囲いの中には信康の首塚があります。
ここは愛知県岡崎市。信康が祀られた若宮八幡神社です。
■家康長男の切腹■
1579年、岡崎城主となっていた信康は、織田信長より武田内通の疑いをかけられ、切腹させられることになりました。まだ21歳です。家康の長男であり、信長の娘を嫁とし、将来を嘱望された武将だったはずなのですが・・・
この背景については諸説あります。専門の方々の研究結果ですので、それぞれ納得してしまいます。ただそれらの中で、私個人は「織田信長が将来を見据えて潰した」という説に重みを感じています。信康については、乱暴者であったという話もありますが、賢明にして勇猛果敢であったという話もあります。どちらかといえば後者を信じたいですね。そして、家康としても不本意であったと思いたいです。徳川と織田が同盟関係といっても、並列の関係ではありません。信長には逆らえなかった。そういうイメージが拭いきれません。
介錯役を命じられたのは服部半蔵でした。しかし、鬼と呼ばれた男もこれを果たすことはできず、検死役が代わって介錯したそうです。
我れ天道に逆らって父に謀反し勝頼に一味するという汚名こそ死出の防げぞ。このことだけは父上によく聞こえ上げてくれよ
そう言い残し、信康はこの世を去りました。天道に逆うようなことはしていない。父にそれだけは分かって欲しい。まだ若く血気盛んな若武者です。無念だったことでしょう。
信康の遺体は切腹した城(二俣城)近くに葬られ、首級は織田信長の首実検を経てから、岡崎に戻されたそうです。一旦は別の場所(根石原観音堂)に葬られましたが、のちに今回訪問の若宮八幡宮へ移されました。
<若宮八幡宮>
若宮八幡宮は、岡崎城代となっていた石川数正が、信康の霊を祀った神社です。石川数正は家康屈指の家臣であると同時に、信康の後見人でした。城主となったとはいえまだ若い信康に代わって政務を取り仕切りながら、信康がいつか徳川家の当主となるよう支援してきました。数正は人間味溢れる三河家臣団にあってはあまり感情を表に出さない男だったそうです。信康がいなくなった城を城代として守りながら、どんな思いで過ごしたのでしょうか。
社殿の右横が信康の首塚です。訪問する前のイメージより質素な感じがしました
Wikiさんから引用させて頂くと
『1945年(昭和20年)7月20日の岡崎空襲により、土蔵を残して全焼。社殿は再建されたが旧観はない』とのこと。そうですか。むかしはどんな感じだったのでしょう。
ただ、創建当時の雰囲気が失われても、石川数正の思いが、ここに引き継がれていることに変わりありません。そう受け止め、現地をあとにしました。
当主となり、将軍になるはずだった戦国武将の首塚です。中も撮影できますが、遠慮させて頂きました。
徳川家康の父である松平広忠と同じく、信康は岡崎三郎と名乗りました。跡取りに相応しい名前ですね。
■訪問:若宮八幡宮
[愛知県岡崎市朝日町]
■参考及び抜粋した資料
[Wikipedia2020/12/1]
---------(追 記)---------
文中に登場してもらった服部半蔵は、晩年信康の菩提をとむらうため西念と号し、仏門に帰依したと伝わります。これについては別途投稿していますので、良かったら覗いてみて下さい。
■投稿:2017年08月18日
■タイトル:半蔵の眠る丘(西念寺)
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