鎌倉幕府の有力御家人・梶原景時の子孫の城跡を訪ねました。
<羽黒城>はぐろじょう
景時の孫である景親がこの地に拠点を築いたこと始まる城です。場所は鎌倉からは遠く離れた愛知県犬山市です。
■梶原景時一族の滅亡■
梶原景時は源頼朝に仕えて鎌倉幕府設立に尽力した人物。頼朝からの信任も厚く、有力御家人としての立ち位置を確立していました。しかし権力者となった景時に反感を持つ御家人たちも多かったようです。頼朝亡きあと鎌倉から追放されてしまい、上洛を目指す途上で一族の大半が討たれ、景時本人も自害となりました。
私は長らく
ここで梶原氏滅亡と思っていました。
今回の訪問がきっかけで、景時の孫が尾張国へ落ち延び、梶原一族の新たな歴史が始まりまったことを知りました。
■梶原景時子孫の城■
一族の多くが亡くなった梶原氏ですが、景時の次男・景高の子である豊丸が羽黒へ落ちのび、長じて景親と名乗り、館を構えるに至りました。これが今回訪問の羽黒城の始まりです。梶原氏と尾張国との関係ですが、梶原景時がまだ平家に従っていた頃、尾張国府に下向赴任した経緯があったようです。その経緯が直接影響したかどうかわかりませんが、羽黒は豊丸の乳母(お隅の方)の故郷でもあったようです。
<興禅寺>
羽黒城跡の西側は興禅寺。前身は梶原景時が建立した光善寺で、梶原氏の菩提寺です
居を構えた景親を初代として、羽黒の地は梶原氏代々により統治され続けました。17代・影義の時には織田信長に仕えて、3千石の領主となっていたようです。
ところが、本能寺の変(1582年)により主である信長が死亡。梶原影義も明智軍との戦いで討死したと伝わります。当主の死により梶原氏は滅亡。拠点としていた城も、この時に廃城となりました。
<土塁跡>
羽黒城跡は住宅地から隔離された竹藪の中にあります。外からはそこが城跡だということは分かりにくいですが、足を踏み入れれば立派な遺構と出会えます。また、土塁は興禅寺側にも一部残っており、もともとは繋がっていたと思われます。
<土塁と曲輪>
城としての全盛期の一部に過ぎないと思いますが、それでもありがたい遺構です
<高低差>
平城ではありますが、土塁により周囲との高低差もあります
<堀跡>
埋められた堀跡でしょうか?
<物見台跡?>
冒頭の石碑はここを登った先にあります。奥がひときわ高くなっているので、物見櫓を設置した場所なのかもしれません。犬山市には古墳が多く、ここ羽黒城も元々あった古墳の墳丘を利用したとされています
城内はだいたいこんな感じす
■つわものどもが夢の跡■
本能寺の変から2年後、小牧・長久手の戦い(1584年:秀吉vs家康)において、秀吉方がこの地を砦として使用したという記録があります。配下の山内一豊が守ったとのこと。遺構の一部は、この戦いの際に修復されたものも含まれるのかも知れませんね
<つわものどもが夢の跡>
最後に羽黒城を守った山内一豊の実母(法秀院)は梶原氏の出です
-------■ 羽黒城 ■-------
別 名:梶原屋敷
築城主:梶原景親
築城年:13世紀初頭
城 主:梶原氏
廃城年:1582年
改 修:1584年
[犬山市羽黒字城屋敷]
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/27
・興禅寺説明板
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