<潮田橋>うしおだばし
久しぶりの訪問です。どう見ても普通の橋。いや、むしろ地味ですね。初めて訪問した時は何も気付かず通り過ぎてしまいました。
<水路>
橋はこちらの水路に架かっています。ただの水路ではありませんよ。これは江戸時代の治水工事のなごりなのです。
<説明板>
橋の近くに説明板があります。私が下手な説明をするより、こちらをご紹介する方が得策です。ちょっとカラスの糞にやられていますが、読むのに影響はありません。
まずは水路の説明ですね。抜粋させて頂くと『見沼代用水西縁は、江戸時代半ばに8代将軍徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛が、享保13年(1728年)に利根川の水を現在の行田市下中条から引いてつくった農業用水です。』とあります。もう少し説明は続きますが、要するに昨日今日の水路ではないということです。
さて本題に
『「潮田橋」は戦国時代の終わり頃、当地にあった寿能城の城主・潮田出羽守資忠の名に因んで付けられたと思われます』とのこと。はっきりはしてない様子ですが、因んでいることは確かなようですね。
<橋と城跡>
橋と城跡の位置関係です。橋のすぐそばの微高地に、かつての城跡があります。
<寿能城跡>じゅのうじょう
こちらが説明板の地図にあった寿能城跡です。もはやただの公園です。寿能城そのものはもっと広い城でした。ここかつての城の一部に過ぎません。
<資忠の墓碑>
城跡の象徴的な存在となっている潮田資忠(うしおだすけただ)の墓碑です。資忠の子孫(古河藩家老・潮田資方)が、資忠没後150年に建立しました。
寿能城については、当ブログで過去にご紹介させて頂いております。今回は先ほどの説明文の続きをご紹介させて頂きます。
『寿能城は、永禄3年(1560)に岩槻城の支城として築城されましたが、天正18年(1590)に小田原城攻めの豊臣秀吉の軍勢に攻められ落城しました』とのこと。
潮田資忠は城主というだけでなく、寿能城の築城者でもあります。岩槻城の支城として役割を担いますが、豊臣秀吉による小田原征伐の際、岩槻城は北条氏配下であったことから、豊臣軍の攻撃対象となってしまい、支城である寿能城も大軍により攻め落とされました。少し補足すると、城主である資忠本人は、嫡男とともに小田原城に駆けつけ、籠城戦に加わって討死となっています。潮田家は資忠の次男が継いでいます。
<潮田>
天下人の大軍に立ち向かった関東武士の名ということですね
ということで
潮田橋のご紹介でした。ありきたりの景色も、意味を知ると素通りできなくなりますね。
■訪問:潮田橋
[さいたま市大宮区寿能]2丁目
■参考及び出典
現地説明板(さいたま市)
お城巡りランキング
------------(追 記)------------
当ブログ過去記事
■投稿:2018年01月17
■タイトル:消えた見沼の浮き城 寿能城
→『記事へすすむ』
■投稿:2018年08月01日
■タイトル:寿能城主・潮田資忠の末裔
→『記事へすすむ』
タグ:埼玉