられ)、家臣とともに移住しました(1191年頃)。一族は陸奥北部に勢力を拡大します(移住については資料により異なっていますが、概ねこの時期)。
どういう感覚で突き進んで行ったのかわかりませんが、比較的安定を求める日本人の気質とはちょっと違いますね。ひとつの一所に留らず、流動的に次なる場所へと移って行く。現代でも、転職を繰り返してステップアップしていく人たちがいますね。身軽というか、考え方が流動的というか。リスクを受け入れて、新たな何かを手にしようとする姿勢。まぁ正直無茶するのもイヤなんですが、ちょっとは見習いたいですね。ちょっとは。
■三戸城■晴政
<石碑>
三戸城を築いたのは24代目当主の晴政(はるまさ)でした。もともと拠点としていた平城(聖寿寺館:しょうじゅじだて)を家臣に焼かれ、新たに築いた山城です。
家臣に放火されるとは物騒な・・・。拡大し続ける南部氏でしたが、あまり統制がとれていないのが実情だったようです。新たに堅固な山城を必要としたのは、他国の侵入に備えるというより、領内の中央集権化を推し進めるための手段だったようです。この当主、やや問題ありといった話もありますが、周囲の助けもあって、とにかく勢力を拡大しました。
■南部氏の謎■
三戸城を築いた晴政。この頃、南部氏そのものが八戸系と三戸系に分裂していたようで、晴政が本当に宗家の三戸系の生まれかどうか疑問視する説もあります。つまり、八戸系でありながら宗家を乗っ取ったという説です。これだけでも話がこんがらがるのに、晴政には長らく男子がなかったことから、勢力拡大に尽力した家から養子(娘の婿)を迎える話がまとまっていました。家督相続の候補者は田子信直。のちの南部信直です。ところが、晴政に実子・晴継が誕生。晴政は信直を疎んじ始め、更には争い、ドロドロの世界に突入です(そうとういろいろあるので省略)。
晴政が病没すると、長男・晴継が第25代当主となりますが、相続した直後に死亡。まだ13歳でした。諸説ありますが、父の葬儀からの帰路に暗殺された可能性が高いようです。首謀者としては、家督を狙っていた南部信直とする説が有力。ただ対立する九戸政実とする説まであります。いずれにしても、三戸城を築いた南部晴政の実子は、暗殺により短い生涯を閉じました。
1582年
田子信直が三戸南部氏の家督を継ぎ三戸城へ入城。第26代当主・南部信直の誕生です。
------( 城探索 )------
■縄張り■
典型的な山城です。城は馬淵川と熊原川の浸食によって形成された細長い独立峰を利用して築かれました。「天然の要害」です。この言葉、当ブログで頻繁に使いますが、そういう城に興味があって訪問してるので、結果としてそうなります。
東西に長い城山。西側に大手口、東側に搦手口。最も高い所が本丸で、その他の随所に曲輪。構造そのものは予習した通りです。
<鳩御門跡>
やや観光用に整備されているエリアもありますが、なるべく遺構と出会えるところを探索。
■広い・・・■予習不足
構造そのものは予習した通り。ただこの細長い山城、なんと1.5kmもあります。標高130m、比高で約90m。ネット検索して城の形に惚れ込んで訪問しましたが、思ったより広いです。
「これは結構疲れるかも」
登城前に川沿いも歩き回ったので、城内全部を徒歩は厳しいか?などと思い始めました。が、ひたすら歩きました。
時代が時代なので、もう少し小さく、のんびり歩き回れば縄張りを実感できるという甘い期待で訪問してしまいました。壮大な規模を誇る大掛かりなお山城です。復元された石垣とは別に、何らかの目的で集められた大きな石があちらこちらにゴロゴロ。これらもどこかに積まれていたのでしょうね。
<現地説明>
いまさら遅いですが、ちゃんと書いてありますね。
<網御門付近にて>
復元された門より、土塁ばかり眺めていました。奥に「天地有情」の石碑。
<武者溜>
ようするに城兵の詰所ですね。そのための曲輪です。
<糠部神社付近>
この付近には太鼓櫓跡や樹齢800年を越す杉などなど
<糠部神社本殿>
城内には模擬天守(歴史民俗資料館)などもありますが、この付近の方が重みがあっていいですね。他に武家屋敷跡や御馬屋跡などを徘徊し、探索を終了させました。
とにかくたくさんの曲輪を巡って石碑を確認する。その間に土塁や堀切と出会う。そんな探索でした。ひとつひとつの曲輪が予想より広く、城のなごりを味わうというより、せっせと任務?をこなすような感覚で歩き回りました。一通り終わってから、改めて縄張り図を確認。後からじんわりと実感がわいてきました。
■つわものどもが夢の跡■
<本丸跡>
南部氏は後に本拠を九戸城(岩手県二戸市)、そして盛岡城へ移すことになります。やがて盛岡藩が成立すると、信直の長男で、南部氏27代目当主となっていた利直が初代藩主となりました。
長い長い南部氏の歴史のなかで、ここ三戸城が拠点だった頃は、内部的には大混乱、対外的には飛躍の礎を築く時期だったのではないでしょうか。何かが変わる瞬間というのは、そういうものなのかもしれませんね。陸奥の猛者たちが栄華を夢見たところ。そのなごりを味わうことができました。
[青森県三戸町梅内]
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2017年10月11日
銀河鉄道の昼(二戸駅から三戸駅)
「つわものどもが夢の跡」を訪ね歩く一人旅。北の猛将・九戸政実の居城の次は、南部宗家の居城を目指しました。
■いわて銀河鉄道■二戸駅から三戸駅へ
久しぶりの銀河鉄道です。前回は二戸駅から乗車して金田一温泉駅で下車。四戸城を訪ねました。といっても、九戸城で体力を使い切ってしまい、ほとんど動けませんでしたが・・・(大きな石だけ見て退散)。今回は前回の反省から、スケジュールにも余裕を持たせました。初めて訪問する三戸城に期待も膨らみます。いわて銀河鉄道、私は二戸駅からの乗車ですが、盛岡駅からずっと続いています。地元のみなさんの貴重な足ですね。言うまでもありませんが、宮沢賢治(岩手県出身)の代表作が名の由来です。
ところで、平日の昼ということもあるのでしょう。乗客は数人。最後は完全貸切状態となりました。
<いわて銀河鉄道>
メーテルも車掌さんも現れません(宮沢賢治で何か連想すればいいものを、銀河鉄道と聞くと999(スリーナイン)しか思い浮かびません)。
<滑走路?>
なかなか飛び立ちませんね〜(昼から飲んでる訳ではありませんが、そんな気分で線路の行方を見守る)。
■IGR■アイジーアール
正式には「IGRいわて銀河鉄道」といいます。IGR?
Iはまぁ岩手としてGは銀河。Rは鉄道だから、ここだけ英語なのだろう。
Iwate Ginga Railroad
ですかね。などと漠然と思ってましたが、本日ブログにするため念の為、本当に念の為調べてみたら
Iwate Galaxy Railway
ええ?あ、まぁGはGalaxy、なるほどです。で、レールはあってたけどroadじゃなくてwayですか。納得しましたが、たった3文字しかないのに2文字も間違ってることに笑うしかありません。
■青い森鉄道■
岩手県内は「IGRいわて銀河鉄道」が運営。青森県内は「青い森鉄道」になります。まぁ直通運転なので乗っていても意識しませんが、、、。前回下車した金田一温泉駅を過ぎてしばらくすると目時駅(めとき)に到着。この駅がIGRいわて銀河鉄道と青い森鉄道の境目になります。この駅は既に青森県(三戸町)。県境を越えました。いよいよ目的地の三戸駅まであと一つです。
(やや余談)
■一から九(地名)■県を跨ぐ
一戸から九戸。全国的には「八戸」が一番有名ですかね。これはよく話題になりますが、一から九が岩手と青森に跨って存在しています。何度聞いても一部忘れてしまうので、改めて整理しておきます(郡は省略します)。
●岩手県
一戸町・二戸市
●青森県
三戸町・五戸町・六戸町・七戸町・八戸市
●もう一回岩手県
九戸村
現在の地名だと、四戸(しのへ)はないのですね。「四戸氏」は存在したんですがね。
■一から九(士族)■みんな同族
南部氏の始祖は「南部三郎光行」。この息子たちが枝分かれしてそれぞれの士族の祖となりました。長男は一戸氏の祖、次男は南部氏を継承、三男が八戸氏、四男が七戸氏、五男が四戸氏、そして六男が九戸氏の祖となりました。
南部光行さん、息子たちを独立させ立派ですが、まさか子孫たちが戦になるとは夢にも思わなかったでしょうね。
■目的地■南部宗家の城
無事に三戸駅に到着。念のため帰りの電車の時刻をチェックしてから城へ向かいました。
■なんでわざわざ三戸に■郷土の城
勤務先に三戸の出身の方がいて、私が九戸城まで行った話をしたところ、三戸にも立派な城があるのにと残念そうに言われてしまいました。そりゃまぁ「日本中に城跡はあるのだから」と思いつつも念のためネットで画像検索。目に飛び込んできたのは、これがまた絵に描いたような山城の姿でした。
「なんと理想的な立地」
城内の様子ではなく、地形が良く分かる航空写真に衝撃を受けました。自然の川に面し、まるで船のように縦長の独立峰。更に調べていくと、かつてはそこにぎっしりと曲輪が配置されていたようです。その縄張りも興味深い。
「事前に知っていれば・・・」
地元の人からは「城山」と呼ばれているそうです。名門南部宗家の居城。そしてあの九戸政実と争った南部信直の居城です。
「これはいつか行かねば」
どっちみち九戸城へはもう一度行くつもりでしたので、そう心に決めました。
自分の故郷に、人に語れる城があるなんて羨ましいですね。城跡好きだからそう思うのでしょうか。いずれにせよ、名を馳せた士族が本拠としていた場所。そして歴史ある町です。教えてもらえたのも何かの縁。今回、やっとその時の思いが実現しました。
<三戸城>
馬淵川と熊原川の合流地点に位置する山城。今もなお残る余韻を求めて、探索開始です。
(次の記事へつづきます)
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■いわて銀河鉄道■二戸駅から三戸駅へ
久しぶりの銀河鉄道です。前回は二戸駅から乗車して金田一温泉駅で下車。四戸城を訪ねました。といっても、九戸城で体力を使い切ってしまい、ほとんど動けませんでしたが・・・(大きな石だけ見て退散)。今回は前回の反省から、スケジュールにも余裕を持たせました。初めて訪問する三戸城に期待も膨らみます。いわて銀河鉄道、私は二戸駅からの乗車ですが、盛岡駅からずっと続いています。地元のみなさんの貴重な足ですね。言うまでもありませんが、宮沢賢治(岩手県出身)の代表作が名の由来です。
ところで、平日の昼ということもあるのでしょう。乗客は数人。最後は完全貸切状態となりました。
<いわて銀河鉄道>
メーテルも車掌さんも現れません(宮沢賢治で何か連想すればいいものを、銀河鉄道と聞くと999(スリーナイン)しか思い浮かびません)。
<滑走路?>
なかなか飛び立ちませんね〜(昼から飲んでる訳ではありませんが、そんな気分で線路の行方を見守る)。
■IGR■アイジーアール
正式には「IGRいわて銀河鉄道」といいます。IGR?
Iはまぁ岩手としてGは銀河。Rは鉄道だから、ここだけ英語なのだろう。
Iwate Ginga Railroad
ですかね。などと漠然と思ってましたが、本日ブログにするため念の為、本当に念の為調べてみたら
Iwate Galaxy Railway
ええ?あ、まぁGはGalaxy、なるほどです。で、レールはあってたけどroadじゃなくてwayですか。納得しましたが、たった3文字しかないのに2文字も間違ってることに笑うしかありません。
■青い森鉄道■
岩手県内は「IGRいわて銀河鉄道」が運営。青森県内は「青い森鉄道」になります。まぁ直通運転なので乗っていても意識しませんが、、、。前回下車した金田一温泉駅を過ぎてしばらくすると目時駅(めとき)に到着。この駅がIGRいわて銀河鉄道と青い森鉄道の境目になります。この駅は既に青森県(三戸町)。県境を越えました。いよいよ目的地の三戸駅まであと一つです。
(やや余談)
■一から九(地名)■県を跨ぐ
一戸から九戸。全国的には「八戸」が一番有名ですかね。これはよく話題になりますが、一から九が岩手と青森に跨って存在しています。何度聞いても一部忘れてしまうので、改めて整理しておきます(郡は省略します)。
●岩手県
一戸町・二戸市
●青森県
三戸町・五戸町・六戸町・七戸町・八戸市
●もう一回岩手県
九戸村
現在の地名だと、四戸(しのへ)はないのですね。「四戸氏」は存在したんですがね。
■一から九(士族)■みんな同族
南部氏の始祖は「南部三郎光行」。この息子たちが枝分かれしてそれぞれの士族の祖となりました。長男は一戸氏の祖、次男は南部氏を継承、三男が八戸氏、四男が七戸氏、五男が四戸氏、そして六男が九戸氏の祖となりました。
南部光行さん、息子たちを独立させ立派ですが、まさか子孫たちが戦になるとは夢にも思わなかったでしょうね。
■目的地■南部宗家の城
無事に三戸駅に到着。念のため帰りの電車の時刻をチェックしてから城へ向かいました。
■なんでわざわざ三戸に■郷土の城
勤務先に三戸の出身の方がいて、私が九戸城まで行った話をしたところ、三戸にも立派な城があるのにと残念そうに言われてしまいました。そりゃまぁ「日本中に城跡はあるのだから」と思いつつも念のためネットで画像検索。目に飛び込んできたのは、これがまた絵に描いたような山城の姿でした。
「なんと理想的な立地」
城内の様子ではなく、地形が良く分かる航空写真に衝撃を受けました。自然の川に面し、まるで船のように縦長の独立峰。更に調べていくと、かつてはそこにぎっしりと曲輪が配置されていたようです。その縄張りも興味深い。
「事前に知っていれば・・・」
地元の人からは「城山」と呼ばれているそうです。名門南部宗家の居城。そしてあの九戸政実と争った南部信直の居城です。
「これはいつか行かねば」
どっちみち九戸城へはもう一度行くつもりでしたので、そう心に決めました。
自分の故郷に、人に語れる城があるなんて羨ましいですね。城跡好きだからそう思うのでしょうか。いずれにせよ、名を馳せた士族が本拠としていた場所。そして歴史ある町です。教えてもらえたのも何かの縁。今回、やっとその時の思いが実現しました。
<三戸城>
馬淵川と熊原川の合流地点に位置する山城。今もなお残る余韻を求めて、探索開始です。
(次の記事へつづきます)
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