アフィリエイト広告を利用しています

2017年08月11日

鮭延秀綱の軌跡(鮭延城から鮭延寺)

戦国武将好きです。今回は鮭延秀綱(さけのべひでつな)について。ややマイナー武将ですが、知る人ぞ知る出羽の名将です。

■旅の始まり■真室川町
<鮭延城跡>
sirononagori sakenobe (2).jpg
[山形県最上郡真室川町]
秀綱居城の入り口。山城です。

<山城探索>
sirononagori sakenobe (5).jpg
かなり「放っとかれた状態」でした。苔類がクッションになり、踏みつけるのが心苦しいくらいです。

中世末期、出羽国北部を支配した鮭延氏の居城です。築城時期は不明。真室川を望む高台にあり、別名は真室城。出羽の名将・鮭延秀綱の歴史はここから始まりました。

<真室川> まむろがわ
sirononagori sakenobe (6).jpg
最上川水系鮭川支流。秀綱にとって故郷の川ですね。

<正源寺> しょうげんじ
sirononagori sakenobe (4).jpg
山城の近くにある鮭延氏の菩提寺。鮭延貞綱(佐々木貞綱=秀綱の父)の菩提寺として開かれ、当初は「鮭延山総国寺」という名でしたが、秀綱が城主の時に正源寺に改称されたそうです。

立派な山門です(高さ13m、間口9.7m、奥行6.1m)。 門前が踏切(しかも参道の一部です)という状況は大変珍しい。鎌倉の江ノ電でもなかなか見ないような光景ですね。山と川に挟まれた狭い平地に寺も線路もあるので、結果としてこういうことになります。城が築かれたエリアの地形そのものが興味深いものでした。

<真室川駅>
SIRONONAGORImamuro.JPG
駅も素敵でした。

■そもそも鮭延氏とは■ 近江源氏
鮭延氏は近江源氏佐々木氏の一族。十五世紀末頃に一族で出羽国へ下り、地元の豪族である小野寺氏に仕えました。正確な時期は不明ながら、小野寺氏は最上氏他との抗争から、客将である佐々木氏を真室郷鮭延の地に派遣。この時に拠点となった天然の要害が、鮭延城の始まりです。またこの際に、小野寺氏から抗争の最前線を託された佐々木氏が、地名をそのまま名乗ったことが鮭延氏の始まりとされています。

■鮭延氏と最上氏■ 敵から始まり・・・
鮭延秀綱を語るのに、最上義光(よしあき)の名を省略することはできません。元々は敵対関係。秀綱が城主の時に、鮭延城は勢力拡大を目指す最上義光の攻撃を受けます。激しく抵抗したようですが、勢いもあり、更に調略にも長けた最上軍には勝てませんでした(1581年)。しかし命を奪われることなく、本領も安堵され、秀綱は最上家に仕えることになります。これにより、鮭延城は最上氏配下の北の拠点となりました。

<山形城・最上義光銅像>
sirononagori sakenobe (3).jpg
[山形県山形市]
最上家11代目当主。あの伊達政宗の伯父でもあります。仲は悪かったようです。

個人的に上杉びいきなので、対立する最上義光に最初は良いイメージがありませんでした。ところが、良く知ればこれまた魅力的な大将。出羽国の覇者であり、人間味溢れる英雄。そして鮭延秀綱の主です。

■家臣として大活躍■ 勇猛にして忠義の武士
戦歴すべては書けませんが、特に最上家に危機が迫った「長谷堂城の戦い」で大活躍。相手は直江兼続率いる上杉軍です。秀綱は直接兵を率いて上杉本陣に迫るなど、敵からも賞賛される働きをしました。直江兼続に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめたほどです。

<長谷堂城>
sirononagori sakenobe (7).JPG
[山形県山形市]長谷堂古戦場
堅城と賞される山城。最上義光の居城・山形城の支城です。くしくも関ヶ原の戦いと同日に戦いの火蓋が切られました。関ヶ原の結末を知らないまま、戦いは約半月間。秀綱は副将格としてこの城に入り奮闘します。最上側は数的に不利ながら善戦しました。

■主が57万石石高ランキング5位
「長谷堂城の戦い」後、反徳川の上杉と戦った最上義光は、57万石の領地を支配することになります。これはこの当時で全国5位。最上氏は義光の時に繁栄を極めます。家臣である鮭延秀綱にとっても、人生の絶頂期だったかも知れませんね。

■最上騒動■ 義光亡き後
最上義光亡き後、最上家は家督相続にまつわるお家騒動(最上騒動)で改易されてしまいます。ようするに城も領地も没収ということです。身分までも。
最上家において既に重臣となっていた鮭延秀綱は、騒動を長引かせたというお咎めにより、佐倉藩主・土井利勝の元に預かりとなりました。

<佐倉城跡>
sirononagori sakura9.jpg
[千葉県佐倉市]
老中・土井利勝の城です。

■この頃の逸話■
この頃の逸話は有名ですが、聞く話によって微妙に違います。私が聞いた話の要点だけを抜粋してまとめるとこんな感じです。

『罪を許された鮭延秀綱ですが、土井利勝から手を差し伸べられたにも関わらず「我が主は最上義光のみ」と言いって召し抱えの話を断り、出羽から自分を慕ってついて来た家来とともに江戸へ向かいます。家来たちは秀綱のために町人仕事に奮闘しますが上手くいかず、それでも何とか主を養おうと乞食に身を落とすことに。自分を慕う者達の必死の姿を見かねて、秀綱は過去へのこだわりを捨て、土井利勝に仕える道を選びました。』

こんな感じです。

■乞食大名■ 小説のタイトルです
直木賞作家の海音寺潮五郎の小説「乞食大名」(短編集『かぶき大名』収録)に、その人望がよく描かれています。勇猛でありながら部下思いのリーダー。私にとっての鮭延秀綱もそういう男です。どうせ仕事をするなら、こういう人のために精一杯働きたい。そう感じさせる人です。

■5千石■ かなりいい条件
土井利勝は5千石で鮭延秀綱を召し抱えました。決して少なくない石高です。ただ秀綱はこれを己のものとはせず、出羽以来の家来に全て分け与えてしまい、自身は家来のもとを転々として暮らしたともいわれています。

■旅の終わり■ 土井利勝とともに古河へ
土井利勝の国替えに従い、鮭延秀綱も古河へ移り住みます。この地が波乱の人生の最後の地となりました。

<古河城本丸跡>
kogajo (4).JPG
[茨城県古河市]

■つわものどもが夢の跡■
<鮭延寺> けいえんじ
sirononagori sakenobe (1).jpg
[茨城県古河市]
石碑には「鮭延越前守秀綱」と刻まれています。菩提を弔うため、秀綱を慕う家臣たちによって創建されました。出羽の名将のお墓は、ここ古河市の鮭延寺にあります。

鮭延寺shirononagori.jpg


最後に
冒頭の山形県真室川町、そして茨城県古河市。かなり距離がありますね。この二つの都市、接点もなさそうですが、姉妹都市を締結しています。そう、お察しの通りです。鮭延秀綱で繋がっています。


お城巡りランキング
posted by Isuke at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地
この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/6584406
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
検索
記事ランキング
[アクセスランキング]
  1. 1. 上杉謙信の軍旗 毘沙門天と懸かり乱れ龍
  2. 2. 真田の城 上州沼田城
  3. 3. 刑場近くの橋のなごり 泪橋と思川
  4. 4. 高遠城のなごり
  5. 5. 関東の連れ小便・政宗白装束の舞台 (石垣山城)
  6. 6. 矢之門から帯曲輪へ(白河市)小峰城
  7. 7. 小峯御鐘ノ台大堀切のなごり(小田原城)
  8. 8. 火の玉不動 大宮宿の水路と刑場のなごり
  9. 9. 金沢城のなごり
  10. 10. 大石内蔵助 終焉の地 細川家下屋敷跡
  11. 11. 暗渠と城跡34 渋取川と蓮上院土塁(小田原市)
  12. 12. 高天神城のなごり
写真ギャラリー
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
Isukeさんの画像
Isuke
もともとは無趣味の仕事人間。土日は家でゴロゴロ。本ブログは、そんな男が急に城跡巡りに目覚め、てくてくと歩き始めた記録です。
プロフィール
X (Twitter) Twitter-Isuke.JPG Isuke@shirononagori
最新記事

お城巡りランキングに参加中 [参加させて頂いた雑誌]

アクティブライフ・シリーズ009 クルマで行く 山城さんぽ 100【電子書籍】[ 交通タイムス社 ]

[当サイトお勧め本]

小説 上杉鷹山 全一冊 (集英社文庫(日本)) [ 童門 冬二 ]


感想(39件)