<秩父神社>
JR秩父駅からは徒歩圏内。宝登山神社、三峯神社とならび秩父三社のひとつです。
創建は紀元前と伝わる秩父神社。こんな関東屈指の歴史を誇る神社を、拙ブログでご紹介なんてとんでもないのですが、現存する社殿が徳川家康寄進ということで、その部分だけ触れさせて頂きます。
■家康により再建された社殿■
家康の時代の社殿が現役で活躍している。これだけでも凄いことですよね。勿論、たいへんなメンテナンスを施しているのでしょう(1970年には解体復元)。当時の建築様式を留めていることから、埼玉県の有形文化財に指定されています。
<社殿正面>
<社殿の彫刻>
当時の名工・左甚五郎(ひだりじんごろう)により施された豪華な彫刻が目をひきます。日光東照宮の眠り猫も甚五郎によるもの。ちなみに、名の由来は左利きであったためともいわれています。
戦国末期、秩父は小田原北条氏の支配下でした。実質的には鉢形城を拠点とする北条氏配下ですかね。しかし豊臣秀吉により北条氏が滅ぼされると(1590年)、関東に入った徳川家康の支配下となります。そして1592年、徳川家康は社領57石を秩父神社に寄進し、代官・成瀬吉右衛門に社殿を建造させました。
■成瀬正一■ なるせまさかず
家康の命を受けて秩父神社の本殿再建を行った成瀬正一、通称・吉右衛門は、古くから徳川に仕える三河武士。出奔して武田氏に仕えたこともありますが、再び徳川に戻り、数々の有名な合戦で活躍しています。
家康が武田軍に完敗した三方ヶ原の戦いにも参加。この時、兄である成瀬正義は家康本陣を守り、武田軍屈指の武将・馬場信春が迫ると正一に家康の警護を託し、自らは主が逃げる時間を稼ぐために討死。正一は浜松まで逃げ帰る家康に同行し、のちに成瀬の家督を継ぐことになりました。
武田勝頼に奪われた高天神城を家康が奪回した戦(1580年)においては、正一は日下部定好と共に各砦の包囲網強化で勝利に大きく貢献。また、武田滅亡後の信長の『武田狩り』に対しては、旧武田家臣を匿い、のちには家康に働きかけて徳川氏への取り込みを図っています。更には、徳川の軍法を知り尽くした家康の側近中の側近である石川数正が豊臣秀吉の元へ出奔すると、正一には武田式の軍法を取り入れる大きな役割が回ってきます。かなり省略しましたが、いかに家康から信頼されたかご理解頂けるかと思います。
やがて鉢形城の代官になった成瀬正一は、家康から秩父神社の本殿再建を命じられます。その時に完成したのが、現存する秩父神社の本殿。代官・成瀬正一のなごりです。
ちなみに、一般には正一の長男・正成の方が有名かもしれません。鉄砲隊を率いて活躍し、家康に認められ、やがては犬山城主となります。そう、明治どころか平成まで城主だった(城を私有していたという意味)成瀬氏の祖となった人物です。今回ご紹介の成瀬正一は、息子らが家康から充分過ぎるほど認められていることを理由に、敢えて大名にはならなかったと言われています。
以上です。
見どころ沢山の秩父神社で、家康とその家臣・成瀬正一のことを思い出してくれたら嬉しいです。
■訪問:秩父神社
[埼玉県秩父市番場町]1-1
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