今回は1月に訪問した寿能城跡の追記です。
<潮田氏の居城跡>うしおだ
寿能城跡です。紀氏の流れをくむ名門・潮田氏の居城でした。
この城跡については過去に一度投稿していますが、その時は寿能城と潮田氏の「悲劇」しか取り上げませんでした。その記事に大変貴重なコメントを頂き、更に調べ直すに至りましたので、今回もう一度取り上げさせて頂きます。現在のさいたま市大宮区の城跡です。
■城主と嫡男の死■振り返り
寿能城の築城者にして城主は潮田資忠(すけただ)。資忠はもともと太田氏の出です。母方の潮田氏を継いでいました。豊臣秀吉による小田原征伐の際、資忠は主君・太田氏房とともに小田原城の籠城戦に参加します。太田氏房は北条の出ですから、これは自然な流れですね。この時、父である資忠に従って長男・資勝も出陣し、小田原城の警護にあたります。ご存じの通り、秀吉の天下軍を前に小田原城は落城。資忠・資勝ともに帰らぬ人となりました。
一方で、寿能城は城主不在のまま、浅野長政らが率いる天下軍二万に攻め落とされます。家来やその妻子は、城の目の前に広がる大きな沼に身を投げました。この中には、潮田資忠の娘・能姫も含まれています。
<沼の跡>
かつてこの付近には巨大な沼がありました。現在さいたま市の区の名前として残る見沼(みぬま)です。
■潮田資政■うしおだ すけまさ
城主も長男も小田原で亡くなり、城も落とされた潮田氏ですが、次男の資政は寿能城から脱出し、その後太田氏の庇護を受けています。やがて古河藩の土井利勝に仕えました。
<古河城跡>
[古河市桜町]
名城があったとは思えない光景ですが、古河城本丸跡の現在の姿です。明治初期の大規模な河川改修事業により、城のほとんどは川に沈みました。
<鷹見泉石記念館>たかみせんせき
[古河市中央町三丁目]
古河藩士たちの武家屋敷が再現されています。潮田資政もこの地で過ごしたそうです。
土井利勝は徳川幕府の中枢。そのなかでも、特に抜きん出ていたと評される人物です。老中として手腕を発揮し、やがて大老に。そして、古河藩の初代藩主でもあります。潮田資政はこの大物に仕えて、やがて古河藩の家老にまでなりました。子孫も家老。古河潮田家として現在に続きます。
■つわものどもが夢の跡■
<資忠の墓碑>
資忠の子孫(古河藩家老・潮田資方)が、資忠没後150年に建立した墓碑です。ここはかつての物見塚の跡。いまでは寿能城跡の象徴的な存在となっています。
-------■寿能城■-------
築 城:1560年頃
築城者:潮田資忠
城 主:潮田資忠
廃 城:1590年
現 状:寿能公園
[埼玉県さいたま市大宮区寿能町]
最初の投稿はこちらです。
2018年01月17日
記事→『消えた見沼の浮城』
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