<半蔵門>
数ある江戸城の門の中で、家臣の名がそのまま呼び名となっているのはここだけです。場所は江戸城の西側。大手門に対し、裏門にあたります。
■現地訪問■
半蔵門駅から新宿通り(=甲州街道)をお堀の方向に歩くだけ。
<半蔵門駅>
半蔵門線の半蔵門駅で下車して半蔵門へ。ちょっとくどいですかね(言ってみたかっただけです)。
<駅の地図>
ちょっと筆をいれました。赤丸〇が目的地。出口だと3aか3bがお勧め。徒歩約5分程度です。この地図だと下側が西。簡単ですね。
ただし江戸城の他の門とは異なり、半蔵門は遠くから見ることしかできません。
<半蔵濠と門>
左手は半蔵濠。門の向こう側は吹上御苑(ふきあげぎょえん)になります。なかはわかりませんが、天皇陛下のお住まいに最も近い御門。時々テレビなどで拝見する皇居内の水田もこの奥のようです。警備が厳重で当然ですね。
<道灌濠と門>
向かって右手は道灌堀になります。
<高低差>
改めて見てみると凄い高低差ですね。土橋部分を残して掘ったわけですから大工事です。
<門付近>
遠くから携帯カメラの望遠で撮影してます。画像が悪くてすみません。まぁ良すぎると警備にご迷惑かもしれませんので、こんなもんで良いでしょう。
江戸城時代の半蔵門はいわゆる「枡形(ますがた)」となっていて、高麗門と渡櫓門があったそうです。外からだと現状の構造はわかりませんが、もう渡櫓門は無いそうです。もうひとつ、高麗門ですが、オリジナルは空襲で焼失したため、和田倉門の高麗門を移築したものとのこと。
どっちから撮影しても中はわかりませんね。ただ、門の部分が前に突き出ているのは分りますので、あれが「枡形」のなごりと思うことにします。
■半蔵たちが守った門■
その名の通り、服部半蔵に由来する門ですね。半蔵はこの門の外、麹町付近に組屋敷を構えていました。その家来たち(与力・伊賀同心)も半蔵門に通じる甲州街道沿いに住んだそうです。今も厳重に警備されていますが、そのむかしは服部家がその役割を担っていた訳ですね。
■有事の脱出用■
諸説ありますが、甲州街道に通じるこの半蔵門は、有事に将軍が脱出する門だったそうです。裏門から抜け出し、服部半蔵配下の者たちに守られて難を逃れる。そういう手はずということですね。
本能寺の変の直後、窮地に追い込まれた家康が、伊賀越えで生を拾ったことを思い出します。その時が縁で召し抱えられた伊賀衆が、半蔵の指揮のもと、脱出ルートに配置されていたわけですね。三河時代からの家臣との絆が強い家康さんですから、信用できる人は他にも沢山いたはず。個人的見解ですが、きっと「縁起も担いだのだろう」と思っています。伊賀越えはそれくらい奇跡の生還だったのでしょう。そして、そういった思いを忘れないところが、徳川家康の魅力だと思います。繰り返しますが、あくまで私の個人的な思いです。
さて、この付近の地形ですが、結構複雑です。一応武蔵野台地の上にあるものの、隅っこであることから高台と谷が入り混じります。甲州街道は谷を避け、台地の上だけを繋いだ通り道。いわば尾根道です。よって、同じく台地の上の半蔵門を出てから、地形に進行を遅らされることなく移動することができます。
これを逆に考えると、城に接近しやすい道ということにもなりますね。城全体のことを考えると、地形的にはリスクのある方角ということになります。守る側にとって、これは放っておけない問題ですね。
ここ半蔵門から甲州街道(=新宿通り)を西へ進めば四谷です。そこには四谷見附が設けられていました。半蔵門同様、江戸城三十六見附の一つです。そして「真田堀」と呼ばれる深い堀。江戸城の外濠はもともとの谷を上手く利用しているところもありますが、四谷付近は武蔵野台地を深く削って造り上げた人工の高低差です。
半蔵門から始まる有事のための脱出ルート。普段の警備も完璧です。
<道灌濠>
太田道灌から始まる江戸城。徳川家により近世城郭へと変貌を遂げました。
構造の一つ一つに、思惑が込められた城郭です。
■訪問:半蔵門
[東京都千代田区麹町]
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タグ:江戸城三十六見附