<興禅寺山門>こうぜんじ
山号は妙国山
<境内>
梶原景時ゆかりの寺院です
<説明板>
門前の説明板から一部を抜粋させて頂きます
『当寺の開山は1174年(承安4年:平安時代)梶原景時によって真言宗光善寺を創建されたのが始まりといわれている。1476年(文明11年:室町時代)梶原景綱によって臨済宗妙心寺派興禅寺と改めて再興された。1584年(天正12年:安土桃山時代)小牧・長久手の戦いの前哨戦羽黒合戦による戦火ですべて焼失し、廃寺同然になった。1602年(慶長7年:江戸時代)犬山城主小笠原吉次の寄進により、梶原屋敷跡であった現在地に再興され現在に至っている。』
梶原景時と言えば鎌倉幕府の有力御家人であり、いわゆる「鎌倉殿の13人」のひとり。その人物ゆかりの寺院が愛知県犬山市にある。これはどういうことでしょうか?
説明板の右側『羽黒と梶原氏』によれば『羽黒と梶原景時との出会いは、景時が平忠盛(清盛の父)の目代(国主の代理)として尾張国府に下向赴任し、羽黒下大日に真言宗光善寺(興禅寺の前身)を建立したことから始まる。』とのこと。
なるほど
十三人の合議制どころか、まだ源頼朝の敵だった頃のお話ですね。敗走して山中に隠れていた頼朝を見逃す石橋山の戦いが景時41歳の時の話。羽黒の地との出会いは30代くらいでしょうか?(調べましたがわかりませんでした。)いずれにせよ、平家に仕えていた頃のこういった経歴が、頼朝からの高い評価に繋がるのかもしれませんね。
<土塁跡>
こちらは興禅寺に隣接する土塁跡。景時の子孫が居城とした城のなごりです。
源頼朝亡きあと、梶原景時は他の御家人たちにより鎌倉から追放されてしまいます。逃れる途上で一族はことごとく討たれてしまい、本人も自害となりました。しかし子孫の一部がなんとか落ち延び、鎌倉からは遠いここ羽黒に根を張りました。それができたのも、景時が平家に仕えていた頃の縁があってのことなのかもしれませんね。
■訪問:妙国山 興禅寺
[愛知県犬山市羽黒城屋敷]16
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/26
・興禅寺説明板
(興禅寺・梶原景時公顕彰会)
(羽黒地区コミュニティ推進協議会)
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