山形城訪問のあと、最上義光ゆかりの寺を訪ねました。場所は城の東側、寺院が集中して立ち並ぶ「寺町」です。
山門が見えてきました。寺の多さには困惑しましたが、迷わずたどり着きました。
■ 専称寺 ■ せんしょうじ
最上義光が娘・駒姫のために建てた寺として知られています。といっても贅沢の延長ではありません。突然降りかかってきた悲劇。この寺は、猛将・最上義光がその悲しみと向き合った形。そしてその思いが受け継がれている場所です。
■ 駒姫の悲劇 ■ こまひめ
駒姫の美貌を、時の権力者・豊臣秀次が知ってしまった時から、既に悲劇は始まっていました。側室に差し出すよう迫られた最上義光。溺愛してきただけに断わるものの、豊臣家からの度重なる要求に応じない訳にいかなくなり、十五歳で嫁がせることを約束しました。
豊臣秀次が駒姫を知るきっかけは、九戸政実討伐の帰路だったとも言われています(諸説あり)。総大将として大軍を率いた秀次が、九戸城を落とした帰りに山形城へ立ち寄り、城主・最上義光の娘に惚れこんでしまった。まぁこの経緯が事実かどうかは分かりませんが、時が来た文禄4年(1595年)、駒姫は山形を離れて京へ向かいました。
ところが、長旅の末に辿りつくとすぐ、秀次は秀吉の命により切腹(謀反の疑い)。駒姫は正式に側室となるどころか、まだ本人と合ってもいません。その後まもなく秀次の妻子らが処刑されますが、駒姫までもこの中に含まれ、三条河原にて命を落としました。
戦国時代における姫様の悲劇はたくさん語り継がれていますが、これは最悪の部類ではないでしょうか。あまりにも酷い話ですね。強引に側室にさせられた上に、出羽からの旅を終えたばかり。まだ十五歳。そもそも、命を絶たれる原因は豊臣家の内輪もめです。
私は豊臣秀吉も好きですが、それも1590年の小田原征伐くらいまででしょうか。ちょっと晩年の奇行は聞くに堪えません。秀次の切腹理由には大変多くの説がありますが、実子(のちの豊臣秀頼)の誕生と本人の老いによる被害妄想。これが原因だと思っています。その余波として、何の罪も無い十五歳の駒姫にも災難が降りかかりました。
<専称寺の山門>
<説明>
■ 後を追った生母 ■大崎夫人
娘の死を知った母は、処刑の14日後に亡くなりました。自害と考えられています。駒姫の母は名門大崎家から最上家に嫁ぎました。11代当主・大崎義直の娘です。武家の家に生まれた女性同士の繊細なやり取りは想像もできませんが、きっと心構えから作法に至るまで、できる限りの準備をさせて娘を嫁がせたのでしょう。
娘と正室を失った最上義光。
もともと感情の激しい義光の怒りと悲しみは、とても測り知れません。翌年、義光は高擶村(現・天童市)にあった寺を山形城下に移し、駒姫と大崎夫人の菩提寺としました。
<母子の菩提寺>
専称寺は真宗大谷派の寺院です。駒姫の墓は境内の奥。手を合わせ、撮影は遠慮しました。
ただ、駒姫の遺体はここに埋葬されたわけではありません。刑場に掘られた大きな穴に、他の妻子たちとともに投げ込まれました。最上義光の元には、娘の遺髪だけが届けられました。墓にはその遺髪が収められていると伝わります。
遺体がどこに埋められようとも、駒姫は母親とともにここにいる。そう思います。たくさんの人たちがこの寺を訪れ、駒姫のことを思うのですから、そうに決まっています。
<境内の水路>
静かな境内に水の音が響いていました。
山形市内を網の目のように流れている水路。寺町も例外ではありません。駒姫の悲劇を知っているだけに、澄んだ水音が、しんみりと心に沁み込むような場所でした。
綺麗に終わりたいところですが、実はやや大きい水音が絶え間なく鼓膜を震わせるため、なんとなく急かされているような気分にもなりました。独特の雰囲気、受け止め方に戸惑いました。
シーンと静まり返るより、まだ若い駒姫にはこの方が良いのかもしれない。
そう思うことにして、寺をあとにしました。
■訪問:専称寺
[山形県山形市緑町]
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2017年10月18日
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