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2020年11月06日

五十にしてまた歩き始める魂(富岡八幡宮境内)伊能忠敬像

<伊能忠敬像>いのうただたか
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富岡八幡宮境内で撮影しました。佐原(現在の千葉県香取市)から江戸へ出た伊能忠敬は、ここからすぐ近くの黒江町(現在の門前仲町1丁目)に住んだといわれています。

伊能忠敬といえば、日本で初めて実測による日本地図を完成させた人ですね。日本史の教科書にも出ている有名な方ですが、測量の長旅が50歳を過ぎてからのことというのは、あまり知られていません。

忠敬は17歳で伊能家当主(婿養子)となり、実業家として成功をおさめるとともに、村の名主としても活躍していました。ここまでで充分立派な方ですが、家督を譲って隠居すると、50歳で単身江戸に出て歳下の専門家に弟子入りし、55歳から71歳まで測量を行いました。

佐原で仕事をやりきった上で
また別のことにチャレンジしたということですね

しかも
本格的な勉強を始めるのが50歳を過ぎてから

健康であればこそですが、その体をつき動かす魂に驚かされますね。

■訪問:伊能忠敬像
(富岡八幡宮境内)
[東京都江東区富岡]


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2020年10月31日

足の神様 与野の大国社(与野大権現)

今回は与野を探索中に『足の神様』と出会ったというお話です。
<大国社 >
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この日は畠山重忠ゆかりの地を訪ねるべく、与野公園へ足を運びました。その帰り道、こんな文字が目に飛び込んできました。

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足の神様?与野ごんげん

てくてくと歩いては、こんなブログをやっていますが、最近は足に自信がなく、何となく漠然とご利益を期待して立ち寄ることにしました。

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ここで良いのですね

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ちゃんと説明板があります

冒頭を抜粋させて頂きます。『明細帳に「本社は先に権現と称すと云」と記されているように当社は古くから「権現様」と呼ばれ、文政七年(一八二四)ごろに描かれた「与野町並絵図」(柏計助家所蔵)にも、当社の杜のところに「ごんげん」 の文字が書かれている。このことから考えると、「風土記稿」与野町の項に「蔵王権現社」として載る社が当社のことと思われる。』とのこと。古くから権現様と呼ばれていたのですね。説明の続きによれば、明治になって大国社と改められたようですが、いまだに権現様として親しまれているとのこと。なんかいいですね、そういうの。

そして後半部分です。『理由は定かではないが、昔から足の具合が悪い時は当社の拝殿の格子戸に草鞋を奉納して祈願すればよいといわれており、交通が便利になり、医療も進歩した今日に至っても、信仰を集めている。』とのこと。それで足の神様と呼ばれるわけですね。

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確かに、拝殿の格子戸にはワラジが掛けられています。

私も石段を登って拝殿の前で手を合わせました。ワラジには個人名が記されていますので撮影は遠慮しましたが、中には切実な願いが込められていると思われるものもありました。降りる時は神妙な面持ちになりました。

説明板にもありましたが、権現様として地元の人たちに親しまれているこの神社が、どういう経緯で足の神となったかは分かりません。ただ、旅の無事や健脚を願う方や、足を患い思い悩んでいる方の思いが、たくさんのワラジとなって奉納されているのです。足の神様はここにいらっしゃるに決まっていますね。

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軽い気持ちで来てしまいましたが、感謝する気持ちで家路につきました。

■訪問:大国社(与野大権現)
[さいたま市中央区与野本町西]

2020年10月04日

別所沼の曼珠沙華と長谷川かな女の歌碑

今回は浦和ゆかりの歌人のなごりです。
<長谷川かな女の歌碑>はせがわ かなじょ
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女流俳句の先駆けである長谷川かな女の歌碑です。

<別所沼公園>
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歌碑が設置されている場所はさいたま市(旧浦和市)の別所沼公園。沼は大宮台地からの湧水が低いところに溜まってできました。周辺を含めて公園として整備され、地元民の憩いの場となっています。歌碑はこの公園南側の入口を入ってすぐの管理事務所のそばです。

<説明板>
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以下が歌碑に彫られた俳句です

曼珠沙華
あつまり丘を 浮かせけり


俳句に疎い私が解説するわけにはいきません。とりあえず言葉の通り、曼珠沙華(彼岸花)がまとまって生えている姿が、まるで丘を浮かせるかの如くだという意味に受け止めました(皆さんはもっと奥深く味わいましょう!)。歌碑がこの地に建てられている理由は、この句が別所沼付近を詠んだものと言われているからです。

長谷川かな女の生まれは東京ですが、諸々の経緯で浦和の岸町で過ごしました。1966年には紫綬褒章受章を授与され、浦和市の名誉市民になっています。

私も長らく浦和に住んでいますが、この歌碑に足を止めたのはつい最近のこと。別所沼公園は何度も来ていますので、ずっと素通りしていたわけですね。まぁずっと知らないままより、気付けて良かったです。

<曼珠沙華>マンジュシャゲ
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別所沼公園の彼岸花です。今年(2020年)は例年より1週間くらい開花が遅かったような気がします。すみません、ちょっとだけ枯れ始めてますかね。これは仕事がなかった10月4日の撮影です。

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こちらは9月29日の夜。仕事帰りに立ち寄って撮影しました。この日がピークだったかもしれません。

整備された公園の一角に過ぎませんが、長谷川かな女の句を参考にするなら、かつての別所沼の周りには、『丘を浮かせる』と形容されるほどの彼岸花が群生していたのでしょう。

さらに
ここからはちょっと想像の世界です。

別所沼は台地と台地の間にできた侵食谷に位置しています。下記は沼からみて西側。台地が沼を取り囲む壁のような状態になっています。

<大戸>おおと
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さいたま市南区別所の別所沼公園の西側は中央区大戸。大戸は大宮大地が南側へ突き出た部分、つまり丘の上にあります。別所沼を訪れた長谷川かな女は、大宮台地の斜面に群生する曼珠沙華を見て、『丘を浮かせる』と詠んだのかもしれませんね。

勝手に想像して楽しむ。
そのヒントとなる有難い歌碑でした。

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■訪問:別所沼公園
[さいたま市南区別所]4丁目

歌人に関する知識は皆無です。今回もWikiさんのお世話になりました
[参考:Wikipedia2020/10/4]

浦和別所沼のヒアシンスハウス 建築家・立原道造の夢の跡

今年(2020年)はコロナの影響もあり、城跡巡りどころか、そもそも遠出をしていません。家に引きこもるのもなんなんで、土日は地元さいたま市をプラプラと。今回は良く行く公園に設置されている小さな家をご紹介します。

<ヒヤシンスハウス>
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詩人で建築家の立原道造ゆかりの建造物

■立原道造■たちはらみちぞう
以下Wikiさんから抜粋させて頂きます。
立原道造は『1914年(大正3年)7月30日 - 1939年(昭和14年)3月29日)は、昭和初期に活動し24歳で急逝した詩人。また建築家としても足跡を残している。』とのこと。東京帝国大学工学部建築学科卒業で、1学年下にはあの丹下健三さんも在籍していたとのこと。学生時代に建築に関わる賞も取っていたようです。
[出典元・Wikipedia]

歌人として名を馳せますが、建築家としても将来を嘱望される方だったようですね。その立原道造、自分のためのワンルームの別荘を建てる構想を持っており、場所として想定されていたのが浦和の別所沼だったそうです。

<別所沼公園>
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しかし
結核のため、24歳の若さでこの世を去り、夢は実現しませんでした。構想はスケッチとして残され、それを具体化したのがこのヒアシンスハウスなのです。

<室内>
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小さな部屋にデスクと椅子。奥にはベッド。これに対して窓はかなり大きめです。全開にすると、半分外にいるような気分になります。景色は当時の別所沼です。いまでも緑が豊かですが、当時は別荘地のような景色だったのかもしれませんね。こんな書斎があったらいいですね。

いま以上に『自分の部屋』をもつことは贅沢な夢だったことでしょう。歌人として功績を残した立原道造の『建築家』としての夢のなごりということですね。ここはそれを感じることができる場所。実現に向けて尽力されたみなさんに感謝したいと思います。

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■訪問:別所沼公園
[さいたま市南区別所]4丁目

■参考資料
私は立原道造さんに関する予備知識がなく、今回もまたWikiさんのお世話になりました。
[参考:Wikipedia2020/10/4]

-------画像を追記-------
立原道造さんが別荘を夢見た別所沼の画像を追加しておきます。

<初夏の別所沼>
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<霧の別所沼>
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<晩秋の別所沼>
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<雪の別所沼>
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2020年08月18日

城下町に響いた鐘の音(岩槻)時の鐘 

時の鐘と聞くと川越を思い出す方が多いのではないでしょうか?でも岩槻にも時の鐘があります。「にも」と言っては岩槻の皆さんに怒られそうです、歴史はこちらの方が古いのですから。
<時の鐘>
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名の通り時刻を知らせる鐘です。城下町岩槻の象徴的な存在です。

<入口>
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こちらが入口。説明板が設けられています。

<説明板>
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こちらの説明によれば『寛文11年(1671)、城主阿部正春の命令で鋳造されました。渋江口に設置された鐘の音は、城内や城下の人々に時を知らせていました。』とのこと。私は城下の領民ばかり意識していました。当たり前のことですが、岩槻城内にも鳴り響いていたわけですね。やがて鐘にひびが入り(1720年)、当時の『城主永井直信が改鋳した物が現在の鐘』とのことです。貴重な鐘ですね。さいたま市の有形文化財に指定されています。

この時を告げる鐘ですが、説明文によれば『鐘は1日3回撞かれたとも言われますが、江戸後期には1日12回撞かれていたようです』とのこと。3回が12回ですか…人が時間を気にしてせっかちに暮らさないといけない世の中に変わっていったということでしょうか?(勝手に言ってます)。

また、鐘楼は『嘉永6年(1853)に岩槻藩より改建され』たものとのことです。岩槻藩主が大岡忠恕の時に建て替えられたようです。『』内はさいたま市岩槻区教育委員会さんの原文をそのまま転記させて頂きました)

ところで

<撮影しにくい>
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過去にも何度かここへお邪魔していますが、いつも逆光になってしまい、鐘そのものが上手く撮れません(訪問する時間が悪いようです)。鐘楼で雰囲気は伝わると思いますが、せっかく当ブログを訪問して頂いた方のために、模型の画像を貼っておきます。

<模型>
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[撮影:岩槻本丸公民館]
鐘楼と鐘の大きさのバランスだけ参考にして下さい

かつて「岩槻に過ぎたるものが2つある 児玉南珂と時の鐘」と評されたそうです。 児玉南珂(こだまなんか)は岩槻藩士・儒学者で、藩内の教育に尽力した人物です。そしてもうひとつは今回ご紹介の「時の鐘」。「過ぎたるものが二つ」というのはよく使われる言い回しですが、ここでは純粋に誉め言葉ですね。

<立派な史跡>
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城下町岩槻の歴史を感じる場所です

■訪問:時の鐘
[さいたま市岩槻区本町]6-2


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2020年08月17日

私塾から始まった藩校(岩槻)裏小路の遷喬館

今回は岩槻藩の藩校の話です

<岩槻藩遷喬館>
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■遷喬館■せんきょうかん
<入口>
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ひっそりと佇む建物。実は一回通り過ぎてしまい、戻ってきました。私が訪問した日は休館日だったので、門が開かれていれば、もうちょっと印象が違ったのかもしれません。

<説明板>
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冒頭を抜粋すると『江戸時代後期の寛政11年(1799年)に岩槻藩の学者児玉南柯(こだまなんか)が青少年の教育のために創設した家塾で、後に藩校となりました』とのこと。私塾から始まり、藩公認の学校となったわけですね。説明文によれば、藩校は最盛期にはかなりの広さだったようです。

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こちらの建物は、創始者である児玉南柯が私塾として始めた当時の姿に復元されたものとのこと。

藩校となってからは、岩槻藩の武士の子弟が勉学や武芸に励みました。明治になって藩校は廃止となりますが、建物は民家として使用され、昭和になってから埼玉県の史跡に指定され、解体修理や復原を経て現在に至ります。藩校の建物として現存するのは、埼玉県内ではここだけとのこと。大きな建物ではありませんが、とても貴重な史跡ですね。

ちなみに
遷喬館という名称は、中国の詩に由来します。詩経の「出自幽谷 遷于喬木(幽谷より出でて喬木に遷る[=登る])」という一節から、鳥が明るい所を求めて暗い谷から高い木に飛び移る姿に例えて、この学び舎が学問を欲し友を求めるところであることを意味しているそうです。

ということで
私塾から始まった岩槻藩の藩校のご紹介でした。私はたまたま取れた休暇が月曜日で、遷喬館は閉館中でした。違う日がお勧めです。

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遷喬館は武家屋敷が建ち並んでいた『裏小路』沿いです。この道を北へ進むとかつての岩槻城の大手門。そういう場所です。

■訪問:岩槻藩遷喬館
[さいたま市岩槻区本町]4-8-9


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2020年07月27日

奥東京湾のなごり(岩槻)真福寺貝塚

今回は岩槻区の南部を探索した時に出会った貝塚の話です。

<真福寺貝塚>しんぷくじかいづか
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この説明板によれば、縄文時代後期から晩期の貝塚・集落跡とのこと。直径100mの円形に貝塚が分布しているようです。

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ここは埼玉の岩槻。海がこんな奥地まで侵入していたわけですね。そして海の水が退いた跡には、広大な湿地が広がった。現在確認できる地形から、何となく大昔の情景が想像できます。あくまで想像の域ですが。

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細かく砕けた貝が確認できます

発掘調査の結果、土偶や打製石斧など多数の遺物が出土したそうです。ここで発見されたみみずく土偶は国の重要文化財に指定されています。

みみずく土偶?

<みみずく土偶>
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こちらは本物ではありません。駅前で撮影しました。この土偶がほぼ完全な形で見つかったそうです。

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人間の姿を模した素焼きの人形、つまり土偶。その顔がミミズクに似ていることからこの名前がつけられているとのこと。 なるほど。

sn459ad.jpg
参考になりました

それにしても
岩槻でも貝塚か

おおむかし、海岸線が関東平野の奥まで達していたことはよく知られていますね。いわゆる奥東京湾です。埼玉の南部において、貝塚はそんなに珍しくはありません。

では
関東で最北の貝塚はどこなんだろう?

調べてみたら、最も内陸の貝塚は栃木にあるそうです。えっ!と思いましたが、現在の渡良瀬遊水地付近と聞くと、なんとなく納得してしまいました。ただ、関東がいかに平野か思い知った気がしました。

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ちなみに、この付近の台地の標高は10m強と言われています。貝塚はその台地の隅で、人が暮らしていたなごり。ついそこまで海が迫っていたなごりですね。

■訪問:真福寺貝塚
[さいたま市岩槻区城南]3丁目

2020年07月25日

玄奘塔 あの三蔵法師の霊骨が埼玉に(旧岩槻市)慈恩寺

今回はあの三蔵法師の霊骨が分骨されているという岩槻の寺院を訪ねた話です。

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三蔵法師といえば西遊記を思い出す方が大半ではないでしょうか?孫悟空や沙悟浄、猪八戒の顔まで連想してしまいます(世代的に夏目雅子と堺正章・岸部シロー・西田敏行になってしまいますが)。
そんなドラマや映画で親しんだ三蔵法師の遺骨がさいたま市にある。初めて聞いた時は驚きでした。そもそも日本にあると思っていませんし、更に奈良でも京都でもなく埼玉ということが意外でした。

ということで
お邪魔させて頂きました

■現地訪問■
私は東武鉄道野田線の豊春駅から徒歩で現地へ向かいました。迷わず歩いて30分弱でしょうか。豊春は春日部市。目指す慈恩寺は旧岩槻市。両市の境目あたりに位置しています。

<豊春橋>
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豊春という住所はなく、これはかつての村の名前です。駅名や地区名が、かつての村の名をいまに留めています。

<道のり>
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穏やかな道のり

そして

<現地到着>
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こちらですね。到着です。慈恩寺の本堂は離れたところにあり、ここは石塔のみです。ではお邪魔致します。

<玄奘塔>げんじょうとう
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遺骨を奉安した塔。ここに収められているのですね。独特の雰囲気に息をのみました

<玄奘塔>
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高さ18m。十三重の石塔です

<説明>
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三蔵法師については言うまでもありませんが、中国の唐の時代の僧侶ですね。長安を出発して、長い長い年月を費やし、インドのナーランダ寺院から経典を持ち帰った高僧です。経典といっても言語が違いますので、サンスクリット語から漢語へコツコツと訳し続けました。

<玄奘西城紀行図>
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砂漠や山脈を越えて行ったのですね。いや、更に戻ってきたわけです。

あと、ちょっと正確に言うと、三蔵法師というのは経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶のこと。我々が思い浮かべる三蔵法師の固有名詞ではありません。玄奘三蔵といった場合の玄奘(げんじょう)はご本人の戒名ですので、こちらを使う方が良いのかも知れませんね。

さて
では玄奘三蔵の遺骨がどうして岩槻に

遺骨は宋の時代に長安から南京にもたらされたのち、太平天国の乱で行方不明となっていました。戦争中に南京を占領していた日本軍が、土木作業中に頭骨を納めた石箱を偶然発見。南京政府に戻されましたが、日本へも分骨されるに至りました。

当初は増上寺に安置されたようです。これは納得。しかし当時の東京は空襲の被害が広がっており、一時埼玉県蕨市の三学院に移され、のちに三蔵法師の建立した中国の大慈恩寺にちなんで命名された岩槻の慈恩寺に移されました

なるほど
いわば戦時中の疎開がきっかけだったわけですね。その後、岩槻の慈恩寺から台湾の玄奘寺や奈良の薬師寺へも分骨されたとのこと

来てみて良かった
納得して豊春駅へ戻りました


最後に
実は個人的にどうしても訪ねたい理由がありました
<大雁塔>だいがんとう
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玄奘三蔵が持ち帰った経典などを保存するために、長安の大慈恩寺に建てられた塔です。古い古い写真で恐縮です。学生時代に中国を旅した時に撮影したものです。優雅な旅?とんでもありません。服はボロボロ、バックパッカーの貧乏旅行です。今では観光スポットですが、当時は人影もまばらでした。若い頃にここを訪ねた記憶に突き動かされ、駅からてくてくと歩いたような気がします。

<玄奘塔>
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玄奘三蔵の霊骨が眠る場所です

■訪問:慈恩寺の玄奘塔
[さいたま市岩槻区大字慈恩寺]


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