つわものどもが夢の跡
晩秋の米沢。今回は上杉鷹山を意識して訪問しました。
<上杉鷹山>
[米沢市丸の内]
米沢城の本丸跡。鷹山の銅像です。
<晩秋の城内>
訪問は11月下旬。冬まじかの米沢城(松が岬公園)です。
<謙信公>
越後の龍・上杉謙信。米沢上杉家の藩祖として崇められています。
上杉鷹山(うえすぎようざん)
名前はとても有名ですね。あと「なせば成る・・・」の名言も。簡潔に言えば、江戸時代の改革者。上杉家の養子となり、破産寸前の米沢藩を再建した藩主です。
■若き藩主■
鷹山は1751年生まれ。日向高鍋藩主の次男で、10歳で米沢藩主・上杉重定の娘(幸姫)の婿養子となっています。つまり、まだ少年のうちから藩主となることを期待されていたわけですね。その後、生涯の師となる細井平洲(ほそいへいしゅう)に学び、17歳の若さで家督を相続しました。
それにしても、日向といったら現在の宮崎県(と一部鹿児島)ですよね。米沢の上杉と、ちょっとつながり難いのですが・・・。
鷹山は、米沢藩の4代藩主となった上杉綱憲の遠縁にあたります。ですから、養子といっても全く無関係という訳ではありませんでした。早くから選ばれ、英才教育を受けた鷹山。ここからはちょっと個人的な意見ですが、資質や教育もさることながら、「よそから来た者」だからこそ、なおさら改革を成し得た。そう感じています。生え抜きで優秀な当主はいくらでもいますが、家老の立場が強い当時の上杉家には、新鮮な血が必要だった。前藩主の上杉重定も、それが分かっていたからこそ、敢えて養子を迎えたのだと思います(繰り返しますが個人的意見が入っています)。
■率先垂範の改革者■
財政難といっても、格式高い名門家。慣習を変えることは容易ではありません。鷹山はまず自分から手本を示しました。例えば、藩主の仕切料(衣装代から食べ物、その他藩主たる者に関わる生活費)を1500両から一気に200両弱に減らしました。
「名門上杉の当主が、情けない…」
古き家臣団が嘆きそうですね。きっと嫌味のひとつも出たでしょう。鷹山は更に、奥女中を五十人から九人に減らしました。一度贅沢をしていたら、なかなか思い切れないコストカット。若い鷹山の強みだったかもしれません。
質素な食事として良く耳にする「一汁一菜」という言葉。鷹山はパフォーマンスではなく、これを徹底しました。着るものは木綿のみ。率先垂範により、家臣団にもそれまで許されてきた贅沢や無駄をなくすことを求めました。
人の意識を変えるために、まずは自分から。本物のリーダーです。
■破産寸前■貧乏上杉?
●藩が破産寸前とは?
これは借金が返せず、新たな借金もできず、もはややっていけないので、領地を幕府に返上せざるを得ない寸前という感じになります。つまり権利も放棄して自己破産ということですね。これが真剣に議論されるレベルにまで達していました。
●名門上杉が何で?
上杉家の石高のピークは、謙信の後を継いだ景勝の時です。豊臣秀吉の命により、越後を離れるとは言え、会津120万石を得ました。更に佐渡金山も。これは凄い財力です。しかし秀吉の没後,徳川家康と対立関係になった上杉家。関が原の戦後処理で、米沢30万石に減封されました。
普通はここで家臣団を減らさなくてはなりませんが、上杉景勝はそれをしませんでした。120万石の時の家臣団をそのまま抱えて米沢へ。重臣・直江兼続の徹底したコスト削減。そして積極的な経済政策の実施。治水と新田開発に力を入れた結果、表向き30万石の米沢藩は、実質で50万石を超えたとされています。めでたしめでたし。
<上杉景勝と直江兼続>
ここまでの話の参考記事
→『米沢藩の礎 景勝と兼続』
よろしければ覗いてみて下さい。
ところが「めでたし」で終わらないところに、後世に語り継がれる上杉苦難の歴史があります。
3代藩主上杉綱勝が急死。跡継ぎを決めないまま亡くなったことから、上杉家はお取り潰しの危機にさらされます。
(初)景勝⇒(2)定勝⇒(3)綱勝⇒×
養子を迎えて難を逃れたものの、米沢藩はこの不始末からら15万石に減封されてしまいます。120万が30万になり、ギリギリで立て直したのに15万・・・ということです。
更に、養子に入ったのは吉良上野介義央の息子。手を打てないどころか、実家である吉良家の支出を上杉家で肩代わりするなどして、財政はますます悪化します。藩主の座はそのまま血縁で相続され続けますが、藩政は放漫としか評価できないものでした。
(4)綱憲⇒(5)吉憲⇒(6)宗憲⇒(7)宗房⇒(8)重定
米沢藩はもう破産寸前。この状況で現れたのが鷹山でした。
⇒(9)上杉治憲(のちの鷹山)です。
■いばらの道■
改革といっても、すぐに何でも新しくなる訳ではありません。産業に明るい竹俣当綱(たけのまたまさつな)、財政の莅戸善政(のぞきよしまさ)といったブレインもいるものの少数派。更に、彼らの身分はそんなに高い訳ではありません。
鷹山の改革を快く思わない者(とくに老臣)たちの妨害や、反乱(七家騒動:改革反対派の7重臣が藩主の罷免を迫る事件)もありました。これらを乗り越えた鷹山は、改革がひと段落したところで隠居(1785年・35歳)。前当主であり養父である重定の実子・治広に家督を譲ります。この時、君主としての心得を記した「伝国の辞」を治広に託しました。
【伝国の辞】
・国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候
・人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候
・国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候
<餐霞館遺跡>さんかかん
[米沢市城南]
鷹山が隠居後に住んだ邸宅跡。場所は米沢城跡からすぐです。
35歳で藩主の座を譲った鷹山ですが、後任の治広、そしてそのまた次の代の藩主・斉定も鷹山を頼ったことから、隠居の身となったあとも改革への取り組みは続きました。名を治憲から鷹山としたのは52歳。つまり隠居後ということですね。白鷹山(しらたかやま)にちなんで鷹山と号したと伝わります。
幼き頃の教育も含めると、藩を救うことに生涯を捧げた。そう思えますね。72歳で亡くなるまで、藩政を指導し続けたそうです。
<石碑>
なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり
■参考にした文献■
小説 上杉鷹山(集英社文庫)
著者:童門冬二
お城巡りランキング
2017年12月19日
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