名族の末裔を調べるうちに、ひとりの武士がどうにも気になってしまい、その墓所を訪ねました。
<泉岳寺>せんがくじ
赤穂浪士たちが主君とともに眠る場所です。何度か来たことはありますが、今回訪問の理由は大石内蔵助でも堀部弥兵衛でもありません。
■ 潮田高教 ■ うしおだ たかのり
通称は又之丞(またのじょう)。赤穂浪士四十七士の一人です。赤穂藩士であることは間違いありませんが、常陸国(茨城県)の笠間藩と関係が深い人物です。
赤穂で常陸国?
赤穂事件の浅野家といえば赤穂藩の藩主ですよね。ただ、その前は笠間藩ということは、あまり世間に知られていません。第14代当主の長政が常陸国真壁藩初代藩主となった時代を経て、のちに常陸国笠間へ移封となっています。これらの経緯から、赤穂浪士のなかには茨城県ゆかりの武士がたくさん含まれています。潮田高教も、そのひとりなのです。
■ 潮田家 ■
潮田高教のルーツを更に調べた結果、祖父が笠間藩浅野氏家老・藤井又左衛門に仕えたことまではわかりました。現在の茨城県桜川市真壁町に住んでいたようです。
私個人の関心事は、戦国末期に寿能城(現在のさいたま市大宮区)の城主だった潮田資忠(すけただ)とのつながりでした。しかし明確な情報には辿り着かず(残念)。前の記事で投稿させて頂きましたが、潮田資忠の子孫は、のちに土井利勝に仕えて、古河藩家老となっています。古河、つまり茨城県ですね。笠間藩も同じ茨城県。古河の潮田家と潮田高教について、何となくつながりを感じる方が自然ではないでしょうか。
■ 浅野内匠頭 ■たくみのかみ
1701年4月21日。赤穂藩主である浅野内匠頭は、江戸城松の廊下にて刃傷(にんじょう)に及びました。内匠頭はその日のうちに切腹。浅野家はお取り潰し。斬りつけられた吉良上野介には、何らお咎めはありませんでした。潮田高教ら赤穂藩士たちの苦悩は、ここから始まります。
<江戸城松之大廊下>
[皇居東御苑内]
■ 主君の墓所 ■
1703年1月30日(元禄15年12月14日) 深夜。四十七士は表門隊と裏門隊の二手に分かれ、吉良邸に討ち入りました。潮田高教は裏門隊に加わっていたそうです。本懐を遂げると、高教は吉良義央の首級を槍の先に括りつけました。ドラマなどでよく登場するシーンですね。仇の首を天に掲げるかのようにして歩いた浪士が、今回の主役・潮田高教です。一人の死者もださなかった赤穂浪士たち。討ち取った首を主君の墓前に供えるべく、泉岳寺へと向かいました。
<泉岳寺山門>
<境内案内>
<大石内蔵助像>おおいしくらのすけ
一番有名な浪士の銅像ですね。
<本堂>
曹洞宗の寺院です。
<案内板>
迷うことなく墓所へ進めます。
<首洗い井戸>
泉岳寺に到着した浪士たちは、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したと伝わります。
<井戸>
現在の「首洗い井戸」です。
<赤穂義士墓の入り口>
墓所はこの門をくぐった先にあります。
<案内図>
お墓そのものの撮影は遠慮させて頂きます。潮田高教の墓所に赤線を引かせてもらいました。忠義の武士たちの墓標に刻まれた「刃」の文字に、複雑な思いがしました。庶民の評価がどうであれ、切腹を命じられた者たちの墓なのです。
■ 潮田氏の居城・寿能城 ■じゅのうじょう
潮田高教が忠義を尽くした浅野家。この浅野家は、かつて豊臣政権下で五奉行に名を連ねた浅野長政の分家です。秀吉による小田原征伐の際、潮田家の居城・寿能城を攻め落としたのは浅野長政でした。
<寿能城跡>
[さいたま市大宮区寿能町]
それから約百年、潮田家の血縁者と思われる高教が、浅野家の仇を討つべく命を捧げたところに、浅からぬ人の縁を感じずにはいられません。潮田高教、この時35歳でした。
■潮田高教 辞世の句■
武士の道とばかりを一筋に
思ひ立ちぬる死出の旅路に
もののふの みちとばかりをひとすじに
おもいたちぬる しでのたびじに
<つわものどもが夢の跡>
他の浪士たち同様、潮田高教も主君・浅野内匠頭とともにこの地で眠っています。
■訪問:泉岳寺
[東京都港区高輪]2丁目
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