2020年07月23日

コロナに負けるな!(2020年7月) 岩槻駅にて

岩槻駅でこんな行灯を目にしました

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医療従事者に感謝
コロナに負けるな!

新型コロナウイルスと戦う人たちへのエールです。医療従事者は勿論、介護従事者の皆さんなど『途切れたら人の命に係わる仕事』で奮闘する人たちには、感謝と敬意をはらいたいですね。

そして

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がんばれ!岩槻

こんな方も参加されていました。この方は岩槻太田家を代表する勇猛果敢な武将。岩槻城主の太田資正です。関東を席巻する小田原北条氏に歯向かった反骨の男です。城を追い出されても抵抗し続けました。

ギブアップしない

私にとってはそんなイメージの戦国武将です。


2020年は新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、春頃から外出自粛や県をまたぐ移動の自粛の呼びかけがなされてきました。その期間に限れば一定の成果はあったのではないでしょうか。

しかし緊急事態宣言が解除され、感染者数は再び増加傾向にあります。本日新たに確認された感染者は東京だけで366人、全国では900人超とのこと。更に、消費喚起を目的に、人の動きを促進するような計画までも実行されようとしています。こんなところで政治に関わる発言はしませんが、私個人は従来通り『むかし訪問した城跡』か、あるいは『地元埼玉』を中心とした活動でブログを更新していこうと思います。

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まだお地蔵さんもこんな状態ですからね。撮影したのは岩槻区の知楽院さんです。

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岩槻太田氏ゆかりの寺院です。同じ埼玉県でありながらまだまだ知らないことばかり。

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知楽院は高台にあるのだなぁ

遠出できないのは不便ではありますが、地元をゆっくりと味わう機会を得たのだと思い、普通なら素通りしてしまいそうなことに足を止めて楽しみたいと思います。当面は行動範囲の狭い拙ブログですが、今後とも宜しくお願い致します。

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谷の方は何かあんのかな

2020年7月23日


お城巡りランキング

2020年07月17日

醫王寺の梵鐘(旧浦和市)戦時の回収をまぬがれた西堀村の鐘 

今回は旧浦和市において、戦時供出をまぬがれた梵鐘の話です。
<醫王寺の鐘>いおうじ
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こちらです。戦争中は金属資源の不足を補うため、国主導で寺の鐘や大仏像などが回収になったといいますが、旧浦和市内でそれをまぬがれたまぬがれた唯一の梵鐘とのこと。私のような素人には分かりにくいですが、技法も凝ったもののようです。

<醫王寺の入口>
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この日は市内を流れる鴻沼川の支流に合流する暗渠を探索。まぁ道ですが、地下には水が流れています。歩道が途切れるところで、寺院があることに気づきました。

<山門>
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真言宗智山派の寺院です

<本堂>
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<大日堂>
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塚の上の大日堂は普段は非公開。大日如来坐像が安置されています。

さて
今回の注目はこちらです
<鐘楼>
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普通の鐘楼に映りましたが、説明文を読んで感じるものがありました。

<説明板>
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以下に転記します。

『江戸時代中期、宝暦十四年(一七六四)に造られたものです。その銘文から、かつて西堀にあった宝性寺の慈観が願主となり、西堀村中が施主となって江戸神田の鋳物師長谷川国重に鋳造させたものであることがわかります。
江戸時代中期ころ、梵鐘が盛んに造られましたが、この銅鐘は撞座が四カ所あること、百個ある乳の上に梵字を陽刻していることなどの特色があり、見るべきところの多い貴重なものです。また、市内にある梵鐘としては、戦時供出をまぬがれた唯一の例です。
宗教法人医王寺・浦和市教育委員会掲示』

[出典:現地説明板]

なるほど
まず、江戸中期に造られたというだけで貴重だと思いました。どのような鐘の音なのでしょうか。江戸時代の西堀村には既にあったのでしょうから、この地で暮らす人たちが、代々この鐘の音を耳にしてきたわけですね。鳴ってなお残る余韻を感じながら、それぞれの時代のそれぞれの人たちは、何を思ったのでしょうね。

また、神田の鋳物師に鋳造させた見どころの多い梵鐘とのこと。それがひっそりとここにある。

もっと有名でも良いのになぁ

などと勝手に感動してしまいました。


ただ、私が知らなかっただけで、知る人が知る鐘のようです。あとから調べたところ、ここ醫王寺の大日堂の木造大日如来坐像は、国認定の重要美術品であり埼玉県指定有形文化財に指定されているようです。そして私が見た銅鐘も、市の指定有形文化財とのこと。あまり良くわからないまま、すごいお寺を訪ねていたのですね。お恥ずかしい。でも知らないということは、時と場合によっては感動に繋がります。

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俗人がお邪魔しました。
ありがとうございます。

■訪問:上宮山醫王寺
 ( 西堀医王寺 )
[さいたま市桜区西堀2丁目]

2020年04月29日

遅い終雪 2020年の春と1860年の春 (桜田門外の変) 

その冬最後の降雪を終雪といいます。東京近郊だと平均して3月上旬だそうです。

春に降る雪と言えば、風花のように舞う雪をイメージしますが、2020年は既に桜が咲いている3月29日にまとまった雪が降りました。下記は浦和市民のオアシスともいうべき公園で撮影しました。
<別所沼公園>
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沼のまわりはまだ良いとして

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こんな感じとなりました

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桜も項垂れるほどの雪

もうすぐ4月という日
こんなことあるのですね

春の雪を目の当たりにして、ふと頭をよぎったのが桜田門外の変。彦根藩の行列が襲撃され、大老の井伊直弼が暗殺された事件ですね。映画やドラマでは、津々と雪が降るなかで起こった事件として描かれます。警護する藩士たちは雨合羽を羽織った上に、刀には袋をかけていました。このことが、対応が遅れた原因のひとつとも言われています。

ただ、桜田門外の変が1860年の3月24日の出来事と知って以来、そんなに雪が降るものかな?とやや懐疑的になっていました。つまり、ちょっと降った雪が大げさに伝わっているのではないかと。

今年の雪で、それはあり得るのだなと実感しました。更に、ちゃんと調べると、東京で最も遅い終雪は1967年・1969年・2010年の4月17日とのこと(1876年11月以降)。3月の南岸低気圧が、関東に大雪を降らせることはそんなに珍しくはないそうです。

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そして1ヶ月後には

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[撮影:202年4月29日]
同じ場所でえらい違いです

ということで
春まぢかのまとまった雪はありえるという個人的な納得でした。

桜田門外の変は安政7年3月3日、ひな祭りの日です。そして西暦だと1860年3月24日。警護の藩士たちの対応に影響するようなまとまった雪は、本当だったのでしょう。

<彦根藩上屋敷跡>
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画像は千代田区永田町の彦根藩上屋敷跡です。大老の井伊直弼は、事件当日もここから桜田門へ向かいました。

<屋敷跡から見た桜田門>
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桜田門まで数百メール?でしょうか。藩主の登城に際し、約60人の藩士が同行したようです。堀に沿って進み、桜田門まであと僅かというところで襲撃されました。

<桜田門>
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正式名は外桜田門。この景色が雪化粧した姿がほぼ当日の景色ということですね。

以上です

<別所沼弁財天>
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季節外れの雪に、思いつくまま記した拙ブログです。お付き合い頂き、ありがとうございました。


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2019年12月31日

今鳴るは芝か上野か浅草か 増上寺鐘楼堂 

今回は増上寺鐘楼堂のご紹介です。

<梵鐘>ぼんしょう
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こちらは徳川将軍家菩提寺の鐘。増上寺の大梵鐘です。

<関東最大級>
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関東では最大級の大きさです。この鐘は延宝元年(1673年)に完成したもので、江戸の鋳物師・椎名伊予吉寛(しいないよのかみよしひろ)が品川御殿山で鋳造しました。同じく徳川将軍家菩提寺の寛永寺の鐘も、椎名伊予吉寛によるものです。

<鐘楼堂>しょうろうどう
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釣り鐘も見事ですが、そもそもこの鐘楼堂が立派です。土台に使用されている石もかなり大きなものです。

<説明板>
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説明によれば鐘楼堂は『寛永十年(1633年)な建立されましたが焼失、戦後に再建され』たようです。梵鐘の説明は先述の通りです。『徳川四代将軍家綱公の意向で奥方の「かんざし」まで寄贈され、七回の鋳造を経て完成』とあります。大きさは約3メートル、重さは15トンだそうです。この鐘の音は『時を告げるだけでなく、煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと誘います』とあります。

深い安らぎへと

仕事に追われてただ慌ただしく暮らしているので、なにやらとても有難く感じました。

ところで
説明板の後半に江戸時代の川柳も紹介されています

今鳴るは芝か上野か浅草か

いいですね。芝は増上寺、上野は寛永寺、浅草は浅草寺です。ただよくよく考えてみると、芝と上野と浅草の鐘の音が、全て聞こえる場所があったということですね。現在と違って高層ビルもなく、街の騒音もない江戸なら、あり得るのかもしれません。


令和元年も本日が最終日となりました。私は大晦日の夜にお寺さんで年越しの鐘を聞くといった習慣がないので、行った気分で増上寺の大梵鐘をご紹介させて頂きました。間もなく、私の住む街でも複数の鐘の音が聞こえてくるでしょう。鳴ってなお残る余韻を遠くに感じながら、新な年を迎えたいと思います。

拙ブログ、来年も続けていくつもりですので、宜しくお願い致します。

令和元年12月31日


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源流院跡 日本近代初等教育発祥の地

今回は増上寺付近を散策中に見つけた石碑の話です。

<石碑>
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地下鉄御成門駅の近くに設けられた石碑です。あまりにもひっそりとしていて、足を止める人もいません。私も素通りしかけましたが、目に飛び込んできたのは『日本近代初等教育発祥の地』の文字。

<発祥の地>
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教育発祥の地?そういわれると、そうとう重みがあるような気がして、説明板を読むことになりました。ちょっと時間もありましたので。

<説明板>
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以下抜粋です。後半一部省略
『わが国の近代初等教育は、明治5年(1872)の学制発布に先立ち、同3年に東京府が府内の寺院を仮校舎として、6つの小学校を設立したことに始まり、その第一校は、6月12日に開港した。第一校のおかれた源流院は、江戸時代初期からの増上寺子院で、当時、境内北辺の御成門東側のこの地にあった。大訓導(校長)村上珍体、教師、助教と生徒中の秀才が生徒を教えた。授業は主として句読(音読)・習字・算術で、生徒は8歳から15歳までとし、机・硯箱・弁当は各自持参した。』
[出典:東京都港区教育委員会]

学制とは、日本最初の近代学校制度に関する基本法令。この説明だと、東京府では学制が発令される前に6つ小学校が設置され、最初の一つが芝増上寺に属する源流院に設けられたというわけですね。なるほど。

ここに石碑が設けられているということは、ここが源流院のあった場所ということになりますが、周囲にそれらしい雰囲気は漂いません。あった?か。過去形です。源流院そのものはどこへいってしまったのでしょう。

気になって早速ネット検索しました。その結果、この地にあった源流院は戦火で焼失してしまったそうです。ただ、ちょっと離れた場所になりますが、徒歩圏内に源流院の名を見つけました。

行ってみますかね

<増上寺>
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御成門駅付近から増上寺三解脱門付近まで移動。ここからちょっと大門方面へ

<源流院ビル>
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[港区芝公園]1-8-13
見つけました。こちらが現在の源流院です。実は寺院と気付かず一度通り過ぎてしまいました。大門駅のすぐそば。立派なビルとなっています。

<門柱>
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源流院と刻まれたこの門柱が無ければ、わからなかったと思います。推定ですが、このビルの1階部分が寺院なのかもしれませんね。

<三つ葉葵>
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徳川将軍家とのゆかりの深い増上寺の子院ですからね

では
再び御成門駅近くの石碑

<背後から撮影>
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向こう側に見えているのは晩秋の芝公園。かつて増上寺の境内だった場所です。現在の増上寺からみて北側、つまり江戸城側です。当時の雰囲気は想像できませんが、最初の小学校はそんな場所に設置されたわけですね。

明治になると、全国には多くの小学校が設立されました。といっても、政府の方針だけでそう簡単にできることではありません。それに相応しい土壌が、既に我が国にはありました。寺子屋の存在です。江戸時代の末期には、既に全国に及んでいたようです。教育を受けるという意識がないと、いくら政府が号令をかけてもなかなか浸透しませんよね。
また、授業ができる具体的な場所が必要になりますが、いきなり全国に校舎を建設するわけにもいきませんよね。ではどうしたのか?寺院や民家がこれに充てられるケースが多かったそうです。

源流院はそんな大きな流れの先駆けとなった寺ということですね。発祥とは事が起こり始まること。石碑に刻まれた『日本近代初等教育発祥の地』の意味、ちょっとは理解できました。

場所は御成門駅の近く
<御成門駅出口>
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この出口のすぐそばです

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地味な石碑ですが、当ブログがきっかけで足を止めてくれる方がいたら嬉しいです。

■訪問:
日本近代初等教育発祥の地

[東京都港区芝公園]1-1


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2019年12月30日

街に出る 街を歩く 街に気づく 

<とある小路>
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この道は暗渠かな?

港区内を探索中に足を止めた瞬間です。

当ブログは城跡巡りをメインテーマとしていますが、街歩きのような内容も時々投稿させてもらっています。最近でこそ立派な城も訪問していますが、当初は廃城を訪ねてその痕跡を探すことを趣味としていました。そういう意味では、都市に埋もれて見向きもされないものに気付く街歩きは、ちょっと楽しみ方が似ています。

今年(2019年)の訪問記のなかのいくつかを下記にご紹介させて頂きます。都内及び簡単に行ける範囲を月別に選びました。そういったネタがない月は、ちょっと郊外になりますがご了承ください。

■記事一覧■
2019年12月
コンクリの街の秘境
赤羽の細道
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→『記事へすすむ

2019年11月
浦和暗渠散歩
天王川を下る

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→『記事へすすむ

2019年10月
大宮宿の涙橋
さいたま市大宮区

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→『記事へすすむ

2019年9月
路傍の巨大石
笠間の大黒石

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→『記事へすすむ

2019年8月
東京国際フォーラム
太田道灌像
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→『記事へすすむ

2019年7月
久地円筒分水と溝口暗渠散歩
川崎市
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→『記事へすすむ

2019年6月
刑場近くの橋のなごり
泪橋と思川
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→『記事へすすむ

2019年5月
新河岸川 舟運のなごり
川越市
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→『記事へすすむ

2019年4月
玉川上水のなごり
余水吐跡の暗渠
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→『記事へすすむ

2019年3月
ひっそりと佇む将軍ゆかりの門
御成門
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→『記事へすすむ

2019年2月
市ヶ谷駅
江戸歴史散歩コーナー

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→『記事へすすむ

2019年1月
赤羽の暗渠(稲付川)
姥ケ橋の跡
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→『記事へすすむ

■番外編■
城跡巡りとも街探索ともいえない内容です
暗渠と城跡
北沢川と三宿城

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→『記事へすすむ

以上です。
結局のところ、私が勝手に楽しんでいるだけの記録ですが、家でゴロゴロしている方がちょっと出てみようかなどと思ってくれたら嬉しいです。ほんの少し前まで、私が家でゴロゴロの人だったので。


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タグ:暗渠

2019年12月08日

コンクリの街の秘境 赤羽の細道

高度に都市化された街にも秘境がある。今回は街探索のお仲間と歩いた北区赤羽のお話です。
<街の秘境>
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よそ者は通らない谷です。そこへ入り込んでいる人の暮らし。絶景と感じるのは私だけでしょうか。


■赤羽台の細道■
訪問したのは北区の赤羽台。表通りから奥へ入れば、街の喧騒から切り離された独特の世界が広がります。以下はその時撮影した画像です。
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人ひとりが通るのが精一杯の細道

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急勾配ですが、人が暮していれば道はできます。赤羽台の奥の細道

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暮らしと細道

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段差のある細道

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狭所の細道

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コンクリの壁と細道

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コンクリの壁に納まらない木と細道

人の暮らしを支える構造物と、それらと関係なく命を謳歌する苔や草木。造成しきれなかった元々の地形を舞台に、両者がせめぎあったり、何となく調和していたりと、何とも不思議な空間ではないですか!

コンクリの街の秘境
私にはそんな風に映りました。


■その他の秘境■
最も心に残った赤羽台を最初にご紹介しましたが、この日の街探索は赤羽西から桐ヶ丘を経由して赤羽台へ北上するルート。その途上で撮影した画像も以下に貼っておきます。

<稲付川>
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[北区赤羽西]2丁目付近
こちらは当ブログで何度かご紹介済の稲付川。道?はい。地下に埋設され、いわゆる暗渠になっています。

<支流>
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誰も通らないこの細道もちょっとした秘境。こういったところの水を集めながら、稲付川は赤羽から東へ向かって流れ、隅田川へ合流します。


<稲付城跡>
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[北区赤羽西]1-22
こちらは太田道灌が築城したと伝わる稲付城跡です。
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現在は静勝寺。道灌ゆかりの地であることは確かですが、位置的にもともとは宿敵・豊島氏の拠点だったのではないかと個人的には思っています。あくまで個人的に。
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分類すると山城です。23区内に残る貴重な城のなごり。

続きまして

<田んぼと民家>
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[北区赤羽西]5-2
これはどこの田舎か?

ここも赤羽。北区の秘境です。大昔ならどこにでもありそうな光景ですが、いまとなっては景勝地。それにしても、丘にも谷にも住宅がひしめく北区で、一体どうやってこんな敷地が確保できたのでしょうか?

実はここ、もともとは自衛隊の駐屯地だったそうです。跡地が『赤羽自然観察公園』として整備されています。

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この公園は1999年の開園とのこと。もともとこのエリアに生息していた植物を植栽し、過度に人の手は加えないでこの環境を維持しているようです。

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遠くへ行かなくても、綺麗な景色はあるものです

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田んぼあり、湧水や小川ありの素敵な場所でした。


最後に謎の細道

<北区立赤羽緑道公園>
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また暗渠か?
ではなく、むかしの線路の跡です。赤羽にはかつて軍事基地がありました。似たような幅で続くこの道は、軍事物資専用線路のなごりです。

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線路の模様が描かれています。

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こちらは鉄橋を模したモニュメント。この位置に橋があったかは不明です。

いまでは住みたい街ランキングで上位に名を連ねる赤羽ですが、よく探せば、かつて軍都と呼ばれたなごりを感じることもできます。


ということで
脈略ないですが赤羽の細道、秘境あるいは街に溶け込んでいるむかしのなごりのご紹介でした。最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

<橋のなごり>
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それに気付けば見る目も変わります



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2019年11月23日

元府趾 浦和の本太氷川神社にて

今回は地元浦和を散策中に出会った神社の話です。

<鳥居>
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浦和区本太(もとぶと)の氷川神社です。規模は大きくないものの、住宅地にありながら緑に囲まれた素敵な神社です。

<水舎>
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<社殿>
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歴史はかなり古く、創建年は定かではなものの、約1500年は鎮座していると伝わります。柵があって近づけませんでしたが、氷川神社の境内には1650年頃に建てられたと伝わる旧本殿も保存されています。

氷川神社は東京・埼玉の荒川沿いを中心に約280社あります。総本社は大宮に鎮座する武蔵一宮氷川神社。主祭神は建速須佐之男命(すさのおのみこと)です。

さて
たくさんある氷川神社のなかで、今回こちらの氷川神社をご紹介する理由は、下の御由緒に興味を持ったからです。

<御由緒>
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詳しく説明されています

ここに地名に関わる記載があり、これがこの日の最大の関心事となりました。『地名の由来は、当社の鳥居扁額に「元府址(もとふと)」と書かれていることから、国府の出先機関があった』とのこと。

元府趾?

もとは府があったあと

もとふと

なるほど。もう一度冒頭の鳥居を確認すると、確かに『元府趾』となっています。

<扁額>
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説明を読んでからでなかったら、まぁ良く分からない古い文字くらいに受け止めて素通りするところでした。良く見れば確かに元府趾と記載されています。

府、つまりは律令制の政府の出先機関、もっと簡単に言ってしまえば政務を取り扱う役所のようなものがこの地にあったということですね。教科書レベルかそれ以下の知識しかないのでなんとも言えませんが、奈良時代くらいと思って良いでしょうか?いずれにせよ、そうとう古い話ながら、かつてはここ本太は、統治のための拠点だったようです。

中央集権的な支配を目指す大きな流れのなごり

当時の中央から遠く離れたところで、そんなものに出会ったかと思うと、何となく感慨深いものがありました。役人が駐在していたのか、あるいは実質は地元の豪族に任されていたのか分りませんが、統治される側の地元の皆さんは、どんな立ち位置でこれと向き合っていたのでしょうかね。


<明治鳥居>
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本太氷川神社には昭和・室町・明治の3つの鳥居があります。この順番で鳥居をくぐるのがお勧めのようですが、私は逆になってしまいました。元府址の扁額がある鳥居は室町鳥居です。

<昭和鳥居>
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この付近のだけを見ると平坦な地形です。ただ御由緒には『東西に狭く、南北に長い小さな谷』とありました。ゆるやかな低地といった感じなのでしょうか。そして『「ふと」は低地や耕作・居住に適する地上いう意味』もあることから、これが地名の由来とする説もあるそうです。本当のところはどっちなんでしょうかね。

国府の出先機関があったあと
そう受け止めることにして浦和区本太をあとにしました。

■訪問:本太氷川神社
[埼玉県さいたま市浦和区本太]4
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