今回は徳川幕府に旗本として仕えた柴田勝重の屋敷跡の話です。勝重?でピンとこない方も多いかと思います。祖父の名は勝家。織田信長の重臣で、のちの勢力争いで秀吉に敗れたあの柴田勝家ですね。その孫が勝重です。
<島屋敷跡>
こちらです
<新川団地>
場所は三鷹市新川の団地内。緑が多く、整備された素敵な生活空間です。冒頭の説明板は、団地内のバス亭近くの少し奥まったところにひっそりと設置されています
あれ、遺構は?
はい、ありません。立派な説明板だけが唯一の手掛かりです。
<島屋敷遺跡>
ちょっと見にくくてすみません。ここに『島屋敷』と発掘調査の実績が記されています。この団地内に遺構が確認されたことは事実のようです。
<新川・島屋敷通り>
通りの名にもかつて屋敷があったなごりが漂います。その屋敷の主が、柴田勝重ということになります。
柴田勝重は、関ヶ原の戦いで初陣を飾り、大坂の陣での働きが認められて、仙川村付近を含む5百石を加増されました。既に2千石を与えられていたので計3500石です。凄いですね。越前や加賀を支配した祖父と比較しては元もこもありませんが、決して少なくありません。
あと、厳密なことを言えば、勝重は柴田勝家の直系の孫ではありません。勝重の父は柴田勝家の姉の子であり、武勇が認められて柴田家の養子となりました。ただ、血縁者であることに変わりはありませんね。
<周辺>
高台というほどではないですが、近くを流れる仙川の谷と比較すると、明らかに高い位置にあります。先ほどの説明板によれば、この高低差こそが『島屋敷』と呼ばれる由来ということになります。また、柴田勝重が屋敷を構える以前から、この地には武蔵七党のひとつ村山党の金子氏居館があったことも記されていました。低湿地に囲まれた島のような微高地は、拠点を構えるのに何かと都合が良かったのでしょう。
<説明板>
周辺を散策していたら別の説明板を見つけました。向こう側は土塁?いやいや、団地として造成した時のなごりでしょう
<仙川>せんかわ
近くを流れる川。多摩川水系野川支流の仙川です。現在の仙川の上流は人工の川ですが、この付近は昔からある自然の川。地形に合わせて蛇行して流れます。
<丸池公園>
屋敷から仙川を渡って数百メートルのところにある丸池公園
<丸池>
こちらはかつてこの付近にあった「丸池」と呼ばれる池を復元したものです。台地から低地へ変わるこの付近からはたくさん水が湧き出していたことから「千釜」と呼ばれ、それが仙川の名の由来といわれています(諸説あり)。
そして
<低地から見た台地>
かつて湿地帯だったなごりの丸池からすぐ近くの丘に神社があります
<勝淵神社>かつぶち
ここにはもともと水を司る神の祠があったとのこと。この地を柴田勝重が領したことで、柴田家ゆかりの神社として生まれ変わりました。
<柴田勝家の兜>
仙川に陣屋を構えた勝重は、屋敷近くのこの地に神社を建立し、祖父・勝家の兜を埋納したと伝わります。先祖の大切な宝を地中に納める。この地で生きてゆく覚悟のような思いを想像するのは私だけでしょうか。54歳で没した勝重の墓も、同じく三鷹市新川にあります。
<つわものどもが夢の跡>
■訪問■
島屋敷遺跡
[東京都三鷹市新川]4丁目25
勝淵神社
[東京都三鷹市新川]3丁目20
■参考■
・Wikipedia:2021/5/4
・現地説明板
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