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2018年08月22日

福島復興の城跡 名城の石垣

白河の小峰城にて

<小峰城の石垣>
shirononagori259 (1).jpg

2011年3月の東日本大震災により、城の正面に位置するこの付近の石垣は崩れ落ちました。画像は震災前のものではなく、本日の姿です。立入禁止の期間を経て、2015年4月に復興式が行われたそうです。

まだ新しさが漂いますが、これから適度に自然が押し寄せ、深味を増してゆくのでしょう。東北を旅した帰り道、訪問することができて良かったです。とても感慨深い石垣でした。

<日本100名城>
shirononagori259 (2).jpg
素晴らしい城郭。日本100名城に選ばれています。そしてまだ修復中。ということは、もっともっと魅力的にしてもらえるのですね。

ということで、メモ代わりの投稿でした。折角ですので、ちゃんと調べ直して再投稿させて頂きます。

2018.8.22


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タグ:日本100名城
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2018年08月19日

緑の息吹 城郭に押し寄せる自然

会津の若松城にて

shirononagori258A.JPG
美しさに圧倒されました。過酷な歴史と切り離しての話しですが・・・

shirononagori258C3.JPG

shirononagori258C.JPG

人の造りし物と、歳月をかけて押し寄せる自然の力。たぶんその調和の具合に心ひかれるのでしょう。

shirononagori258B.JPG

shirononagori258B3.JPG

圧倒されながら、美しさも感じる。

この感覚はどこから来るのでしょうか。

世界共通なのか、日本人独特なのか、私にはわかりません。ただ、命を謳歌する自然を、何となくそのまま受け入れる癖の如きものが、心の奥で作用しているような気がしてなりません。

また、城郭はいまもなお堂々たる佇まいですが、緑に覆われるさまは、方向性でいえば「朽ち」に向かっているのではないでしょうか。それを無意識に感じ取り、何となく受け入れている。ここでもやはり、朽ちることに価値を見出そうとする心の癖の如きものが作用しているような気がします。

自然を受け入れる。朽ちるものにも美を見出す。それらについて、どの程度を「心地よい」とするかは人それぞれかと思います。

ただ、心の根底で作用する癖の如きもの。これは多くの人が共有していることなのではないでしょうか。

<つわものどもが夢の跡>
shirononagori258D.JPG
心の奥まで揺さぶられる城跡でした。


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2018年07月29日

二本松城のなごり 伊達政宗も板垣退助も攻めた城

つわものどもが夢の跡
今回の訪問は二本松城です。戦国武将好きなので、伊達輝宗・政宗父子と争った二本松氏の居城として訪問しました。しかし、そんな「中世のなごり」などは残っていません。江戸を通じて存続した二本松城は立派な近世城郭。日本100名城にも選ばれています。

<箕輪門>
shirononsgori250 (4).jpg
二本松城のシンボル的な門です。

■室町時代中期の築城■
奥州探題を命じられた畠山氏がこの地に入り、畠山満泰が当主となった時に現在の場所に城が築かれたようです。畠山氏が二本松氏を名のったのもこの頃ではないかと考えられています。満泰以降、二本松氏当主歴代の居城として約140年も続きました。長い歴史ですね。小説などの影響もあり、私のイメージする二本松城はこの時代の山城です。


■二本松氏と伊達氏■
二本松氏、つまり畠山氏は、足利氏の支流ですから名門家です。しかし奥州におけるその後の地位確立という意味では、伊達氏や蘆名氏にはちょっと及ばなかったようですね。

伊達氏の当主が輝宗の頃、二本松氏との関係は悪いものではありませんでした。まぁ適度に距離を置いて、お互いに出過ぎたことはしないという感じでしょうか。しかし若い政宗が家督を継ぐと、伊達氏と二本松氏の微妙な関係は崩れてしまいます。

この頃、米沢を拠点とする伊達氏、会津の蘆名氏、常陸の佐竹氏の3勢力による争いが激化しつつありました。どれも大大名クラスです。周辺の小大名にしてみれば、この三大勢力のどこと組むかで、命運が左右されます。血気盛んな伊達政宗は、ライバルの蘆名氏や佐竹氏に良い顔をする小大名を許さず、容赦なく滅ぼしました。

これに脅威を感じとった二本松義継は、昔から交流のあった政宗の父に歩み寄る姿勢を示し、交渉に訪れます。面会ば実現しますが、義継はなんと輝宗を拉致してしまいました。そのまま人質として二本松城へ連れ帰ろうとしますが、これを知った政宗に追い付かれ、二本松城に駆け込む寸前で戦闘となってしまいます。伊達輝宗は政宗に向かって「わしもろとも撃て!」と叫んだそうです。政宗は躊躇したものの、義継たちに向かって発砲を開始。両軍による激しい戦闘となり、万策尽きた二本松義継は、伊達輝宗を殺害し、自害して果てたそうです(粟ノ巣の変)。

この話には諸説ありますが、どれも壮絶な話です。この戦いのあと、二本松城は政宗に攻められ開城。一旦は難を逃れた嫡流もやがて命を奪われ、名門二本松氏は滅亡しました。

その後、伊達政宗はここ二本松城に片倉景綱(=小十郎)や伊達成実といった伊達家の実力者を城代として配置しています。重要拠点という証ですね。しかし秀吉の「奥州仕置」により、伊達の支配は終焉をむかえます。

<城内>
shirononagori251 (9).jpg
歴史が長いので、いつの時代かわからない遺構をたくさん見かけました。


■戦国期以降の二本松城■
戦国の混乱期から江戸初期にかけては、蒲生氏上杉氏加藤氏と、支配者は次々に変わります。しかし1643年に二本松藩が成立し、初代藩主として丹羽光重が入城すると、丹羽氏10代による統治が幕末まで約220年続きました。戊辰戦争の難局に際しても城主は丹羽氏です。丹羽長国でした。新政府軍に攻められ、1868年9月15日(慶応4年7月29日)に落城しました。

<二本松少年隊群像>
shirononsgori250 (1).jpg
戊辰戦争で藩のために戦った少年兵の像です。こちらについては別途記事を投稿しましたので、良かったら覗いてみて下さい。
→『記事へ進む

<説明板>
shirononagori251 (14).jpg
二本松氏が築いた山城は、江戸時代にはそうとう広い城郭となっていたようですね。現在の市街地の北側に位置しています。標高345mの「白旗が峰」に築かれ、別名・白旗城とも呼ばれています。手前の大手門からの比高は100m強です。

shirononagori251 (6).jpg
城そのものの廃城は明治になってから。この時、残っていた建物も全て破却されました。


■霞ヶ城公園■
長年かけて門や石垣が復元され、美しい城址公園となっています。

<箕輪門と附櫓>
shirononagori251 (16).jpg
1982年に復元されました。

<高石垣>
shirononagori251 (15).jpg

<隅石>
shirononagori251 (7).jpg

<土の遺構>
shirononagori251 (10).jpg

<水の豊かな城内>
shirononagori251 (17).jpg
shirononsgori250 (5).jpg
もともと水に恵まれていたと思われます。

<城内の用水路>
shirononagori251 (18).jpg
しかしここまで充実しているのは、丹羽光重が城内に水を引くために築かせた水路によるものです。光重は10年かけてこの城を改修しました。

ざっとですが城内はこんな感じです。実際に天守閣があったのか不明ですが、現在天守台も復元され、見どころとなっています。


■つわものどもが夢の跡■
shirononagori251 (19).jpg
独眼竜こと伊達政宗が攻めた城。そして、板垣退助率いる新政府軍が攻めた城です。交通の要衝に位置する城には、深くて長い、そして壮絶な歴史が刻まれています。

-------■二本松城■-------
別 名:霞ヶ城・白旗城
築城年:室町中期(1441年頃)
築城者:畠山満泰
改修者:丹羽光重
城 主:二本松氏・伊達氏
蒲生氏・上杉氏・丹羽氏ほか
廃城年:1872年(明治5)
現 状 : 霞ヶ城公園
[福島県二本松市郭内]


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-----追 加-----
<二本松神社>
shirononagori251 (4).jpg
二本松駅の近くです。
shirononagori251 (1).jpg
二本松藩の総鎮守として信仰されていました。

-----おまけ-----
<駅前の交番>
shirononagori251 (3).jpg
なんとなく心が和みました

<明日は仕事>
shirononagori251 (2).jpg
ぼちぼち、帰りますかね

タグ:日本100名城
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二本松落城の日 二本松少年隊

本日は二本松城が落城した日です。

<二本松少年隊顕彰碑>
shirononsgori250 (1).jpg
二本松藩のために戦った少年隊の雄姿です。背後の女性像は、出陣服を仕立てる母の姿です。

■二本松城■

shirononsgori250 (7).jpg

二本松城というと、皆さんはどんなことを連想しますでしょうか?
伊達輝宗・政宗と争うことになった二本松氏の居城。江戸時代の近世城郭。そして日本100名城の一つ。それが私にとっての二本松城でした。そんな漠然としたイメージだけです。それだけに、実際に訪問し、目の当たりにした少年隊の碑はショックでした。何も知らない。情けなく、申し訳ない気持ちになりました。

戦国武将好きが転じてこんなブログをはじめましたが、江戸から明治にかけてはあまり関心がなく、無知です。戊辰戦争についても曖昧な認識のまま。鳥羽・伏見の戦いに勝利した政府軍が、関東から東北の抵抗勢力を次々と服従させ、函館の五稜郭でようやく内戦が終結した。そんな程度です。

■二本松少年隊■
東北戦争における少年兵というと、まず会津藩の白虎隊が思い浮かびます。飯盛山で自刃。世間によく知られた存在ですね。ただ、似た悲劇は二本松藩でもおきていました。

10万石の二本松藩の兵力は2千人弱。農民兵を含んだ数のようです。既に援軍として白河へ兵を送り出していため、城を守るには人手不足。この状態で迫りくる新政府軍と戦うことになり、老人、そして少年までも戦に参加することになりました。

更に、二本松藩では、いざという場合は少年の年齢を2歳加算するという独特の制度があったようです。つまり、実年齢より高い年齢として出兵させるということですね。この結果、最年少の兵は12歳となりました。

<長い坂道>
shirononsgori250 (3).jpg
駅を出て二本松城へ向かう途中の坂道です。まだまだ城跡まで距離がありますが、この辺りが大手門付近。そして戦場でした。二本松城の戦いは、終始籠城戦だったわけではなく、兵は城を飛び出して新政府軍と戦いました。

<少年隊 小沢幾弥 戦死の地碑>
shirononsgori250 (6).jpg
坂の途中の石碑。歴史資料館前にあります。詳細はあとからネット検索しました。
『師の朝河八太夫(砲術師範で朝河貫一の祖父)とともに出陣し、共に重傷を負う。
師を背負いながら退去の途中、大手門前で朝河八太夫の絶命を知り、屍を手で掘り埋めたといいます。その後土佐兵と遭遇したが、精根尽き果てたためか介錯を頼み、その場で絶命しました。』(出典:二本松市観光連盟ホームページ2018/7/29)


17歳だったそうです。息も途絶えそうな少年は、近寄る兵に「敵か味方か?」を尋ねました。その姿に同情し、新政府軍の兵は「味方だ」とこたえたそうです。少年は手振りだけで介錯を求めました。

こうした石碑はここだけではありません。訪問時の私に知識がなく、この石碑としか出会えませんでした。


■落城の日■

<箕輪門>
shirononsgori250 (4).jpg
江戸時代に整備された立派な城郭です。そして、実戦を経験することになりました。

<城内>
shirononsgori250 (5).jpg
水が豊富な城という印象です

戦況は圧倒的に不利。藩の重臣たちは抵抗を断念すると、城に自ら火を放って自害しました。二本松城と運命をともにしたわけですね。

慶応4年7月29日
二本松城は落城しました。

ただ、これにより指揮系統が遮断され、少年兵たちは戦場をさまようことになりました。これが更なる悲劇となったようです。ネット検索の結果をそのまま転記すると
『二本松藩の死者は218名に及び、その中には13歳から17歳までの少年兵18名も含まれている。』
(出典:Wikipedia 2018/7/29)
とのことです。


■士気の高さ■
二本松藩は、会津藩同様に忠君愛国の教育が浸透した藩。少年兵は、戦況を知った者たちの志願によるものだったそうです。また、藩としても苦渋の決断であったと伝わります。ただ何がどうかより、時代の流れが、まだ子供というレベルの命を奪ったことに変わりはありません。

<二本松城正面>
shirononsgori250 (2).jpg
急遽徴兵されたことから、二本松少年隊と名付けられたのは戦後の話だそうです。

こんな弱小ブログで、だからどうとか言うつもりもありません。ただこの光景を無関心で通過することはできなかった。ということは、同じ思いがした人はたくさんいるのではないか。そんな思いで、取り上げさせて頂きました。

<別名・霞ヶ城>
shirononsgori250 (8).jpg

最後までお読み頂き、ありがとうございます。


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2018年02月05日

水堀に積もる雪 米沢城の冬

ある程度まとまった休暇がとれるのは夏から秋。旅もその時期が多くなります。ただ何度も山形を訪問するうちに「冬を肌で感じないと」いけないような気持ちになり(ちょっとこういう点においてバカです)、無理矢理休みを取って訪問しました。住むことはできませんが、ちょっとだけでもと思い・・・

■米沢城■本丸跡
<水堀>
shirononagori196yomezawa (1).JPG
雪が降り積もる米沢。きゅっきゅっと雪を踏みしめてかつての本丸付近を探索。ここは水堀です。凍った水面に雪が積もり、遠くの方は境界線もはっきりしません。私の憧れる上杉家の皆さんも、こんな景色を見ていたのですね…。

それにしても誰とも合いません。とても静かで、自分の足音しか聞こえない。白い雪に足跡をつけながら、とぼとぼと一人歩き続けました。


■上杉家御廟所■うえすぎけごびょうしょ
<上杉家墓所>
shirononagori196yomezawa (2).JPG
上杉景勝から始まる米沢藩主たち、そして謙信公のお墓です。すっかり雪に覆われています。

shirononagori196yomezawa (3).JPG
何度も訪問していますが、いつもにもまして毅然と映ります。

今回の訪問で、寒さと足元の悪さだけは実感しました。ただ私が訪問した日は、曇り時々雪で風は少なめ。地元の人にしてみれば、穏やかな日だったのかも知れません。

雪はしんしんと降るだけでなく、激しく降ったり、あるいはずっと降りつづけたり・・・。これと向き合うには、旅行者の私などが想像もできない覚悟が必要なのでしょうね。まぁこの地で生まれ育った方は、その覚悟も準備も当たり前に身に着けているのかもしれませんが・・・。


(再び米沢城跡)

<上杉鷹山公>
shirononagori196yomezawa (4).JPG
鷹山公はもともと江戸の出身。日向高鍋藩主の次男であることから、九州の出身という誤解もありますが、生まれたのは江戸藩邸です。名門・上杉家の養子となり、十代後半で米沢へ移るわけですが、最初はまいったでしょうね。

家臣は言う事を聞かない、藩は破産寸前、そして江戸と比べるとそうとう寒い。鷹山公はそれでもめげませんでした。まぁ「まいったなぁこりゃ」くらいは思ったでしょう。でも、現実を受け入れる。そして自分がなすべき事をする。本当に強い方ですね。

なせば成る なさねば成らぬ
何事も成らぬは 人のなさぬなりけり

画像左側の石碑に、その名言が刻まれています。 

ということで、冬の米沢でした。
今年は関東も寒く、平野部でも雪が積もりましたね。米沢とは比べものになりませんが、春が待ち遠しいです。

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2017年11月14日

空に吸われし十五の心  (不来方のお城)

(盛岡城の追記です)

<お城からの眺め>
shirononagori moriokajo (8).JPG
盛岡城跡公園からの眺めです。

■不来方城■
不来方城(こずかたじょう)。これは盛岡城の別称です。現在の盛岡は、古くは不来方と呼ばれていました。神様に捕まった鬼が「二度と来ない」と約束した方向。そう伝承されています。ちなみに、その証として鬼が岩に手形を残したことが岩手の名の由来。

なんだか昔の人たちの願いが込められている感じがしますね。由来を知ると、なおさら素敵な名前です。

<不来方のお城>
shirononagori moriokajo (6).JPG
深まる秋・・・

■啄木の歌■
地元出身の石川啄木が、この不来方城(盛岡城)を題材にした歌を残しています。

不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸われし
十五の心


啄木は盛岡中学(盛岡第一高校)の卒業生。学校近くの城跡で草原に寝転び、空を見つめた経験があったのでしょう。素敵な歌だと思います。心の奥底の何かが、揺さぶられるような気がします。

誰でもかつて十五歳でした。皆さんにも似たような瞬間があったのではないでしょうか。あの時の気持ち、どこへ行ったのでしょうね。


城巡りを中心とした拙ブログですが、せっかく盛岡城を訪問しましたので、「不来方」の名、そして「啄木の歌」を紹介させて頂きました。たまたま読んで頂いた方が、何かしら感じてもらえればもらえれば嬉しいです。

shirononagori moriokajo ishigaki3.JPG
不来方のお城にて見あげた空。蒼天の日にまた来ますかね。

-----■不来方城■-----
正式名:盛岡城
築城者:南部信直
築城年:1598年
城 主:南部氏
廃城年:1871年

[岩手県盛岡市内丸]


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2017年11月13日

南部氏の名城 盛岡城

<盛岡城跡>
shirononagori moriokajo (7).JPG
南部氏の居城、盛岡城を訪問しました。現在は盛岡城跡公園として整備されています。市街地を進んで行くと、心の準備もなく目の前に現れる石垣に目を奪われます。
「こんな完璧な造りなのか・・・」

<目をひく石垣>
shirononagori moriokajo (3).JPG
東北地方において、これほどの石垣は希です。

■東北の名城■
城跡は盛岡駅から1kmほど。市街地にあり、比較的楽に訪問できます。旧北上川〈明治の治水工事以前の北上川〉と中津川の合流地点に位置する河岸段丘を利用した城。当時としてはかなり高度な技術を駆使して石垣か築かれました。東北三名城として、会津若松城、白河城と並び称される名城。日本百名城にも選ばれています。

〈北上川〉
shirononagori moriokajo (1).JPG
盛岡市内を流れる北上川。奥にそびえ立つのは標高2千メートル級の山「岩手山」です。

<石垣の城>
shirononagori moriokajo (4).JPG
しっかりとした造り。縄張りの分類だと「連郭式」です。

■南部の城■甲斐源氏の一族
南部氏は東北地方の北部(青森県三戸郡・八戸市周辺)を基盤に勢力を拡大した大名。武田氏と同じ甲斐源氏の流れをくむ名門の血筋です。もともとは三戸城を居城としていましたが、豊臣軍により九戸政実が滅ぼされると、九戸氏の居城だった九戸城へ移ります。ただ、統治する範囲が広がった南部氏にとって、九戸城は位置的に不便でした。更に、野心家の伊達政宗と領地が隣接することから、拠点をより南へ移してけん制する必要があったと考えられています。

【当ブログ関連記事】
よろしければ読んで下さい

『三戸城』訪問記へすすむ

■西国の影響■
築城者の南部信直(南部氏26代当主)は、時の天下人・豊臣秀吉と良好な関係を保っていましたので、ここへ移る前の九戸城の改修がそうであったように、西国大名の支援を受けて城を築いたようです。

盛岡市のホームページでは「城の縄張りは豊臣家重臣の浅野長政の助言よるもの」とあります。九戸城を改修したのは蒲生氏郷でした(改修して名を福岡城と改めましたが、その呼び方は後の時代に引き継がれず)。浅野長政、そして蒲生氏郷。助っ人の豪華さからして、南部氏は豊臣家から大変な支援を受けていたことになりますね。背景に「東北地方を何とか治めねば」という豊臣側の意図が見え隠れしています。一方で、南部の家督問題で身内と争った信直は、天下人に服従することで、当主としての正統性を得ました。お互いにとって好都合だったのかも知れませんね。

<石垣@乱積>
shirononagori moriokajo ishigaki2.JPG
石垣の積み方で分類すると「乱積(らんづみ)」。 不均一な石を積み上げていきます。

<石垣A布積>
shirononagori moriokajo ishigaki.JPG
こちらは「布積(ぬのづみ)」。ある程度加工してほぼサイズを揃えた石を積み上げます。

ひとくちに石垣と言っても、場所によって石の加工具合や積み方が異なります。城内の縄張り(曲輪の配置など)とともに、こういったところを見ながら探索するのも楽しみの一つです。

<石垣B隅石>
shirononagori moriokajo (2).JPG
石垣を積む時、角になる部分の強度は重要。この部分に使われる石を隅石(すみいし:「角石」)と呼びます。


■盛岡城の別名■不来方城
「不来方城 ( こずかたじょう ) 」と言った場合、一般的にはこの盛岡城を指しています。不来方は盛岡のもともとの地名。実は盛岡城築城以前から不来方には別の城があったことから、正確にはこれを指して「不来方城」と呼ぶそうです。ただまぁ私も一般的に通っている言い方を真似たいと思います。元々の城は「不来方城の前身」ということで。その「不来方」という地名ですが、南部藩主が「心悪しき文字」として嫌って「森ヶ岡」に改め、のちに「盛岡」となったようです。

<城内>
shirononagori moriokajo (5).JPG
11月中旬。城内もすっかり秋です。

■つわものどもが夢の跡■

<盛岡城からの眺め>
shirononagori moriokajo (8).JPG

南部氏の「中興の祖」とまで呼ばれる南部信直。秀吉に従い朝鮮出兵にも従事しますが(海は渡らず肥前名護屋城への参陣まで)、その後は広大な領内の基盤固めに努めました。盛岡城は1598年に築城が開始されます。しかし翌年の1599年に信直は病没。城の完成を見ることはありませんでした。没した場所は、かつて信直が天下軍の力を借りて滅ぼした九戸政実の居城・九戸城でした。

------■盛岡城■------
別 名:不来方城
築城者:南部信直(26代当主)
築城年:1598年
改修者:南部重直(28代当主)
城 主:南部氏
廃城年:1871年

[岩手県盛岡市内丸]



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2017年11月06日

荘厳の廟所 上杉家歴代の墓

<上杉家廟所>うえすぎけびょうしょ
sirononsgori 151UESUGI (5).jpg
荘厳という言葉しか思いつきません。ここは歴代藩主、そして謙信公の眠られている場所です。

樹齢400年を越える杉木立に囲まれた空間。飾り無く整然と立ち並ぶ御堂に圧倒されます。人によりますが、私はここを訪問すると凛とした気持ちになれます。

凛とする

ただ忙しく日常に埋もれていると、なかなかそんな気分になれません。静寂につつまれたこの空間。とても好きです。関東の人間なので頻繁には来れませんが、ここ5年くらいは毎年、最低でも1回は訪問しています。


<入口>
sirononsgori 151UESUGI (3).jpg
この時はちょっと早く来すぎてしまい、まだ開いてませんでした。朝は9時からです。この日の最初の訪問者となりました。

<参道>
sirononsgori 151UESUGI (2).jpg
厳格な雰囲気が漂います。もう何度目か忘れましたが、いつも無口になります。

<説明板>
sirononsgori 151UESUGI (6).jpg
上杉景勝没後、米沢藩主代々の墓所となりました。米沢藩主としては景勝が初代ですが、謙信を初代として上杉家歴代当主の名が連なります。第十代(つまり米沢藩主としては九代)が鷹山公。第12代斉定までの墓所になります。

sirononsgori 151UESUGI (7).jpg
中央が謙信公です。明治の城解体により、米沢城本丸にあった謙信の墓所がこの地に移されました。参道正面奥です。最初から真ん中に設けられていたわけではありません。

sirononsgori 151UESUGI (1).jpg
手前(左)の御堂は、造りが少し異なります。倹約を奨励した鷹山公、構造を「入母屋造り(いりもやづくり)」から「宝形造り(ほうぎょうづくり)」へ簡略化し、更に材質も落とされたそうです。こんなところまで・・・。事情を知れば、決して見劣りするものではありません。

<龍と毘>
sirononsgori 151UESUGI (4).jpg
かつて陣に掲げていた軍旗。御廟所の入り口に欠かさず掲げられています。米沢での上杉家は、何もかも順調だった訳ではありません。苦難に立ち向かい、歴史を刻んできました。そういう意味でも、掲げられた謙信の軍旗には感慨深いものがあります。

何度でも訪れたい場所です。

------■上杉家御廟所■------
拝観時間:
午前9:00〜午後5:00
[山形県米沢市御廟]1-5-30

当ブログ、お墓の画像は控えめにしておりますが、今回は例外としました。


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