<徳川慶喜公屋敷跡>
当ブログでは既に巣鴨の屋敷跡をご紹介させて頂いています。石碑のみですが、徳川慶喜に対する個人的な思いも記させて頂きましたので、良かったら覗いてみて下さい。
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徳川慶喜が駿府での長い長い謹慎生活を経て江戸、ではなくて東京へ戻ったのが明治30年(1897年)。当初は豊島区巣鴨に住んでいましたが、屋敷のすぐそばを電車(山手線)が通ることになり、騒音を避けて文京区春日に引越しました(1901年)。その跡地が今回の訪問地です。
<大学の敷地>
屋敷跡は大学の敷地となっています。門の前には『徳川慶喜公屋敷跡』の金属板があります。関係者でもないので入るわけにもいきませんが、外から見ただけでも、敷地内が傾斜になっているのが分かります。徳川慶喜が晩年を過ごしたお屋敷そのものはこの奥の方、低地を見下ろせる高台にあったようです。今と違って遮るものもないでしょうから、神田川(むかしの江戸川)なども屋敷から眺めることができたのかもしれませんね。
<大学の東側の坂>
屋敷沿いの坂道です。傾斜が伝わりやすいと思い撮影しました。
慶喜が移り住むより100年くらい前の話になりますが、この地には駿河松長藩主・大久保教寛の屋敷があったとのこと。これも何かの縁でしょうか?というのも、この大久保家は遡れば徳川家康に仕えた三河武士。教寛の父は小田原藩主で大老にまでなった大久保忠朝です。まぁこのあたりを慶喜が意識したかどうかはわかりません。
ところで
慶喜の屋敷を小日向邸と呼んでいる説明をよく見かけます。
<大学の西側の道>
大学そのものは春日二丁目で、この道を挟んだ西側は小日向一丁目ではありますが
この素朴な疑問は、すぐ近くの説明板で納得しました。
<第六天町>だいろくてんちょう
この付近の旧町名に関する説明板です。旧第六天町?私としては初耳でした。説明によれば『小日向村に属し、正徳3年(1713)町方支配となった。神田上水堀の土手の上に第六天社が祭られていた。その北側の前の町ということで、第六天前町と称した。』とのこと(続き省略:そのあと『前』がとれて第六天町となりました)。
この辺り一帯を小日向と呼んでもおかしくないと思いながら、右側の地図に記された『現町境』の点線と『旧町域』の色分けを確認して納得しました。
<説明板拡大>
屋敷跡は現在の住所だと春日になりますが、旧第六天町に位置しているわけですね
<終焉の地>
巣鴨から第六天町へ移った徳川慶喜は、大正2年(1913年)に亡くなりました(76歳)。慶喜は水戸藩主の七男ですが、水戸の出身ではなく、ここ(現在の春日2丁目)からそう遠くない小石川の上屋敷(現在の小石川後楽園)で生まれました。激動の幕末を将軍として乗り切り、人生の大半を駿府で過ごし、結局は生まれたところへ帰ってきた。そんな印象を受けました。
ということで
文京区の徳川慶喜屋敷跡のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:徳川慶喜屋敷跡
(国際仏教学大学院大学)
[東京都文京区春日] 2丁目
■参考及び抜粋
・Wikipedia:2021/10/21
・旧町名説明板(文京区)
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<巣鴨での屋敷跡>
白山通り沿いに石碑があります。屋敷跡は現在はビルが立ち並んでいます
[東京都豊島区巣鴨]
<駿府での屋敷跡>
現在は料亭(浮月楼)となっています
[静岡市葵区紺屋町]
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