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2017年12月29日

普門院 鷹山ゆかりの地F

米沢市関根の普門院
鷹山が恩師である細井平州(ほそいへいしゅう)を出迎えた場所として知られています。

<普門院・本堂>ふもんいん
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<普門院・赤門>
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私の訪問時には改修工事中でした。普門院の歴史は古く、創建は9世紀。伊達氏が領主だった時代にこの地へ移り、現在に至っています。本堂は1796年に再建されたもの。鷹山の時代です。


<敬師の像>
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鷹山が恩師をもてなした場所として知られています。その時に使った部屋や茶器などがいまも残されています。

米沢藩の藩政改革に取り組んだ鷹山。師である細井平洲を3度米沢へ招いています。平洲の3度目の訪問に際し、鷹山は自らこの地へ出向いて師をもてなしました。

■敬師の里■
ただ先生を出迎えただけ?まぁそうですが、当時の常識というか感覚として、藩主にまでなった男が自ら出迎えることは異例のことでした。師が米沢領内の大沢村(城から10q程度)に到着した知らせが届くと、鷹山は待ちきれずに城を出たそうです。師を敬う鷹山の行いは、敬師の美談として語り継がれています。

まぁ分かる気がしますね。自ら鍬を手にしたり、自ら雨乞いをしたりと、鷹山の行動は格式高い上杉家の「お殿様」には不似合いなものばかり。心から敬う人を迎えるのに、身分などという形式は後回しなのでしょう。
鷹山の藩政改革の手法には見習うべきところが沢山ありますが、領民を思ったり、こうして師を敬ったりする人柄も魅力的です。

<普門院境内>
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訪問は11月下旬。ちょうどいい季節です。真言宗智山派の寺院。山号は岩上山。私は今回レンタカーで移動しましたが、JR関根駅から徒歩10分程度の場所です。

<本堂の屋根>
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ちょっと建物の傷みが気になります。まぁだから改修工事中なんですかね。貴重な歴史の舞台。大切に守って欲しいですね。

<説明板>
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ここ普門院は「上杉治憲公敬師郊迎跡」として国指定史跡になっています。治憲、のちの鷹山のことですね。

■平州と鷹山■
細井平州は尾張国の出身の儒学者。鷹山の師として有名ですね。37歳のときに当時14歳の鷹山の師となり、教育にあたりました。やがて上杉家の頂点という立場になっても、鷹山は平洲を生涯の師と仰ぎました。

<羽黒神社・鳥居>
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普門院近くの羽黒神社。鷹山はここまで迎えに出て、恩師と久しぶりの再会を果たします。既に高齢となった恩師。鷹山は普門院へと案内し、長旅の労を慰めました。

<山門と説明板>
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ここも普門院と同様に国指定史跡になっています。

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とても重厚な建物。ただ、山門も含め、ちょっと痛みが激しいようで心配になりました。矛盾しますが、こういう飾り気の無い雰囲気はとても好きです。雰囲気を残しつつ、改修されるといいですね。

<石碑>
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羽黒神社わきの石碑。右方向へ進んでいくと冒頭の普門院へたどり着きます。すぐ近くです。

■細井平州の教え■
鷹山の「学問の師」として知られている細井平州が、最も重視したのは「実践」でした。単に知るだけでなく、よく考えて、実行に移す。そういうことですね。藩の改革に挑もうとする鷹山に、平洲はこんな言葉を贈りました。

勇なるかな勇なるかな
勇にあらずして
何をもって行なわんや

行動に移すには、勇気が必要だという解釈で良いでしょうか。逆に行動したければ、勇気を持つこと

師から弟子へ、最高のエールですね。

<師(左)と弟子(右)>
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平洲69歳、鷹山46歳の再会でした。


■参考にした文献■
小説 上杉鷹山(集英社文庫)
著者:童門冬二



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2017年12月28日

山中の塩田跡 鷹山ゆかりの地E

鷹山の足跡をたどる旅
今回は米沢市の小野川町です。

財政難の藩を救うため、率先垂範で倹約を促す一方、農業を奨励し、更に数々の殖産興業政策を打ち出した上杉鷹山。人里離れた山奥にもそのなごりがあると聞き、訪問してみました。

<上杉鷹山公塩田碑>
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塩田跡地の石碑です。

塩田というと、みなさんはどういうイメージを持つでしょうか?私の場合、例えば赤穂とか、漠然と海の近くというイメージなのですが・・・なんでこんな山奥に?

この地の温泉の湯は塩味が強い。そこで塩田が試みられたようです。これも鷹山が掲げた沢山の経済政策の一つ。財政難脱却を目指す米沢藩の製塩事業です。

<案内板>
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下の方の絵。こんな感じだったようですね。

■小野川温泉■
山奥ではありますが、市街地からそんなに遠い訳ではありません(10q未満)。古くから地元民に親しまれ、もともと米沢の領主だった伊達氏にも慕われた温泉地です。

現在では、小野小町に由来する「美人湯」が売りとなっており、遠方から訪れる人も多い行楽地となっています。

<鬼面川>
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きめんがわではなく「おものがわ」と読みます。最上川の源流のひとつです。

病により衰弱した小野小町が顔を映したといわれる川。なんでも、川面に写った姿が(本人にしてみれば醜く)鬼のようだったとか。しかしこの地で温泉につかると、病が癒えた上に美女に生まれ変わった。小野川温泉はそんな伝説のある場所です。

それにしても自然豊かで風情のある場所。いいですね。夏にはホタル舞うそうです。平凡な会社員が、里山の温泉宿に泊まって晩秋の米沢を満喫した・・・わけではありません。そういうの、いつかはしてみたいですが、宿泊は市街地のビジネスホテル。小野川は小説『上杉鷹山』にも登場するので足を延ばしました。

<足湯>
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無料です。おカネなくても気分は味わえます。

注)温泉にご興味を持たれた方は、どうぞちゃんとした旅のサイトを参考にして下さい。この記事は、交通費で精一杯の貧乏旅行。温泉の魅力は伝えられません(小野川温泉のためにひとことでした)。

<山側からの眺め>
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甲子大黒天などがある山から撮影。冒頭の塩田を含む小野川温泉全体を見下ろせます。いかにも温泉地という景色ですね。

(話を鷹山に戻します)

■政策は枠組み作り■
多くの政策を試みた鷹山。これに応える家臣たちと領民。全体の調和なくして、改革は成しえなかったことでしょう。
米沢の人、というより日本人全般がそうだと思うのですが、基本的には真面目な人が多いような気がします。ただ、どちらかと言えば決まったことをきっちりやる気質。だからこそ伝統が守られたり、良いものを更に良くする細かい工夫を思いついたり、魅力的な側面が沢山ありますね。成功する改革者は、枠組みそのものを構築、あるいは修正できる人ではないでしょうか。枠組みを提供すると、もともと真面目な人たちが良い仕事をしてくれる。そして富を生む。働く人も全体も豊かになる。
鷹山の時代のたくさんの枠組みは、のちに米沢の主力産業となったり、あるいは名物となるものに繋がっています。
人が意欲的に働き続けられる枠組みの構築。つまりは環境作り。現在の企業でも求められているテーマですね。

■つわものどもが夢の跡■
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これも枠組みの一つでした。塩田は大事業とまではならなかったようですが、財政を何とかしたかった鷹山の夢の跡です。


■参考にした文献■
小説 上杉鷹山(集英社文庫)
著者:童門冬二



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2017年12月26日

原方衆屋敷跡 鷹山ゆかりの地D

上杉鷹山が奨励したと伝わるウコギの垣根。これを見るべく、かつての下級武士たちの屋敷跡を訪ねました。

■芳泉町■
<芳泉町の空>
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同市内の小野川からの帰り道。到着がちょっと遅すぎました。

<垣根>
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秋深い夕暮れの屋敷跡。ウコギの垣根はこのエリアのシンボル・・・なのですが、既に暗くこんな画像となりました。更に枯れています。

今回の旅のテーマは上杉鷹山。小野川もそのつもりでしたが、ちょっと欲張り過ぎましたかね。晩秋の米沢。寒さ対策は完璧でしたが、暮れるのがここまで早いとは・・・。ということで、これでは何だかわからないので、また以前当ブログで使用した画像(7月訪問)を使わせて頂きます。

<下級武士屋敷跡>
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<ウコギの垣根>
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米沢のウコギは、直江兼続が栽培を指示したことに始まります。鷹山は、これを垣根とすることを奨励しました。ウコギはトゲがあることから防犯用になる一方、薬効もあり、非常食にもなります。

■原方衆■はらがたしゅう
この町並みは、上杉家が会津百120石から米沢30万石へ減封されたあと、野に散って荒地を開拓した下級武士達により造られました。知行を大幅に削減されながら、家臣団を抱えたままだった上杉家。このピンチにリーダーとして対処した智将・直江兼続も見事ですが、その影には、開墾に身を捧げた名もなき下級武士たちの存在があることを忘れてはなりません。財政を下から支えた「つわものども」は、原方衆(はらがたしゅう)と呼ばれました。

■原方の糞つかみ■
歳月とともに人の心はこうも変わるのでしょうか。当初は半農半士となる者たちに対する同情、そして何より理解があったようですが、鷹山が藩主となった頃には、城下の家臣団の間に彼らを馬鹿にする風潮があったようです。
原方のクソつかみ
そう呼んだそうです。

昔の農業ですからね。堆肥にまみれることもあったかもしれません。体面を気にする側からみれば、蔑みの対象にしたかったのでしょう。人とはそういうものでしょうか。小説『上杉鷹山』で、よそから来た鷹山がこの言葉と意味を知り、深い悲しみに顔を曇らせるシーンが思いだされます。

更に、馬鹿にされる側の原方衆も黙ってはいません。彼らは身分こそ低いものの、自分の田畑の収穫物を口にすることができます。これを逆手に取り、ろくな飯も食べられない城下の武士たちを「城下の粥っぱら」と呼んで反撃。

ようするに、お互いに罵っていたわけですね。この良くない状態。以下は小説『上杉鷹山』(著者:童門冬二)からの抜粋です。

『人間は貧しいとき、そして前途に希望がないとき、必ず自分のまわりを見渡す。それも、下ばかり見る。自分より下位にある者がいると安心する。そして、「あいつよりは、まだ自分のほうがましだ」と思う。この優越感はやがて、下位者に対する侮蔑に変わっていく』

人の嫌な部分を紹介してしまいました。ただ、この小説、絶望で終わるお話ではありません。上杉鷹山を描いた作品ですから。

きっかけがあれば人は変われる。米沢藩の人たちにとって、鷹山はそのきっかけでした。小説の表現をお借りすると『火種』だったわけですね。鷹山自身も、そのことを意識して行動しました。


■農業の奨励■
国は誰のためのものなのか。私たちにとっては共通の正解がありますね。むかしは主権などという概念はありません。まして、それが領民にあるなどと誰も思いません。鷹山はそんな時代に生まれながら、藩主が国を私物化することを否定し、領民を思って事を成すことを藩主の勤めとしました。ならば、それに従う家臣団にとっても同じことが言えますね。

鷹山はかつての家老・直江兼続の功績を讃えて、それを手本としました。兼続と同じように農業を奨励し、自らも手に鍬をとって土と向き合う者を勇気づけました。

<籍田の遺跡>
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中国の故事にならって「籍田の礼」を行い、農業の大切さを改めて領民、そして家臣団に示しました。

<愛宕神社>
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連日の干天を憂いた鷹山は、山に登って雨乞いをしました。

<石碑>
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付き人は家来二人のみ。いかにも身軽な藩主です。そしてその日の夕方、本当に雨が降りました。領民は鷹山の祈祷が天に通じたと大喜びしたそうです。事実かどうかより、皆がそう思ったということにこの話の深さがあります。


本当に富を生み出している仕事。これを軽んじるようでは、その組織は衰退してゆきます。

倹約のみならず、鷹山は富を生み出す農業を基本とした改革を実現させました。米だけでなく、桑や紅花などの栽培も奨励。ウコギの生垣も、そんな流れの中の一つに過ぎません。


■つわものどもが夢の跡■
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この屋敷跡は、藩政を支えるべく、武士の体面より土を選んだ「原方衆のなごり」です。彼らの暮らしを支えたものは、具体的には収穫物に他なりません。しかし、あくまで上杉の武士です。お屋形さま、つまり藩主たるものの理解が、どれだけ彼らの勇気となったことでしょう。


■参考にした文献■
小説 上杉鷹山(集英社文庫)
著者:童門冬二



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2017年12月22日

白子神社 鷹山ゆかりの地C

つわものどもが夢の跡
山形県米沢市で、上杉鷹山ゆかりの地を訪ねました。

■米沢の鎮守■

<白子神社>
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[米沢市城北]2丁目
米沢の鎮守『白子神社』。創建はそうとう古く712年(和同5年)です。上杉氏以前の歴代領主(長井氏や伊達氏) からも崇められた米沢の守り神です。

旧名(江戸時代)は白子大明神。「白子」の名は、神のお告げによりこの地に無数のカイコが現れ、桑林がまるで雪のように白くなったことに由来します。桑と蚕。まゆも白いですし、何となく光景が思い浮かびますね(田舎育ちなので納得)。

<社殿>
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修理期間中で、全体がシートで覆われていました。下は以前訪問した時の画像です。

<白子神社(夏)>
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ちょっと季節が違いますが、外見はまぁこんな感じです。あまり大きくはありませんが、風格のある神社です。

鳥居の外で立ち止まった人が、手を合わせてから通りすぎる姿を目にしました。地元の人たちに親しまれている神社のようですね。ご利益は火防守護•家内安全•商売繁盛•五穀豊穣。


■大倹約を誓う■
藩の大倹約を決めた鷹山は、米沢の鎮守であるこの神社に誓詞を納めました。
<白子神社内>鷹山公誓詞の石碑
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連年国家衰微民人相泥・・・

読めません。調べました。
『連年(れんねん)国家衰微し、民人相泥(たみひとあいなず)み困り候。因って大倹相行い中興仕り度祈願仕候。決断もし相怠るにおいては忽ち神罰(しんばつ)を蒙るべきもの也』
[米沢市ホームページより]2017/12/22


つまりは
出来ないなら神罰を受ける覚悟だ!
という強い決意表明ですね。

藩主がここまでしても、倹約を浸透させることは容易ではありませんでした。凡人であっても、一時の使命感で鷹山と同じ台詞は言えるかもしれません。鷹山の非凡なところは、この意志を貫き通したことでしょう。普通なら心が折れそうなところを、決して諦めない。放棄しない。何かを成しえる人は、このあたりが人と違っているような気がします。

------(以下は米沢城址の画像)------

<米沢城址の石碑>
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なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり

後半の『成らぬは人のなさぬなりけり』。実現しないのは、人が本気で実現しようとしていないからだ。そんなふうに受けとめました。無理を早めに見積もることは、大人の分別として必要です。ただ、どうしてもと思うこと。これは願い続けなければ叶わない。そうでなければ事は成らぬ。そんな感じでしょうか。

<米沢城址の鷹山公>
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語り継がれるだけの理由がある。鷹山の生き様は家臣や領民だけでなく、現代を活きる私たちをも勇気づけてくれます。


■参考にした文献■
小説 上杉鷹山(集英社文庫)
著者:童門冬二



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2017年12月20日

籍田の碑 鷹山ゆかりの地B

つわものどもが夢の跡
晩秋の米沢市で、鷹山ゆかりの地を訪問しました。

<籍田の碑>
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[米沢市御廟]3丁目
ここは上杉鷹山が「籍田の礼」を行った場所です。

■籍田の礼■せきでんのれい
鷹山は中国の例にならい、「籍田の礼」をとり行いました。苦難続きの農民たちを励まし、更には土にまみれる下級武士たちを蔑む風潮を一掃するため、身をもって田畑と向き合いました。

籍田とは中国の農耕儀礼。周の君主が、農民を励ますため自ら田を耕し、収穫物を祖先に備えたことが起源とされています。鷹山はこれを手本としました。

■率先垂範■
ここでちょっと鷹山を題材とした童門冬二さんの小説から引用させて頂きます。

『改革には城と地域と個人の三つの努力が必要』

なるほど。

伝統と慣習により硬直化した家臣団を束ねる鷹山。これはもう「城」の改革だけでも大変なことです。城、すなわち藩主と家臣団。その暮らしを下支えしているのは領民。そして、国は本来領民のためのもの。城も努力し、村も領民も努力して変わることが必要。そうでなければ、国そのものは良くならない。そういうことですね。会社で言えば幹部と現場、そして何より社員ひとりひとりが変わらなければ、全体は生まれ変われないということでしょう。

当時の米沢では重い年貢、洪水や干ばつにより、農民は苦しい生活を強いられていました。耕地を放棄して逃げ出す農夫も珍しくなかったようです。鷹山は「籍田の礼」を行うことで、まず疲れ果てた農民を励ましました。

■小説内の籍田の礼■神の地
童門冬二さんの小説にも、籍田の礼が登場します。

鷹山の方針を指示する者が増える反面、いやがらせで田畑を荒らす輩が現れます。読者の大半が腹を立てるシーンですが、鷹山の対応は冷静。荒らされた田へ出向き、「籍田の礼」を行います。

(鷹山の台詞)
この米沢の地も天から賜ったものである。この土地でできる稲や野菜は、藩祖上杉謙信公を祀る春日社と、上杉家が長く崇拝している白子社の明神に捧げられる。この土地は春日・白子両社の神地であって、何人といえども手を出すことはできぬ。もし、この土地に理不尽な挙を加える者があらば、謙信公と白子明神の神罰が下るであろう。」


田畑を荒らしたのは盗賊でも野武士でもなく、同じ米沢藩の武士。れっきとした上杉家の家臣です。よそから来た若き当主は憎くても、謙信公や米沢の鎮守には背けません。鷹山が行った「籍田の礼」は、土にまみれる者たちを励ますとともに、良からぬ者たちの企てを田畑から遠ざけました。


■つわものどもが夢の跡■
格式高い上杉家の当主が、自らが鍬を取る。農民や半士半農の者たちだけでなく、城の武士たちもこれを見習い、田畑の開墾に協力するようになりました。
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財政難だった米沢藩は、いつしか他藩からお手本とされるようになります。ただし、それはそうとう後の話です。

■参考にした文献■
小説 上杉鷹山(集英社文庫)
著者:童門冬二



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2017年12月19日

晩秋の米沢城 鷹山ゆかりの地A

つわものどもが夢の跡
晩秋の米沢。今回は上杉鷹山を意識して訪問しました。

<上杉鷹山>
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[米沢市丸の内]
米沢城の本丸跡。鷹山の銅像です。

<晩秋の城内>
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訪問は11月下旬。冬まじかの米沢城(松が岬公園)です。

<謙信公>
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越後の龍・上杉謙信。米沢上杉家の藩祖として崇められています。

上杉鷹山(うえすぎようざん)
名前はとても有名ですね。あと「なせば成る・・・」の名言も。簡潔に言えば、江戸時代の改革者。上杉家の養子となり、破産寸前の米沢藩を再建した藩主です。

■若き藩主■
鷹山は1751年生まれ。日向高鍋藩主の次男で、10歳で米沢藩主・上杉重定の娘(幸姫)の婿養子となっています。つまり、まだ少年のうちから藩主となることを期待されていたわけですね。その後、生涯の師となる細井平洲(ほそいへいしゅう)に学び、17歳の若さで家督を相続しました。

それにしても、日向といったら現在の宮崎県(と一部鹿児島)ですよね。米沢の上杉と、ちょっとつながり難いのですが・・・。

鷹山は、米沢藩の4代藩主となった上杉綱憲の遠縁にあたります。ですから、養子といっても全く無関係という訳ではありませんでした。早くから選ばれ、英才教育を受けた鷹山。ここからはちょっと個人的な意見ですが、資質や教育もさることながら、「よそから来た者」だからこそ、なおさら改革を成し得た。そう感じています。生え抜きで優秀な当主はいくらでもいますが、家老の立場が強い当時の上杉家には、新鮮な血が必要だった。前藩主の上杉重定も、それが分かっていたからこそ、敢えて養子を迎えたのだと思います(繰り返しますが個人的意見が入っています)。

■率先垂範の改革者■
財政難といっても、格式高い名門家。慣習を変えることは容易ではありません。鷹山はまず自分から手本を示しました。例えば、藩主の仕切料(衣装代から食べ物、その他藩主たる者に関わる生活費)を1500両から一気に200両弱に減らしました。
「名門上杉の当主が、情けない…」
古き家臣団が嘆きそうですね。きっと嫌味のひとつも出たでしょう。鷹山は更に、奥女中を五十人から九人に減らしました。一度贅沢をしていたら、なかなか思い切れないコストカット。若い鷹山の強みだったかもしれません。
質素な食事として良く耳にする「一汁一菜」という言葉。鷹山はパフォーマンスではなく、これを徹底しました。着るものは木綿のみ。率先垂範により、家臣団にもそれまで許されてきた贅沢や無駄をなくすことを求めました。

人の意識を変えるために、まずは自分から。本物のリーダーです。


■破産寸前■貧乏上杉?
●藩が破産寸前とは?
これは借金が返せず、新たな借金もできず、もはややっていけないので、領地を幕府に返上せざるを得ない寸前という感じになります。つまり権利も放棄して自己破産ということですね。これが真剣に議論されるレベルにまで達していました。

●名門上杉が何で?
上杉家の石高のピークは、謙信の後を継いだ景勝の時です。豊臣秀吉の命により、越後を離れるとは言え、会津120万石を得ました。更に佐渡金山も。これは凄い財力です。しかし秀吉の没後,徳川家康と対立関係になった上杉家。関が原の戦後処理で、米沢30万石に減封されました。

普通はここで家臣団を減らさなくてはなりませんが、上杉景勝はそれをしませんでした。120万石の時の家臣団をそのまま抱えて米沢へ。重臣・直江兼続の徹底したコスト削減。そして積極的な経済政策の実施。治水と新田開発に力を入れた結果、表向き30万石の米沢藩は、実質で50万石を超えたとされています。めでたしめでたし。

<上杉景勝と直江兼続>
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ここまでの話の参考記事
→『米沢藩の礎 景勝と兼続
よろしければ覗いてみて下さい。

ところが「めでたし」で終わらないところに、後世に語り継がれる上杉苦難の歴史があります。

3代藩主上杉綱勝が急死。跡継ぎを決めないまま亡くなったことから、上杉家はお取り潰しの危機にさらされます。

(初)景勝⇒(2)定勝⇒(3)綱勝⇒×

養子を迎えて難を逃れたものの、米沢藩はこの不始末からら15万石に減封されてしまいます。120万が30万になり、ギリギリで立て直したのに15万・・・ということです。

更に、養子に入ったのは吉良上野介義央の息子。手を打てないどころか、実家である吉良家の支出を上杉家で肩代わりするなどして、財政はますます悪化します。藩主の座はそのまま血縁で相続され続けますが、藩政は放漫としか評価できないものでした。
(4)綱憲⇒(5)吉憲⇒(6)宗憲⇒(7)宗房⇒(8)重定

米沢藩はもう破産寸前。この状況で現れたのが鷹山でした。
⇒(9)上杉治憲(のちの鷹山)です。

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■いばらの道■
改革といっても、すぐに何でも新しくなる訳ではありません。産業に明るい竹俣当綱(たけのまたまさつな)、財政の莅戸善政(のぞきよしまさ)といったブレインもいるものの少数派。更に、彼らの身分はそんなに高い訳ではありません。
鷹山の改革を快く思わない者(とくに老臣)たちの妨害や、反乱(七家騒動:改革反対派の7重臣が藩主の罷免を迫る事件)もありました。これらを乗り越えた鷹山は、改革がひと段落したところで隠居(1785年・35歳)。前当主であり養父である重定の実子・治広に家督を譲ります。この時、君主としての心得を記した「伝国の辞」を治広に託しました。

【伝国の辞】
・国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候
・人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候
・国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候

<餐霞館遺跡>さんかかん
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[米沢市城南]
鷹山が隠居後に住んだ邸宅跡。場所は米沢城跡からすぐです。

35歳で藩主の座を譲った鷹山ですが、後任の治広、そしてそのまた次の代の藩主・斉定も鷹山を頼ったことから、隠居の身となったあとも改革への取り組みは続きました。名を治憲から鷹山としたのは52歳。つまり隠居後ということですね。白鷹山(しらたかやま)にちなんで鷹山と号したと伝わります。

幼き頃の教育も含めると、藩を救うことに生涯を捧げた。そう思えますね。72歳で亡くなるまで、藩政を指導し続けたそうです。

<石碑>
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なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり

■参考にした文献■
小説 上杉鷹山(集英社文庫)
著者:童門冬二



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2017年12月18日

米沢藩上杉家跡 鷹山ゆかりの地@ 

つわものどもが夢の跡
上杉家の劇的ドラマの舞台である米沢藩上杉家の江戸屋敷跡を訪ねました。

城跡じゃない?
はい。
今回は上杉ファンが「ゆかりの地」を訪ねたというお話です。越後でも米沢でもなく東京都内。何かのついでにふと思い出して、立ち寄ってもらえたら嬉しいです。

■現地訪問■
<記念碑>
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[東京都千代田区霞が関]
屋敷らしい痕跡はなく、このモニュメントだけ。場所は法務省の敷地内です。どこだろうと思って歩いていたら、植え込みの中から突然現れました。私はウロウロと迷って多少時間を要しましたが、有楽町線桜田門駅から歩いて数分で来られる場所です。

仕事が東京の方でも、あまり馴染みのないエリアですよね。警視庁もすぐそば。この付近、テレビでは良く見かけますが、ゆっくりと散歩するのは初めてかもしれません。近くの「桜田門」までなら何度か来てるはずですがね(城跡として)。そこから道を渡って、わざわざこっちまで来ることはありませんでした。

<法務省の旧館>
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法務省の旧館赤レンガ。こんなに近づいて見たのは初めてです。立派ですね。

<上杉家の家紋>
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ここは東京のどまん中。なんとなく感慨深いものがあります。

よく「藩邸」という言葉が使われますが、厳密には「藩」ではなく「家」に対して敷地が与えられたようです。つまりこの場所も、米沢藩にではなく、上杉家に与えられた敷地ということですね。

■上杉家上屋敷■
こんなブログをやっているわりに、江戸の歴史にあまり詳しくありません。ただし上杉ファンの端くれです。江戸時代の上杉家上屋敷と聞くと。2つの出来事を思い出します。ひとつは『赤穂事件』、そして『上杉鷹山の改革』ですね。この二つ、時期は異なるものの繋がりがあります。


■赤穂事件と上杉家■ 忠臣蔵
元赤穂藩士47人が、主君の仇討ちのために高家旗本の吉良家を襲撃した事件。有名なお話ですね。討たれる側の吉良上野介、この実子(長男)が米沢藩4代当主上杉綱憲です。3代藩主が後継者を定めないまま急死し、上杉家はお取り潰しの危機に。吉良家から養子を迎えることでなんとか存続しました。ただし、30万石の所領は15万石に半減。ペナルティですね。そして綱憲の舵取りにより、藩の財政はますます悪化したと伝わります。

さて、その上杉綱憲にしてみれば、実家が浪人たちに襲撃されている訳です。兵を率いて屋敷を飛び出し、吉良邸まで助けに行きたいところですね。しかし、もうそれができる立場ではありません。映画やラマなどでは、まだ若い藩主を家老が必死に止めに入るなど、この屋敷でのやりとりがちょっとした見せ場となっています。これと別に、幕府の命令で止められたという話もありますね。まぁ史実はわかりません。とにかく、赤穂浪士の討ち入りについては、藩主の個人的な思いは別として、藩そのものが巻き込まれることを誰も良しとは思わなかった。上杉家の屋敷内は、そういう雰囲気だったようです。

■鷹山の改革■
上記のような経緯で、米沢藩15万石の財政は最悪。この破産寸前の藩で改革を成功させたのが、9代藩主の上杉治憲(はるのり)。のちの鷹山です。
先述の綱憲同様、鷹山も名門家に養子で入った人物。その改革は、米沢本国に入る以前、つまりここ江戸屋敷で始まりました。財政そのものの以前に、まず人の心を変えなくてはならない。当主となった鷹山は、名門の家臣団ならではの「意識の壁」に立ち向かいました。鷹山の改革を補佐する竹俣当綱(たけのまたまさつな)や莅戸善政(のぞきよしまさ)とは、ここ江戸屋敷で出会っています。

上杉鷹山を題材にした書籍はたくさんあります。私が一番感動した作品は童門冬二さんの小説『上杉鷹山』。この本との出会いは、自分の会社員人生にも大きく影響したと思っています。特に前半は涙なくして読めませんでした(今よりずっと若い私としては)。今回この地を訪問したのも、むかし感動した本のことを思い出し、改めて鷹山と向き合いたいと思ったからです。

童門冬二さんの小説から言葉を頂くなら、『火種』をもらいに来た。そんな感じですかね。

ということで、米沢藩上杉家跡のご紹介でした。最後までお読み頂き、ありがとうございます。

■参考にした文献■
小説 上杉鷹山(集英社文庫)
著者:童門冬二



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