最後の将軍となった徳川慶喜の墓所を訪ねました。
■谷中霊園■やなかれいえん
<霊園内>
ここにはたくさんの著名人のお墓があります。横山大観や渋沢栄一などなど。お墓そのものは撮影したくないので、とりあえず満開の桜を。都会のど真ん中とは思えない美しい場所で、訪れる人もたくさんです。ただどうでしょう。やはり墓地です。はしゃぐ場所ではないし、夜の訪問はちょっと遠慮したいですね。
<案内>
約七千のお墓があるそうです。とにかく広すぎて、どうなることかと思いましたが大丈夫。とても親切です。
<墓所到着>
どうやら到着したようです。この柵に囲まれた一画が徳川慶喜墓所です。葵の御紋がついたお墓の前は、やはり佇む人が多く、少し待ってから正面へ向かいました。それでも、人が途切れることはありませんでした。
<徳川慶喜墓所>
こちらが正面。中には入れませんが、様子は充分に伺えます。
独特のお墓(円墳状の墓)の隣には『従位勲一等徳川慶喜墓』と刻まれた石柱があります。柵の間から望遠で撮影できますが、気持ちとして私はここまで。静けさの中に放たれる威光。これを感じただけで充分です。
拝見させて頂きました。ありがとうございます。
■最後の将軍■
徳川慶喜というと、皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか?最後の将軍。まぁその通りですね。同じことを「最後の征夷大将軍」と言い直すと、かなり感慨深いものがありませんかね?。私だけでしょうか・・・
更に慶喜に関してもうひとつ気になっていたのが、今回訪問の墓所です。他の将軍が増上寺や寛永寺に埋葬されているのに、慶喜だけは別。「そういうものか」と漠然と事実だけを受け入れていましたが、今回を機に調べました。まぁいろいろ説はあるにせよ、2つに絞られるような気がします。
まずひとつ目は、慶喜は将軍職を辞めた人物であることから、歴代将軍の墓所には墓を建てられなかったとする考え方です。そしてもう一つは、明治天皇に感謝の意を示す為に、自らの葬儀は仏式ではなく、神式で行なうように遺言したためとする説です。この背景として、慶喜は歴代天皇陵が質素なことにいたく感動していたという話があります。
将軍を辞職した。まぁそういう捉え方もありますかね。慶喜が新政府軍と戦って討ち死にしていたら、菩提寺に眠ることができた。筋から言うと、そういうことですね。時代背景を考えると、望ましいとは思えませんね。ならば、これで良かったとご本人もお思いになるのではないでしょうか。
明治天皇に感謝。私個人が抱く慶喜イメージだと、これがしっくりきます。繰り返しますが、私個人のイメージです。慶喜は1837年生まれ(水戸藩主の七男として江戸藩邸にて誕生)。将軍辞職が1867年ですから、まだ30歳です。没するのが1913年で76歳ですから、その後の人生の方がずっとずっと長いわけですね。将軍を辞した慶喜は、静岡で趣味に没頭する日々を送り、政治的な野心は全く持たなかったようです。やがて30年もの時を経て、慶喜は東京の巣鴨に転居。1902年には公爵に叙せられ、貴族院議員となります。これにより35年振りに政治と関わることになるのですが、それは野心とは程遠い姿だったようです。政治と無関係に過ごした35年という長い年月と、かつて不本意ながらも『朝敵』のような立場だった自分に与えられた待遇。明治天皇に感謝する思いがあったというのが、自然な流れと受けとめたいですね。
■つわものどもが夢の跡■
1908年の春、慶喜は明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与されます。これは大政奉還の功によるものでした。武家の棟梁が支配する世の中は、源頼朝から始まりました。そして徳川慶喜により幕引きとなったわけですね。
将軍としての慶喜の評価はバラバラです。何を軸に評価するかで、最高にも最低にも成り得ます。これほど極端に評価が分かれること自体が、いかに厳しい環境に立たされていたを物語っているような気がします。
■谷中霊園■
[東京都台東区谷中]7丁目
お城巡りランキング
--------(追 記)--------
当ブログは、私の個人的な思いが込められていたり、歴史認識で一般的ではないものも混じっている可能性があります(今回は特にあり得ると思っています)。追記として、現地で撮影した説明板(東京都教育委員会さんの説明)をそのまま掲載します。
<説明板>
東京都指定史跡 徳川慶喜墓
所在地:台東区谷中7-2 寛永寺墓地内
指定:昭和44年3月27日
徳川慶喜(1837から1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第七子で、はじめは一橋徳川家を継いで後見職として将軍家茂を補佐しました。慶応2年(1866)、大5代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し慶応4年(1868)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。
駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31年(1898)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治35年(1902)には公爵を受爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2年(1913)11月22日に77歳で没しました。
お墓は、間口3.6m、奥行き4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1.7m、高さ0.72mの玉石畳の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。
平成22年3月建設 東京都教育委員会
2018年03月30日
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