(長谷堂古戦場の追記です)
<上杉景勝と重臣・直江兼続>
[撮影:米沢城] 上杉神社
会津120万石から出羽米沢30万石へ減移封となった上杉家。ようするに、時の最大勢力に立ち向かった結果です。ただ、石田三成のように、徳川家康と直接戦った訳ではありませんよね(結果的に)。
前回の投稿で、上杉軍が最上軍と戦った「北の関ヶ原」について触れさせて頂きました。
記事→『長谷堂古戦場』
そこに至る経緯は少な目になっていますので、その補足として、おおざっぱではありますがまとめさせて頂きました。宜しければお付き合い下さい。
■秀吉亡き後の勢力■
[五大老]
@徳川家康:関東支配・五大老筆頭
A前田利家:北陸支配・秀吉の盟友
B上杉景勝:東北南部・謙信後継者 (越後から会津へ)
C毛利輝元:中国西部・毛利元就の孫
D宇喜多秀家:中国東部
(↑秀家は小早川隆景死去後)
秀吉の死後、家康は四大老五奉行と対立。1599年3月3日には有力者だったA前田利家がこの世を去ります。家康は加賀前田家にも攻勢を掛けますが、結果としては両家が和解。
Q.そうすると、次の実力者は?
A.B上杉景勝
ということですね(答え早すぎ)
■国替え間もない上杉家■城の整備開始
越後から会津へ国替えになった上杉家。人員をつぎ込み、新たな城造りに着手しました(神指城:こうざしじょう)。120万石の拠点てしては、既存の城では手狭だった。それはそうかもしれませんが、もしかしたら、秘めたる野心もあったかも知れませんね。これらの動きを、上杉のあとに越後領主となっていた堀秀治が徳川家康に報告。「謀反の疑いがあり」ということですね。上杉家と堀家の関係は、越後の引継ぎに関してトラブルもあったようなので、あまり良いものではなかったようです(上杉側は憎まれていたと思った方がわかりやすいです)。更に、同じく近隣の大名で、後に刃を交えることになる最上義光からも同様の報告がなされていました。
これらを理由に、徳川家康は上杉景勝に使者を出し、上洛を促します。まぁ自分がいる京都へ「顔を出せや」ということですね。この要求に対し、返事の書状の筆をとったのは重臣・直江兼続でした。内容としては国内事情の説明と、謀反の疑いがあると言う者にその真偽を確かめるべきというもの。これがのちに有名になる「直江状」ですね。堂々と申し開きをした上で「来るなら来い。相手になる」と喧嘩を売ったような受け止め方もされていますが、直江状のオリジナルは現存していないため、真意はわかりません。ただ「お断り」したことと、家康が怒ったことは事実のようです。
[米沢市:伝国の杜にて]天地人イベント
■上杉征伐■
上洛要求を拒んだこと、新たな城を築いて謀反を企てていること。これを理由に、徳川家康は伏見から会津に向けて出兵。ただ下野国の小山まで来たところで石田三成挙兵の報せが入り、評定の末(小山評定)、5万の兵を率いて西に方向転換しました。ただし、上杉軍が南下して後方から攻めてくることを警戒し、次男の結城秀康を抑えとして留まらせています。
(ちょっと話がそれますが)
弟・秀忠と比較すると、秀康は損な役回りが多いですね。徳川軍本隊は家康が率いる。中山道を進む別働隊は秀忠が率いる。秀康は宇都宮で押さえにあたる。主力から外された上に、本当に上杉軍が攻めてきたら命掛け。私「花の慶次」のファンなのですが、秀康の生い立ちという前ふりも含め、このあたりは泣かせるシーンでした。武将としての器量に恵まれながら、待遇には恵まれなかった秀康。この時は家康に抗議したようですが、受け入れてはもらえませんでした。
(話を戻します)
■追撃せず■千載一遇
徳川の大軍と戦う覚悟だった上杉軍。白河の南にある革籠原(かわごはら)を決戦の場と決め、万全の準備で待機していました(行ったことがありませんが土塁などの遺構が残されています。いつか訪問したいですね)。
しかし徳川の大軍は背を向けて去っていきます。これでひと安心?いやいや、実はこれは千載一遇のチャンスでした。戦いにおいて、追い討ちほど有利な戦いはないのです。直江兼続は徳川軍を背後から襲うよう上杉景勝に進言。一気に徳川を倒す。あるいは、大打撃を与えれば西の石田三成と連携して、徳川を追い詰めることが可能と考えたのでしょう。またこの時点で、常陸の佐竹と上杉は密約を結んでいたという話もあります。他にも声をあげないだけで、徳川に不満を持っている者たちは沢山います。「流れを変える!」直江兼続、そう見込んだのだと思います。しかし景勝は首を縦に振りませんでした。
追い討ちは謙信公の教えに背く
追撃の話はなくなりました。景勝が兼続の助言を退けることは希です。上杉軍は最大の敵を攻めることなく兵を退きました。
もう無いかもしれないチャンス。それ以前、その後も含めて、秀吉亡きあとで家康を討てる可能性があったのは、この瞬間の上杉家だったと思います。兼続、どんな思いでしたかね。2009年のNHK大河ドラマ「天地人」では、基本的に主君に従順な直江兼続が、唯一激高したシーンでした(ここが見せ場だったと思います)。しかし景勝の言葉は重く、上杉軍は引き返すことになりました。
■上杉の義■大義
人心も荒廃する戦国時代。越後の龍・上杉謙信は、助けを求める者に見返りも求めず軍勢を差し向けた武将でした。秩序を重んじて将軍家を敬い、官位官職を得たうえで大義の名のもとに行動し、家臣たちを統率しました。
そんな謙信に率いられ、家風として熟成されていった大義こそが「上杉の義」なのかもしれませんね。箇条書きにできるような細かな決め事ではなく、言葉で言い現わせない空気のようなもの。大きな枠組みとしては
『利より大義を軸に動く』
ということかと思われます。
上杉の義を「正義」と言い切る人もいます。それも受け止め方として良いと思いますが、私個人はあくまで「大義」と思う方がしっくりきます。思考のパターンとして、細かい事情より、大枠で大切な方を選択する。といった感じですかね、、、。
謙信が実際の行動で示してきたことが、上杉家の家風の根底にある。だからこそ、謙信亡きあとも、上杉の家風はそう簡単には変わらない。上杉景勝が家康を追撃しなかった理由については諸説あり、謎のままです。私個人は『景勝という男が謙信から受け取ったものは、実利より重いものだった』と思っています。私のような凡人では受け取れないものを、きっと大切にしていたのだと。
そもそも景勝という人は、ちょっと変わった人物だったようですね。人前であまり表情は変えず、生涯に一度しか笑わなかったとさえ言われています(飼っていた猿の仕草を見て笑っただけ)。筋を通し、かなりガンコ。なぜか女嫌い。実務的なことは頭の回転の速い兼続がこなし、景勝はドンと構えているタイプ(逆にチョコチョコとは動けないのかもしれませんね?)。そういう人ですから、目先にのことに戦々恐々としてしまう一般人と感覚がかけ離れていても、あまり違和感がありません。
■慶長出羽合戦■〜長谷堂城の戦い〜
家康を追撃しなかった上杉軍。会津へ戻ると、直江兼続が兵を率いて最上義光の領内へ侵攻します。これについては前の投稿通りです。
<長谷堂城跡と稲田>
この戦いの背景として、まぁ諸説あるのですが、もともと豊臣秀吉が上杉家を越後から会津へ国替えとした大義は「東北の押さえ役」を任せるため。豊臣家にとっての「北の守護神」となるためです。領土を欲した戦いではなく、服従させて味方にし、豊臣時代の決め事を次々と反故にする徳川に対抗することが目的だったと思います。
ただ、まさか「関ヶ原の戦い」が一日で終わるとは考えてもみなかったでしょうね。徳川軍が西に行っている間に山形を攻略しておく。この目論見が外れた上に、西軍が敗れるという結末。お先真っ暗ですね。景勝の気持ちは想像できませんが、兼続ほかの家臣団はさぞ途方に暮れたことでしょう。
<展望台から見た山形市>
山形城三の丸跡に建つ高層ビル(霞城セントラル)からの眺め。逆光でちょっと分りにくいですが、左手の下の方に見える小さな山が長谷堂城(背景の大きな山ではなく手前)。その周辺が古戦場です。約8qの距離。肉眼ではもうちょっと良く見えました。
上杉軍は長谷堂から兵を退きます。最上軍から激しい追撃を受けながらも、何とか撤退は終了。もっと巨大な敵とどう向き合うか、生き残りを掛けた選択を迫られます。
■和議の道■
関ヶ原の戦いで西軍敗北。といっても、上杉家そのものが戦に敗れた訳ではありません。その後も徳川家との緊張状態は続きました。まだ戦うつもりの者も多かったことでしょう。ただ内部で協議を繰り返した結果、和議の道を模索することになります。勿論、和議の条件があまりに理不尽なものであれば、改めて戦う準備をしたかもしれません。
翌年(1601年7月)、上杉景勝と直江兼続は会津を発ち京都へ向かいました。事前にさまざまな交渉を繰り返し(主に家康側近の本田正信と交渉)、この時を迎えました。兼続は、戦に関する責任は全て重臣である自分にあること、主君・景勝は徳川軍への追撃を自分に許さなかったなどを説明。一身に罪を受ける旨を申し出ました。その姿は、強きにへつらう者とはほど遠い、正々堂々たる武士の姿だったと伝わります。
■つわものどもが夢の跡■
<米沢城にて>
上杉景勝は出羽米沢30万石へ減移封となるものの、家の存続は許されました。上杉の歴史は続きます。いや、もしかしたらここからが本番かも知れませんね。
お城巡りランキング
2017年10月28日
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