古くから最上氏宗家の城だった山形城。徳川幕府の命令で最上家が去っても、山形城の歴史はまだまだ続きます。江戸時代を通して栄えた城下町。城跡訪問のついでに街中を探索しました。
<七日町御殿堰>
[山形市七日町]
ここはかつての雰囲気を再現した復刻版水路。駅から徒歩15分くらいでしょうか。城跡好きですが、水路好きでもあるので興味深いです。
雰囲気もいいですね。水路沿いの柳やお店もなんとなく昔ふう。看板につられてソフトクリーム(抹茶とほうじ茶のミックス)を衝動的に購入してしまいました。美味い!ただオジサン一人の立ち喰い、あまりサマになりません。なんとなく早めに食べ終えました。岩淵茶舗さん。地元では有名な老舗ですね。ごちそうさまでした。
さて「孤独のグルメ」はいいとして、この復刻版水路。結構おカネをかけてますね。そうまでする理由。これはもう、この街にとって水路が特別なものだということでしょう。
扇状地に位置する山形市。市内にはまるで網の目のように水路が張り巡らされています。「水路の街」とまで言ったら大げさでしょうか。これは昨日今日のものではありません。水路への長年の取り組みは、城下町として栄えた山形市の歴史の一部です。
■山形五堰■ やまがたごせき
山形五堰は五つの堰(用水路)の総称。具体的には笹堰(ささぜき)・御殿堰(ごてんぜき)・八ヶ郷堰(はっかごうぜき)・宮町堰(みやまちぜき)・双月堰(そうつきぜき)の五つの用水路になります。市内にはこの五つの水路から分水した水路が放射状に広がっています。
ことの始まりは約四百年前。出羽山形藩主・鳥居忠政の治水事業の一環として水路が作られました。鳥居忠政は徳川家康の古くからの家臣。改易された最上家に代わって山形を任されました。忠政は最上義光により拡張された山形城を更に改修し、街の整備も推し進めました。
忠政が着手した治水事業とは、城の東側を流れる馬見ヶ崎川の流路変更。最上川水系須川支流のこの川は、たびたび洪水をおこす悩みの種でした。忠政はこの洪水対策を施すと同時に、川の5ヶ所に取水口を設けて、城内の水の確保、そして城下町全体へ生活用水を行き届かせるための水路を造りました。これが山形五堰の始まりです。
<せせらぎ小路>
山形大学付近で撮影。ここは水路と散歩道がセットになっていますね。水路が市民に親しまれている感じがします。いいですね。これは「笹堰」の支流になります。
<御殿堰>
[緑町三丁目]
最上義光ゆかりの専称寺。境内にも水路が通っています。これは御殿堰。開発が進み、この下流ではところどころ水路が地下に隠れています。いわゆる暗渠(あんきょ)ですね。ちょっとマニアックですが、城下町の暗渠路地もそれはそれで興味深い。
■最上の城下町■
領内の復興にも力を入れていた最上義光。領民からも慕われていたようです。これに対し、後任の鳥居忠政の評判はあまり良いものではなかったようです。厳しい検地、増税、公共事業への無償参加。領民は嘆いたと伝わります。
「最上の殿様の方が良かった」
そんな声が聞こえてきそうですね。
ただどうでしょう。これは仕方がないことのようにも思えます。地元を良く知る地元出身の統治者と、命令で着任した幕府に近い存在つまり「よそ者」では、やり方も違うでしょうし、そもそも親近感が違います。また最上義光が山形城を拠点に57万石を支配できたのに対し、鳥居忠政は22万石(旧最上氏領は分割されました)。財力にも差があります。当時不評だったのは事実のようですが、鳥居忠政の統治が、他の藩主と比較して悪政だったとも言いえないのではないでしょうか。
最上義光の城下町を引き継ぎ、鳥居忠政は藩の更なる発展のために仕事をこなしました。山形五堰もそのなごりということですね。
戦国武将好きなので、今後も「山形城といえば最上義光」です。しかしゆっくりと山形の街を徘徊させてもらい、鳥居忠政も意識するようになりました。
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2017年10月19日
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