<石碑>
十五代将軍の屋敷が巣鴨?ではなく、将軍職を辞した後の話。しかも、駿府での長い長い謹慎生活の後の話です。
<説明板>
庭に梅が植えられ、町の人たちからは「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれていたそうです。将軍職であったらあり得ない場所、あり得ない親しまれ方ですね。説明板には「梅の木は故郷の水戸に因んだ」と記されています。
<地図拡大>
赤丸〇は私が筆をいれました。石碑の位置です。これによると、このヘン一帯が屋敷だったようです。現在の白山通りに面して門があったのですね。石碑付近のお店もその奥も、徳川慶喜屋敷跡ということですね。結構広いです。
<江戸切絵図>
図の下半分の黄色い線が中山道。つまり白山通りです。街道沿いですが、昔はもっと静かでのどかな場所だったのでしょう。
■慶喜61歳■
以前徳川慶喜の墓所を訪ね、大政奉還後の慶喜について多少ブログに掲載させて頂きました。宜しければ覗いてみて下さい。
記事へ→「最後の将軍」
慶喜は1837年生まれで、将軍辞職が1867年。まだ30歳でした。当時の30歳ですから、現代人とは成熟度合いも違うでしょうし、特別な教育も受けていたわけですから覚悟も違う(と思われます)。それでも若いですよね。駿府(静岡)では政治とは無縁の生活をおくり、巣鴨へ移り住んだ時には61歳。1897年(明治30年)のことでした。約30年もの時を経て、再び江戸に、まぁもう既に東京ですね、居を構えたわけです。その後、慶喜は公爵に叙せられ、貴族院議員にも就いています。
陰では、元幕臣の勝海舟の働きかけがあったとのこと。勝海舟は徳川幕府の幕引き、そして徳川家の存続に尽力しました。勝家は旗本ながら知行はわずか41石。身分がものを言う組織では、到底抜擢されない家柄です。秩序が流動化したこと、そして将軍が慶喜だったからこそ、働きの場を得られたのだと思います。新たな時代への過渡期に活躍した人物ですから、徳川慶喜、そして仕えた勝海舟も、人によって評価がバラバラですね。どんな立ち位置で見るかによって、全く違う評価になります。個人的には、好意の目で見ています。
<石碑と説明板>
屋敷のそばを鉄道が通ることになり、慶喜はこれを嫌ってこの地を去りました。転居先は文京区小日向(現在の文京区春日2丁目)。ここ巣鴨での暮らしは、約4年間でした。
人も車も電車も通る賑やかな巣鴨駅の近く。石碑を見かけたら、ちょっと足を止めてみては如何でしょうか。徳川慶喜ゆかりの地です。
■訪問:徳川慶喜巣鴨屋敷跡
[東京都豊島区巣鴨]1丁目
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