今回は三鷹市の川沿いの丘に残る城のなごりの話です。
<天神山城>てんじんやまじょう
こちらです。斜面を下った先には川が流れています。城に関する詳細は不明ですが、深大寺城の支城として築かれたとする説、小田原北条氏が築いたとする説などがあります。
<仙川>せんかわ
こちらは城跡の麓をかすめるように流れる仙川。今でこそ護岸をコンクリで固められ、まるで人工の水路のようですが、古くからあった自然の川です。
<仙川と天神山城跡>
仙川を挟んで撮影するとこんな感じです。川が奥でカーブしているとこ、伝わりますでしょうか。
<地図>
こちらの地図で見れば一目瞭然ですね。現在位置(新川天神山青少年広場)が城跡。川は地形に合わせて蛇行し、城は川に向かって突き出た丘陵に築かれました。
<公園入口>
天神山は公園として整備されています。先ほどの地図はここで撮影したものです。
<土塁>
これは土塁跡とみなしてよさそうですね。向こう側(右手奥)は逆に掘り下げられたような跡がありました。
<曲輪>
ここ全体がひとつの曲輪と思われます。ただ、エリアによって微妙な高低差があるので、もともとは複数の曲輪が設けられていたものの、のちの時代に平らにされてしまったのか?などなど、勝手に想像して楽しみました。
<堀切?>
再び仙川を挟んだ画像です。白い塀が見えているお隣(左手)との間は丘が窪んでいます。人の手で削られたのかもしれません。堀切でしょうか?あそこが城の端だと仮定して、小規模な単郭式の砦だったのだろうとか、あるいは城跡らしきところは主郭に過ぎないとか、勝手に想像するのも楽しみ方のひとつです。
さて
冒頭にも触れさせて頂きましたが、あくまで天神山城の詳細は不明です。ただ深大寺城の支城あるいは小田原北条氏の築城だとすれば、時期的には1537年頃と推定するのが妥当ではないでしょうか。というのも、河越(川越)を拠点とする扇谷上杉氏が、小田原の北条氏の進軍に備えるべく、配下の難波田広宗に深大寺城を整備させたのがだいたいその頃。この時、攻め手の北条氏綱は直接深大寺城を攻撃することなく、けん制しながら通り過ぎてしまいました。いわばスルーした訳ですね。この「けん制」のために築いた陣城が今回訪問の天神山城だとしたら、やはり築城は同じ頃ということになりますね。
当時の北条氏は、早雲(伊勢盛時)の後を継いだ氏綱が、相模から関東全体へ勢力を拡大していた時期です。深大寺城を通過した氏綱は、そのまま北上して河越城を見事攻め落としました。これが1537年の出来事です。これにより、既に陰りの見えていた扇谷上杉家は、更に北の松山城(埼玉県吉見町)へ逃れることになりました。
<つわものどもが夢の跡>
北条氏綱の陣城と仮定すると、大きな結果に繋がる重要な役割を担った城跡ということになりますね。伝わる話に素人会社員が仮説を立てて妄想しているだけですが、そんな楽しみ方もあることを共有できれば幸いです。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
---------■ 天神山城 ■--------
別 名:天神山砦
築城主:(北条?扇谷上杉?)
築城年:(1537年頃?)
城 主:(北条?扇谷上杉?)
現 状: 新川天神山青少年広場
[ 東京都三鷹市新川 ] 2丁目
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