■大樹寺■だいじゅじ
<山門>
愛知県岡崎市の大樹寺です。さすがに凄いですね。徳川家康生誕地の地である岡崎城から北へ約3km。松平家4代当主の親忠(ちかただ)が、戦死者供養のため創建(1475年)したことに始まります。この重みのある山門は、三代将軍の家光が家康の十七回忌を機に建立したと伝わります。
<低地から撮影>
私は愛知環状鉄道の大門駅から徒歩で現地へ向かいました。柿田川に架かる橋の手前から境内の多宝塔を撮影。川を挟んだ丘。大樹寺はまるで砦のような場所に位置しています。
<丘の上>
この高台からは岡崎城を望むことができます。同じく、岡崎城の天守からも松平家の菩提寺である大樹寺を眺めることができます。徳川家光は、大樹寺に大掛かりな造営を施すにあたり、本堂から山門を通して城が望めるように建物を配置しました。その景観を守るため、いまでも城と寺の直線上に高層建築物を建てることは許されていないそうです。
<多宝塔>
坂の下から見えていた多宝塔
<多宝塔説明板>
重要文化財です。松平家といえども順風満帆ではなく、運命を共にする寺にも衰退期はありました。しかし7代当主の清康により再興され、多宝塔はその頃に建立されたとされています(1535年)。
<鐘楼>しょうろう
<手水舎>ちょうずや
そして
<本堂>
本尊の阿弥陀如来は平安末期の作られたものだそうです。そして、家康の遺言により歴代将軍の位牌が安置されています。位牌といっても等身大サイズで、かなり大きいものです。
■三河松平家墓所■
イメージしやすい言葉として『三河松平家』と言ってしまいますが、実際には分家がたくさんあります。家康のご先祖様は安祥松平家。その歴代当主の8人のお墓が大樹寺にあります。
<松平八大墓>まつだいらはちだいぼ
個別のお墓は撮影を遠慮して入口を撮影
<説明板>
始祖とされている松平親氏から始まり、八代当主の広忠までがこの地で眠っています。広忠は岡崎三郎を名乗った家康の父です。
■若き日の家康の逸話■
徳川家康はもともと今川家配下の武将(当時の名は松平元康)。今川義元が桶狭間の戦いで織田信長と激突した際は、今川軍に属していました。この2万5千の大軍は、僅か3千(〜5千)の織田軍の奇襲により総大将の義元が討ち取られ、総崩れとなります。どの時点かはっきりしませんが、今川軍を離反する行動に出た家康は、身の危険に晒されながら今川家の支配下となっていた故郷・岡崎に逃れます。何とかこの寺に逃げ込んだものの、周囲を取り囲まれ、先祖の墓前で死ぬことまで覚悟しました。
しかし当時19歳の家康(元康)に、住職が仏の教えを説いて諭したとされています。十三代住職である登誉上人住職が家康に贈った言葉が
厭離穢土 欣求浄土
おんりえど ごんぐじょうど
苦悩の多い穢れた世を厭(いと)い
離れたいと願い
心から欣(よろこ)んで
平和な極楽浄土を冀(こいねが)う
戦乱の世を住み良い浄土にすることを己に課した瞬間とも言えますね。切腹を思いとどまった家康は、寺の僧とともに敵を退散させ、今川軍の去った岡崎城にたどりついたとされています。徳川家(松平家)が今川から独立した瞬間です。
家康はこの時の住職の教えを生涯の宝としました。その後も幾度となく窮地に追い込まれますが、何とか生き延びています。大樹寺で再起を誓った若き日の思いは、その後の波乱万丈の人生の糧となったわけですね。
<つわものどもが夢の跡>
大樹は征夷大将軍を意味しています
■訪問:大樹寺
(成道山松安院大樹寺)
[愛知県岡崎市鴨田町]
※厭離穢土欣求浄土について今回もWikiさんのお世話になりました
[参考:Wikipedia2020/12/6]
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