(山形城訪問の追記です)
今回は
出羽国の小勢力から始まり、全国有数の大大名となった最上義光のご紹介です。
<最上義光騎馬像> もがみよしあき
足二本で立つ騎馬像は珍しく、武勇で知られる最上義光らしい姿です。
私が説明すると感情が入りすぎて長くなるので、まずは「ウィキペディア」さんの一部をそのまま引用させてもらいます。
『最上 義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。最上氏第11代当主。出羽山形藩の初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長させて全盛期を築き上げた。』
[出典元:wikipedia]2017/10/17
大筋はこんな戦国武将です。清和源氏の血をひく最上義守の嫡男として生まれ、戦国の世を駆け抜けた出羽の名将。個人的に上杉びいきなので、最初は『鬼』のように思っていました。これは、もれ伝わるご本人の体格やら腕力の強さなども含めて。しかし良く知れば、戦国期屈指の魅力的な武将です。
■ 群雄割拠 ■ ライバル多い
戦国の世です。出羽には最上氏のほかに天童氏、白鳥氏、寒河江(さがえ)氏、大江氏らの実力者がそれぞれに勢力を誇っていました。まさに群雄割拠。最上義光はこれらと骨肉の争いを重ねながら、徐々に頭角を現していきます。明らかに勢いが増してくるのは三十代半ば以降でしょうか。中には白鳥十郎に対する「騙し討ち」なども含まれます。これはよほど思い通りにならない強敵だったのでしょう。このとき義光は39歳でした。寒河江氏を滅ぼし、天童頼久を討ったのもこの頃。今でいうアラフォーです。
■ なぜ強い ■ただの名門ではない
武勇に優れた義光。自らの手で武功を上げた話は多々ありますが、戦そのものも上手だったと言われています。具体的には調略。つまり「悪いようにしないから」という話で、敵の一部を味方に取り込んでしまい、相手の体制を切り崩す策を得意としました。卑怯?せこい?いや、なるべく「戦わずして勝つ」は孫子の兵法の極意。義光はそれを実践していたのではないでしょうか。そもそも信用されていなければ、敵も罠と思って話に乗ってはくれません。怖い存在でありながら、人情味もある最上義光の人柄が敵方にも知れ渡っていたからこそ、内通の話がまとまり易かった。そう考えられています。
まぁ騙し討ちされた白鳥十郎のようなケースもあることはありますね。ただその一方で、いかにも情に溢れる話も沢山あります。義光は三十代半ばで鮭延城を攻略しました。しかし城主の鮭延秀綱(さけのべひでつな)は家来となり、のちには重臣として活躍します。
また天童城を攻略した時、城主・天童頼澄(てんどうよりずみ)が陸奥国へと落ち延びようとすると、敢えて追撃するのをやめました。これは調略により自分の味方となった延沢満延(のべさわみつのぶ)の嘆願に応じたものです。「見逃してやってくれ」という思い。盟主を裏切る者の負い目を、義光が受け止めたからでしょう。
戦って強いだけでなく、その度量の広さゆえに、味方する者たちが増えた。私はそんな風に思っています。
●当ブログ関連記事
『鮭延秀綱の軌跡』
『天童城最後の城主・天童頼澄』
覗いて頂ければ嬉しいです。
■ 統治者・義光 ■ 戦だけじゃない
決して戦だけに明け暮れていた訳ではありません。この間に山形の街の整備、最上川の治水事業、はたまた山寺立石寺に土地を寄進するなど、国を治める者としてなすべきことも成しています。領民からも慕われる立派な統治者でした。また、最上氏はもともと名門の家柄。義光は育ちに由来して教養も兼ね備えた人物でした。
ちょっと褒めすぎですかね?文武両道にして人間味もある。そこに喜怒哀楽の激しさとか、荒々しさといった人間臭さも加えたのが、私にとっての最上義光です。逸話に事欠かない義光。こんな話があります。
『戦を指揮している最中、興奮して自ら戦場に飛び込んで行き、敵の首を一つぶら下げて誇らしげに戻って来た。すると家臣に「そんなつまらぬ首を誰に見せるおつもりか」(=大将のすることですか!)と涙ながらに諌められ、義光は気まずそうに手柄首を放り捨てた。』
かなり抜粋していますが大筋こんな話です。後世の作り話かも知れませんが、いかにもそれらしい。最上義光と家臣の関係すら伝わってくる話だと思います。
■ 甥との不仲 ■ 政宗の叔父
家臣にも領民にも好かれた大将。親戚であるはずの伊達政宗とは犬猿の仲でした。義光の妹・義姫は伊達家に嫁ぎました。政宗の実母です。四十を過ぎた頃、甥の政宗が大崎氏を攻めたのに対し、義光は大崎側に援軍を送ることになりました。最上義光と伊達政宗の間の緊張が最も高まった瞬間です。双方が戦闘体制となりましたが、義姫の尽力で和睦しました。
これまた逸話ですが、義姫は戦場に出向き、両軍の間に立ち塞がって動かなかったといわれています。
■ 迷惑な豊臣家 ■
伊達政宗が渋っていた豊臣秀吉の小田原攻め(1590年)。義光はしっかり参陣しています。この時45歳。その二年後には朝鮮出兵のため肥後に赴きます。かなり遠いですね。ただ渡航はしないで済んだようです。そして娘・駒姫の悲劇。駒姫は豊臣秀次に嫁ぐことになっていましたが、秀吉の命により突然秀次が切腹。これに伴い、娘まで処刑されてしまいました。この頃の秀吉は尋常ではありません。最上氏は秀次派とみなされる危機にさらされ続けました。
■ 上杉征伐に参陣 ■
徳川家康による上杉征伐。家康率いる大軍が会津を目指して北上する一方、これに従う奥羽の諸将は、北側から南下して米沢城を攻撃すべく、最上領内に集結していました。上杉家はこのとき120万石を誇る大大名ですが、これを包囲して攻撃する体制が整いました。ところが、家康の本隊が来ません。石田三成の挙兵により、上杉征伐は一旦中止となりました。
理由を失った諸将たちは、最上領内から引き上げてしまいます。特に領内で一揆が起きた南部氏(利直)は、急いで引き返してしまいました。これに対し、徳川家康の大軍と戦うつもりだった上杉家はいつも以上に豊富な兵力。伊達政宗は急いで上杉と和議。これができなかった最上家は、孤立した状態で上杉家120万石と対峙すことになってしまいました。
■ 長谷堂城の戦い ■ 1600年
直江兼続率いる2万を超える軍勢が最上領内へ侵攻を開始。これに対し、最上義光の配下は7千余りでした。圧倒的に不利。支城は次々に陥落し、直江軍は山形城から目と鼻の先の長谷堂城まで迫りました。そして遠く離れた関ケ原で東軍と西軍が激突した日、長谷堂城での攻防戦も始まりました。半月間戦うも勝敗はつかず。関ケ原の報せが届き、上杉軍が兵を退いて幕引きとなりました。
●当ブログ関連記事
『北の関ヶ原・激戦の山城』
長谷堂城[山形市長谷堂]
■ 大大名・最上義光 ■
北の関ケ原。終わってみれば、上杉家は反徳川ということで大幅減封。最上家は東軍という扱いで評価され、57万石に加増。最上義光は全国屈指の大大名になりました。
戦乱の世も終わりに近づき、義光は領内の復興に力を入れました。山形城の改築や城下町の整備に取りかかり、治水事業も推し進めました。義光の政策は総じて領民思い。一揆もなく、良い統治者だったようです。1614年に病没。69年の生涯を閉じました。
最後に
冒頭の騎馬像。これは最上義光が決戦の場へ向かっていく勇姿を再現したものと言われています。決戦の場とは長谷堂城。つまり、上杉軍に立ち向かうべく自ら出陣した総大将の姿です。
以上です。
最後まで読んで頂いた方、ありがとうございました。
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会社員が興味で運営している個人ブログです。内容につきましては、その程度であることをご理解願います。
お城巡りランキング
2017年10月17日
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