都内にもあるつわものどもが夢の跡。今回の舞台は渋谷です。こんな若者の街に城跡が?と思われる方が大半かと思います。でも実際に存在していました。遠い昔、中世のことですが。
<渋谷城跡>
渋谷3丁目の金王八幡宮の一帯が渋谷城跡と推定されています。当ブログで二度目の投稿となりますが、今回はもうちょっと渋谷の地形を加味してご案内できればと思っています。
■現地訪問■
最寄り駅はJR渋谷駅。そもそもこの駅自体が『渋谷』という名が示す通り谷にあります。谷には川が流れ、複数の突き出た台地に囲まれている状態です。その台地の一つに渋谷城が築かれました。
<歩道橋から撮影>
渋谷駅付近から六本木りを撮影。高低差があることは伝わると思います。コンクリの街なので『台地』を実感しにくいですが、渋谷駅周辺には道玄坂や宮益坂といった有名な坂が多いですよね。それらは全て谷から台地へ登る道なのです。画像の坂ですが、登りきる手前に鎮座する金王八幡宮付近が、かつての城跡の中心部分と言われています。台地の高低差、そして天然堀の役割を果たした川が、渋谷城の『地の利』ということになります。
渋谷で川?
はい。渋谷川という川が谷を流れています。多くの人が渋谷を訪れますが、この川を見かける人は少ないかもしれません。理由は、かなりの部分が地下に埋設されているからです。いわゆる暗渠(あんきょ)ですね。これでは目にするのは無理。ただし、一部のエリアを除いてです。
<稲荷橋>
橋があるのに川の姿がありませんね。ただ、この地下はいまでも現役の川なのです。
<現在位置>
稲荷橋付近に川はありませんね。でもちょっと南側(左下)から川が始まっています。
<暗渠の出口>
暗渠の出口です。地図の上ではここから渋谷川が始まります。こういう状態(普通に見えている状態)を、暗渠に対して開渠(かいきょ)といいます。ここから先の渋谷川はいまでも開渠なのです。
<渋谷川>
コンクリで固められ、まぁちょっと窮屈な状態ですが、間違いなく川です。しかも昨日今日の川ではなく、古くからの水の流れです。現在の新宿御苑付近を水源とし、多くの支流の水を集める川でした。開発の都合で多少の流路変更もありましたが、渋谷の谷底であることに変わりありません。また、かつての支流はその大半が下水道として暗渠化され、よほどの大雨以外は水が渋谷川に流れ込むこともなくなりました(下水は地下で別のルートに流されるようになっています)。よって水量も減りましたが、本流そのものの流れはずっと続いているのです。
だいぶ姿は変わっても、かつての城にとっての天然堀、あるいは物資運搬の手段のなごりとして受けとめて良いと思います。
さて『地の利』を確認できたところで
具体的な城跡へ
<金王八幡宮>
ここが城跡の一部とされる場所です。渋谷駅から500mくらいでしょうか。渋谷城そのものはもっと広範囲だったと考えられています。渋谷駅からここへ来るまでに、既にかつての城跡を歩いていたのかもしれませんね。もちろん石垣も天守もありません。中世のお話ですから、土塁や堀で区画を囲った館のようなものをイメージしたもらった方が良いかもしれません。
渋谷城そのものの築城年代は分かっておらず、諸々のことが推定であり、諸説あるようです。ただ、渋谷氏の先祖にあたる河崎基家が、源義家よりこの地を与えられたというのはどの説にも共通しています。この河崎基家は桓武平氏・秩父氏の一族で(秩父基家)、源義家が奥州・安倍一族と戦った際に従軍し、功績を上げたことで河崎荘(神奈川県川崎市)の所領を与えられ、河崎氏を名乗りました。
秩父平氏は支流が多く、すべて把握できませんが、武蔵国各地で頭角を現した武士団だと畠山氏や稲毛氏、あと豊島氏などが思い出されます(他にも多数)。河崎氏も祖を辿れば同じということですね。
この神社は河崎基家により建立され、その子である渋谷重家がこの地に館を築いたのが渋谷城の始まりと考えられています。河崎基家は河崎荘のみならず、広範囲に所領を与えられ、現在の渋谷区も含まれていたと受け止めて良いのですかね?一方で、同じく河崎基家の子孫で、神奈川(相模国)の渋谷荘を治めて渋谷氏を名乗っていた一族が、ここ(武蔵国)に移り住んだという話もあります。ちょっと順序というか、経緯がはっきりしませんが、とにかく河崎基家を祖とする渋谷一族がここに城を構えたことだけは事実のようです。
ちなみに、金王八幡宮の金王は、渋谷重家の子である渋谷常光に由来します。常光はこの神社に祈願し、金剛夜叉明王の化身となったことにより金王丸と称したとされています。金王丸は源義朝(頼朝の父ですね)に従い功績をあげました。そして、金王丸の名を後世に残すべく、神社は金王八幡宮とされたと伝わります。
史実と言い伝えがうまく分けられず恐縮です。渋谷城は源氏に従った渋谷氏の居城から始まると受け止めて下さい。
<入口付近の説明板>
説明文の一部を使わせて頂きました。
せっかくですので金王八幡宮を簡単に
<神門(赤門)>
<狛犬>
<神楽殿>
<社殿>
江戸時代には将軍家の信仰を得て、家光の乳母である春日局と守役である青山伯耆守忠俊により社殿が造営されました。家光の将軍決定のお礼ということですね。渋谷区指定有形文化財です。
<玉造稲荷社>たまつくりいなりしゃ
詳細省略で恐縮ですが、境内はこんな感じです。
<説明板>
こちらの説明板には、城に関する記載がありました。後半の一部をそのまま抜粋させて頂きます。
『このあたり一帯の高台には、渋谷氏の居館があったと伝わり、帯にだと、東に鎌倉道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、城館を囲んでいた』とのこと。低層の台地ながら谷には水が集まり、天然の要害だったのでしょう。付近から湧き水があったことにも言及されています。
説明の最後には、1524年に城館は『北条氏の一軍に焼き払われてしまった』とあります。諸説ありますが、今回はこれを城の最後と思うことにします。北条氏綱と扇谷上杉朝興が高輪で激突した戦いがありました(高輪原の戦い)。北条氏綱が上杉氏を圧倒して終わるこの戦いのなかで、北条氏の別動隊が渋谷城にも襲い掛かったということですね。北条軍は渋谷城の東の鎌倉道を通って江戸へ攻め進んだようです。
<砦の石>
これも城のなごりということでしょうか。中世の城で石垣は実感が湧かないので、参考程度に受け止めておきます。
地形を見に来たようなものです。外も見て回りました。
かつては付近に湧き水も出て、小川水も豊かな地だった模様です。
ああいうのは台地を削った堀切のなごりでしょうか?確証はなく、ほぼ想像で楽しみました
堀切跡?かもしれない道を挟んだお隣は稲荷神社です。こちらも渋谷城の一部だったのでしょう
<豊栄稲荷神社>とよさかいなりじんじゃ
神秘的な参道。鳥居を前にすると心が凛とします。
<社殿>
コンパクトにまとまったこの美しい神社は、実は渋谷氏ゆかりの神社です。渋谷高重によって創建されたと田中稲荷神社と、別の場所(道玄坂)にあった豊澤稲荷神社が昭和になって合祀され、現在の社殿が建立されました。
田中稲荷神社はもともと渋谷駅近くに鎮座していたとのこと。渋谷駅付近、つまり地形で説明すると谷底ですね。渋谷川が渋谷城の堀として利用されたため『堀の外稲荷』と称されたという話が伝わっています。こういった話にも、当時の城、そして川が城に果たした役割を感じることができます。
<傾斜>
豊栄稲荷神社から低い場所へと続く道。どうせなら来た時とは違う道で戻りますかね
明治通りに出ました。通りの向こうに橋らしき姿が見えています。
また会いましたね。渋谷川です。現地説明では城の『西には渋谷川がながれ』とありましたが、西側は既に暗渠化されて姿は見えません。ただ渋谷川は駅付近で緩やかにカーブし、城跡の南側に回り込んでいます。こちらはまだ暗渠化されておらず、水面を見ることができます。
暗渠を渡って城跡がある東へ向かい、帰りは高台から南の低地へ降りて開渠に出た。非常に分かり易い結末で、この日の探索は終了しました。
<つわものどもが夢の跡>
地形に納得し、渋谷川とも出会えました。城跡の一部が神社であるが故に、都市化から外されていることにも助けられ、城のなごりを感じることができました。決定的な遺構はありませんが満足な訪問でした。
-------■ 渋谷城 ■-------
別 名:金王丸城
築城年: 不明(平安末期)
築城者:渋谷重家
城 主:渋谷氏
廃城年:不明(1524年?)
現 状 : 金王八幡宮
[ 東京都渋谷区渋谷 ]
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2020年07月19日
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金王丸登場しましたか!実は渋谷の地形には納得したものの、渋谷一族のことが大まかにしか分からず困りました。twitterで川崎のKさんにコメントをもらい、若干修正しました。
先日、某カルチャー講座で駒場から神泉まで歩きました。百軒店での懇親会のあと、講師の方が渋谷駅までの細道を案内してくれました。ISUKEさんが書かれた渋谷とは反対側で高低差を楽しんでいたわけです。かなり急な崖があったりしてね。
そういえば、今読んでいる吉川英治さんの新平家物語にも金王丸が登場します。それが渋谷の神社の由緒なんですね。勉強になります。