<太田氏資像>うじすけ
[撮影:芳林寺]
岩槻城主だった太田氏資の像です。あの有名な太田道灌の流れをくむ岩槻太田家の戦国武将です。諸説ありますが、岩槻太田家は道灌の甥で養子となった太田資家(すけいえ)から始まります。そのひ孫が氏資です。
■太田資正の嫡男■すけまさ
氏資は岩槻太田家の太田資正の嫡男としてこの世に生を受けました(1542年)。父・資正は武蔵で活動した勇猛果敢な武将で、当時関東で勢力を拡大していた小田原の北条家に抵抗し続けた男です。私見になりますが、その粘り強い抵抗ぶりから『反骨の戦国武将』というイメージです。氏資本人も武勇に優れた武将ではありましたが、北条に与する道を選び、悲劇の結末をむかえることになります。
■反北条の父と北条の嫁■
当時の小田原北条家の当主は3代目氏康です。上杉謙信や武田信玄と関東での覇権争いをしたつわものですね。北条氏康は娘を氏資に嫁がせて、岩槻太田家との関係強化を図ります。これに対し、岩槻城主であり太田家当主の資正は、様子をみながらも北条の息のかかった家臣を追い出すなど、反旗を翻さないまでも一定の緊張を保っていました。そして1560年、上杉謙信(当時は長尾景虎)が関東に兵を進めるとこれに呼応し、ついに反北条の態度を明確します。
さて、氏資の嫁は北条氏康の娘です。この時代の政略結婚にはありがちな事ですが、妻の実家と自分の家が争うという事態となってしまいました。義父が北条氏康なら次の当主となる北条氏政や氏照・氏邦といった大物が義兄弟。これはちょっと困りますね。更に氏資の見立てでは、現れては消えてしまう越後の上杉謙信より、小田原を拠点とする北条家と繋がっている方が、関東で生き残る道として有利と思えたのかもしれません(私の勝手な想像です)。いずれにせよ、氏資と父・資正の関係は険悪になっていきます。
こいつではダメだ
資正はそう思ったのでしょう。家督を次男(養子となって梶原家を継いだ梶原政景)に継がせようと考えたようです。氏資はこれを知り、一時出家してしまいました。
■父と弟を追い出す■
氏資にとっての転機は、父・資正の戦での敗北といっていいでしょう。1564年の第二次国府台合戦(北条vs里見[上杉と同盟関係])において、父である資正が里見氏と共に敗退します。資正は落ち延びますが、この太田家の混乱期に出家したはずの氏資は密かに還俗。北条氏康と謀って父と弟を岩槻城から追放し、家督を継いでしまいます。氏資が北条家の家臣となったことで、北条氏康は武蔵の大半を平定するに至りました。
氏資の元の名は資房。北条氏康から氏の一字を与えられて改名しました
■殿■しんがり
小田原北条家の配下となった太田氏資は、1567年の三船山の戦い(北条vs里見)において、激しい戦闘の末に敗走せざるをえなかった北条軍の殿を務めます。殿、つまり退却する軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ役目であり、最も危険な仕事ですね。北条軍を敗走させるのですから、この時の里見軍は勢いがありました。
岩槻城主・太田氏資
この戦いで討ち死にとなりました
まだ25歳という若さです
太田氏資の殿は自ら志願したものと言われています。諸説ありますが、父であり当主である太田資正を追放して北条の家臣となっていることから、『裏切者』といったレッテルが付きまとい、氏資はこれを払拭すべく殿を願い出たとされています。北条家の家臣団において、そこまで負い目を感じる立場に追い込まれていたのでしょうか。また、一説によれば氏資は、このとき岩槻城主に相応しいだけの兵を率いていなかったとされています。氏資はこの合戦のために岩槻城を出たわけではなく、別な理由で小田原城に滞在している時に戦が始まってしまったのです。僅かな手勢のまま参戦し、行った先で討ち死に。氏資の死後、岩槻城に北条家の身内が入ることを考えると、いろいろと想像せざるを得ません。
■芳林寺にて■ほうりんじ
<山門>
<道灌と氏資に関する説明>
<太田道灌像>
<太田氏資像>
最後に
氏資の妻・長林院は、氏資との間に授かった娘とともに江戸に移り住みます。しばらくの時を経て岩槻城に北条氏政の四男・氏房が入城する際、岩槻太田氏の血を引く娘は氏房の妻となり、長林院も再び岩槻へ戻りました。
氏資の父・太田資正は、1590年の豊臣秀吉による北条征伐の際、小田原に参陣しています。つまり、息子が寝返り、命まで捧げた関東覇者が滅ぶ様子を見届けていたわけですね。その翌年亡くなりました。
■訪問:芳林寺
[埼玉県さいたま市岩槻区本町] 1-7-10
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芳林寺については太田道灌ゆかりの寺として別途投稿しています。よかったら覗いてみて下さい。
■投稿:2018年01月06日
■タイトル:道灌ゆかりの寺 芳林寺
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タグ:埼玉