岩槻城を探索した帰り道、太田道灌ゆかりの寺を訪問しました。
<道灌の騎馬像>
境内の銅像。塀の外からも良く見えます。
■ 芳林寺 ■ほうりんじ
曹洞宗の寺で山号は大平山
<山門>
くぐった先にもう一つ門があります。
<つぎの門>
最寄駅は岩槻駅。駅から徒歩5分程度です。曹洞宗の寺で山号は大平山。太田氏の菩提寺です。
<太田道灌像>
そして入口の右手が冒頭の道灌の騎馬像。立派です。
<説明板>
岩槻城・太田道灌・芳林寺に関する説明
説明によれば、1486年に伊勢原にあった主君・上杉定正の館で暗殺された太田道灌の遺骨は、現在の埼玉県越生町の龍穏寺と芳林寺に分けられて丁重に葬られたとのこと。そして太田資正(すけまさ)が自らの城、つまり岩槻城の近くへ寺を移したようです。
では境内へ
<別の道灌像>
こちらにも太田道灌のお姿が。鷹狩りの時の出で立ちでしょうか…
数々の武功、そして逸話。江戸城を築城した人物としても名高いですね。そして悲運の最期。目覚しい活躍で扇谷上杉家の勢力拡大に貢献しながら、逆に警戒され、主君の館で暗殺されました。上の説明板にも記載がありましたが、父である太田道真と養子の資家(すけいえ)が伊勢原(神奈川県)へ出向き、遺骨を引き取ったようです。
<太田氏資像>うじすけ
岩槻城主だった氏資の像。この方は城主である父資正と対立して一時出家しています。小田原の北条氏に抵抗する父、従うべきと考える息子。そういう構図ですね。やがて家臣の協力を得て反北条の父を追放。自らが岩槻城主となりました。
父親同様に武勇に優れた武将でしたが、それが裏目に出たのでしょうか?小田原北条氏に従って里見氏との戦いへ出陣。大敗の北条軍の殿(しんがり)を任されて戦死してしまいました。まだ25歳。岩槻太田家は北条氏政の子により継承・・・。
個人的な見解になりますが、なんか全体として北条氏にとって都合の良いストーリーとなることが気になります。
次に本堂の左側。こちらが墓地になります。
<案内板>
歴代住職墓所・太田家墓所とともに、高力正長(こうりきまさなが)の名も。正長…?
高力氏といえば徳川家康の家臣ですね。ちょっと正長についてピンとこなかったのですが、あとから調べたら、清長の息子。家康からここ岩槻の藩主(岩槻城主)を任された高力清長の長男です。正長も合戦などで活躍したようですが、残念ながら父・清長より先にこの世を去りました。正長の息子が第2代岩槻藩主となったようです。道灌より相当あとの時代のお話ですが念のため。
<道灌・氏資霊廟付近>
当ブログ、墓石そのものの撮影は最小限にしたいので、周囲を加工した結果こんな画像となりました。申し訳ありません。ただ雰囲気は伝わると思います。
戦国の世を駆け抜けた太田道灌。ここ岩槻の城の築城者と伝わります。これには諸説ありますが、まぁいずれにせよ岩槻と道灌は浅からぬ関係。岩槻城跡を探索し、その帰りに太田道灌ゆかりの寺を訪ねた。この日はそういう一日でした。
■つわものどもが夢の跡■
<道灌の家紋>
丸に細桔梗。太田道灌が使用した家紋です。
■訪問: 太平山 芳林寺
[埼玉県さいたま市岩槻区本町]
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