現在は城址公園として整備されています。
佐倉城訪問記の追記として、この城の築城者である土井利勝についてちょっと触れさせて頂きます。城や地形に興味があっての訪問でしたが、どうしても来たかった最大の理由は、ここが土井利勝ゆかりの地だからです。
■ 土井利勝とは ■ どいとしかつ
徳川家康と同じ三河の国の出身(1573年生)。幼少の段階で既に家康に才能を見込まれ、二代将軍となった秀忠からも絶大な信頼を得ていました。老中として活躍。幕府の中核としてその手腕を発揮した男です(1644年没)。
■異例の出世■
時系列に並べると以下の通りです。
1602年■小見川1万石 (後に1万加増)
1610年■佐倉3万2千石 老中就任
1612年 4万5千石
1615年 6万5千石
1625年 14万2千石
1633年■古河16万石
1638年 大老就任
1644年 大老のまま没 (享年72)
こうして整理してみると凄いですね。石高そのもは、地方の有力外様大名と比較して小さく見えるかもしれませんが、これは徳川の身内で固められた関東での話。そしてスケールより重要なのは着実に出世し、幕府内での地位を築いている点です。人柄も才覚も突出していたと評される利勝。最後の大老職は名誉職的なもので、最も活躍したのは老中のときのようです。特に、それまで権力のあった本多正純が失脚した1622年以降、老中・土井利勝は将軍を除けば意思決定の最高責任者という立場でした。
戦歴を省略してしまいましたが、無いわけではありません。天下分け目の「関ヶ原の戦い」で、徳川秀忠の軍が信濃上田城で真田昌幸に止められ、関ヶ原の決戦に間に合わなかった話は有名ですね。土井利勝もこの軍に加わっていました。大坂の陣でも利勝は秀忠付として従軍しています。ただ、特筆するような武功があったわけではありません。
土井利勝は幕府の組織作り・運営で才能を発揮した人。優秀な人材が沢山の徳川家臣団ですが、組織の環境が変われば、必要とされる人材も変ります。本人の才覚もさることながら、異例の出世の背景には、世の中の移り変わりも追い風になっているように思えます。
■ 家康の御落胤説 ■
落胤(らくいん):身分の高い男が正妻以外の身分の低い女に生ませた子。おとしだね。
[出典:goo辞書]
これは土井利勝というとお決まりで出てくる話です。あり得るかもしれません。ただ、本人の異例の出世とセットで語られたりすることもあり、土井利勝に好意的な私としてはあまり好きな話ではありません。
そもそも、親の七光りでチャンスが多かったり優遇されても、駄目な人は大成しません。むしろ身の丈に合わない地位の高さから、笑いものになることもあり得ます。これはいつの時代でも同じですね。ですから、土井利勝に関するこのお話は「そういえばそんな話も耳にしたことはあるなぁ」といった程度で済ませたいと思います。
■好意的な理由■ ちょっとヘンな理由
訪問記で触れさせて頂きましたが、私にとっては、佐倉城といえば土井利勝。築城者だからではなく、これには回りくどいようでシンプルな理由があります。
いまでこそ城跡も好きですが、もともとはただの「戦国武将」好き。土井利勝?ちょっと戦国武将っぽくないですよね。家康の家臣団なら、やはり本多忠勝とか井伊直政が好きです。出羽国のとある武将の武勇伝を深掘りしていくうちに、佐倉城主・土井利勝を意識するようになり、いつのまにか好きになっていました。
武将の名は鮭延秀綱(さけのべひでつな)。その活躍を上げたらきりがないので今回は省略しますが、簡単に言えば武人としての実力と人情味を兼ね備えた男(戦国の英雄はそんなのばっかりですが・・・)。あの最上義光の家臣でしたが、義光亡きあとの最上家お家騒動が原因で浪人となります。その身柄を預かったのが佐倉城主の土井利勝でした。
それだけ
たったそれだけの理由です。
史実及び逸話として語り継がれる鮭延秀綱の話から、私は土井利勝の人としての魅力を感じずにはいられません。土井利勝は最上家57万石が取り潰されることにも幕府の中核として関与しており、その結果として浪人となった鮭延秀綱を受け入れ、配慮し続けました。大きな決断から、起こってしまう結末まで、筋を通す一方で人情味もある。態度、度量に好意を持たざるを得ません。鮭延秀綱のような戦国の英雄とは別の意味で、格好いいではないですか!
<つわものどもが夢の跡>
土井利勝は、身柄を預かっていた鮭延秀綱をのちに召抱えました。
最後に
会社員のブログですので、その程度に受け止めて下さい。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:佐倉城
[千葉県佐倉市城内町]
---------(追 記)---------
2017年08月11日
仕事の合間を狙って、約3年かけて訪ね歩いた鮭延秀綱ゆかりの地について投稿させて頂きました。宜しければのぞいてみて下さい。戦国の世の雰囲気を残しつつ、実際の戦では目立たなかった土井利勝と佐倉城。関心を持てた理由はこの「出羽の猛将」のおかげてす。
→鮭延秀綱の軌跡
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タグ:千葉
私は雑誌のライターをしております、小川と申します。
この度は、「山城さんぽ」(発行・交通タイムズ)という雑誌の製作にご協力いただけないかと思い、コメントさせていただいた次第です。
メールフォームがございませんでしたので、コメントをさせていただいたのですが、他にご連絡の手段はございますでしょうか?
よろしければ、私の方にご連絡をいただけますと幸いでございます。
ご依頼内容はアンケートに答えて頂くことと、写真を借用させていただくというものなのですが、詳細をご説明させていただけますと幸いです。
このような内容のコメントは、差し控えるべきかと思ったのですが、申し訳ございません。コメントは承認していただかなくても大丈夫です。
お忙しいところ大変恐れ入りますが、ご検討のほど、よろしくお願い致します。