源義経の正室となり、この世を去るその時まで付き添った姫様の話です。
<供養塔>
埼玉県川越市の常楽寺で撮影しました。地元豪族の
河越重頼、
源義経、そして
郷御前の供養塔です。
■ 郷御前 ■ さとごぜん郷御前は武蔵国有数の勢力を誇った豪族の娘。父である河越重頼は、源頼朝と当初は敵対したものの、のちに同じ秩父一族の畠山重忠らとともに頼朝の傘下に入り、以降は御家人として重く用いられました。母は、源頼朝の乳母である比企尼(ひきのあま)の次女(
河越尼)。比企尼は頼朝が伊豆国に流罪となっている間、仕送りなどで長きに渡って頼朝を支援し続けた人物。いわば頼朝の不遇時代の恩人です。河越重頼の武蔵国での実力に加えて、その娘が妻となっているわけですから、河越氏は頼朝も一目置く豪族であり、重要な御家人でした。その頼朝の命により、郷御前は義経に嫁ぐこととなり、故郷である河越の地を離れ京へ向かいました(1184年)。このため
京姫とも呼ばれいます。
<常楽寺>
じょうらくじ供養塔があるこのお寺そのものが、河越氏館跡の一画に建てられています。この地が郷御前の故郷であり、義経へ嫁ぐ時もこの地から京へ旅立ったと思われます。
■ 頼朝・義経の確執 ■ 源頼朝の鎌倉幕府樹立に、弟の義経が武功で貢献したことは言うまでもありません。その後の確執については、頼朝の弟に対する妬みや恐れ、統制が効かない煩わしさ、他の御家人への配慮など、いろいろと語られていますね。いずれにせよ、義経が朝廷からの官位を勝手に受けてしまったことが、兄弟の亀裂を決定的にしてしまったようです。
私見になりますが、義経は頼朝が抱える複雑な事情への配慮は欠けるものの、あくまで純真な武士であり、兄に対抗するつもりなどなく、むしろ認めてもらいたかったのではないでしょうか。兄弟の心のすれ違いは、そのまま危機となって郷御前に迫っていました。
■ 奥州平泉へ ■ 郷御前が嫁いだ翌年、夫である義経は鎌倉に凱旋しようとするものの頼朝に拒まれ京に戻ります。更に、義経は頼朝の命を受けた追手に襲撃され、返り討ちにするものの、もはや京にはいられなくなります。同じ頃、郷御前の父である河越重頼は、義経の義父であることを理由に領地を没収され、嫡男である重房共々殺されてしまいました。
武勇に優れた夫武蔵国屈指の豪族である父それが、なんでこうなりますかね。その後も頼朝に追われ続けた義経は、最終的に奥州平泉の藤原秀衡を頼りました。この時、義経は郷御前に故郷の河越へ戻るよう命じたようです。しかし、郷御前は義経の後を追って奥州平泉へ向かいました。
■ 義経・郷御前の最期 ■ 奥州藤原氏に匿われた義経と郷御前の間には娘が生まれ、三人はしばらく平穏の日々をおくりました。しかし義経を迎え入れた藤原秀衡が亡くなる(1187年)と、状況が少しずつ変わっていきます。秀衡の後を継いだ泰衡も、当初は義経を匿い続けましたが、頼朝の圧力はますます強まり、これに逆らい続けることはできませんでした。
泰衡は父秀衡の遺言を破り、義経の館を攻めます(1189年)。取り囲まれた義経は、これに抗うこともなく持仏堂に入り、郷御前と娘を殺し、自害して果てました。源義経31歳、郷御前22歳、娘はまだ4歳でした。
■ 武士の娘 ■ 義経が愛した女性といえば、まず静御前が思い浮かびますよね。伝わる話はとても切なく、語り継がれるだけのことはあります。ただ、最後の最後まで義経から離れることがなかった女性は郷御前だけです。正室というだけでなく、河越氏という関東屈指の武士の家で育ったことが、結末に深く影響しているように思えます。静御前が当時のプロの芸人であったように、郷御前は生粋の武士の娘だった。ともに悲劇のヒロインのようにな結末となってしまいましたが、それぞれの生き方で後世の人に慕われ、愛され、語り継がれるのだと思います。
ということで
河越重頼の娘であり、源義経の正室であった郷御前のご紹介でした。今回もまた個人的な想像が入ってしまっていますが、素人会社員のブログですので、その程度に受けて止めて頂きますようお願い致します。
<供養塔と石碑>
郷御前のお墓は平泉にあります。生まれ育った場所に、供養塔が建てられました。
■訪問:常楽寺[埼玉県川越市上戸]194
■参考及び出典
・Wikipedia:2021/9/26
・現地説明(碑文) -----------(追 記)-----------<河越氏館跡>
こちらは現在の河越氏館跡です。手前は説明板、右手の建物は供養塔のある常楽寺です。河越重頼の死後、源頼朝は没収した河越氏本領を妻である河越尼に安堵しています。弟である義経との確執はともかく、河越氏に対してはちょっとやり過ぎたという後悔があったのでしょう。
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