アフィリエイト広告を利用しています

2022年11月26日

佐々成政ゆかりの神社(富山市)千歳神社

戦国武将・佐々成政ゆかりの神社を訪ねました。

<千歳神社>ちとせじんじゃ
chitose-jinja-toyama.JPG
富山市の千歳神社です。佐々成政が戦勝祈願をした神社と伝わります。

<説明板(御由緒)>
chitose-jinja-explanation-board.JPG
情報が少ないので、現地説明板(御由緒)を参考にさせて頂きます。下記に一部を転記させて頂きます。(『』内は原文の写しです)
『天正九年(一五八一)佐々成政公が、越中五十四万石を領して富山城主となった時、敬神の念が厚かったので、この神明社を産土大神として崇め、城下町富山を東西に二分し、東は北の神明、西は南の神明と称し、それぞれ富山の守護神とした。』

佐々成政というと、とても荒々しく、勇猛果敢に戦うイメージが強いですね。しかしその一方で、神を敬うことを大切にしていました。

若い頃から織田信長に仕えて、徐々に頭角を現していった佐々成政が、ここ越中で一国を任されたのが40代の半ばのこと。越中54万石ですからね。これはかなり凄いことです。そのまま何事なければ、更に飛躍できたことでしょう。しかし、そうはなりませんでした。

成政が柴田勝家らとともに上杉方の魚津城を攻めている真っ最中に、主君が本能寺で討たれてしまいます。これ以降、状況は激しく変化。成政は時代の流れに激しく抵抗しますが、良い結果は得られませんでした。

終わってみれば、越中を領し、この神社を保護した頃が、出世のピークだったのかもしれません。

<千歳神社鳥居>
chitose-jinja-gate-toyama.JPG
勢いに乗っていた佐々成政が大切にした地元の神明社。富山の土地神としては最も古いとされています。

説明板によれば、当初は別の場所に鎮座していたようです。説明文をそのまま転記させて頂くと『当神社は北の神明にあたり、当時は蛯町の地に鎮座していましたが、富山藩祖前田利次公が入城後、寛文年間城下の町割に際し現在地に移った。』とのこと。江戸時代になって移転したわけですね。

また、神明社が千坂神社と改称されたのは明治になってからとのこと。説明文には、越中富山藩の第10代藩主である前田利保が、富山城の出丸に隠居所として千歳御殿を造り、城の近くを流れる神通川の下流を千歳川と名づけたことが記されています。神社の改称も、千歳御殿に因んだのでしょう。

<千歳橋>
citose-bridge.JPG
千歳神社近くの千歳橋です。川はかつての神通川の流路とほぼ一致します。

<佐々成政ゆかりの神社>
chitose-shrine-toyama.JPG
現在の社殿は昭和になって再建されたものです。しかし神社の始まりは古く、長い歴史のなかには、
、戦国武将・佐々成政も深く関わっています。

以上、富山市にて佐々成政ゆかりの神社を訪ねたというお話でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。

■訪問:千歳神社
[富山県富山市千歳町]2丁目

■参考及び抜粋
現地説明板(千歳神社由緒)



お城巡りランキング
タグ:富山
posted by Isuke at 20:30| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2022年07月09日

北条時宗夫人・覚山尼ゆかりの寺(上尾市)少林寺

今回は城跡巡りの途中で立ち寄った歴史ある寺院の話です。

<少林寺山門>
Ageo-Shorinji.JPG

<本堂>
Ageo-Shorinji-Hondo.JPG
臨済宗の寺院で、鎌倉の円覚寺の末寺です

上尾市のホームページには『同寺は江戸時代の初めに「門前村」という村名が生じたほどの大寺であり、鎌倉時代の正応元(1288)年創建という市域随一の古刹(こさつ)でもある。』とあります。同ページの情報によれば、開山は鎌倉の円覚寺第二世を務めた高僧・仏源禅師開基は鎌倉幕府執権・北条時宗夫人の覚山尼(かくざんに)とのこと。覚山尼は縁切寺としても知られる鎌倉の東慶寺の開基ともいわれています。武家政権の中心地である当時の鎌倉と、深い関りのあった寺院ということですね。

<境内の様子>
Ageo-Shorinji-Keidai- (3).JPG
Ageo-Shorinji-Keidai- (2).JPG
Ageo-Shorinji-Keidai- (1).JPG
Ageo-Shorinji-Keidai- (4).JPG

歴史の古い少林寺ですが、幕末動乱期に火災で本堂他が焼失してしまいました。山門と鐘楼堂が難を免れ、いまに至るようです。

<四脚門>
Ageo-Shorinji-Gate.JPG
上尾市指定文化財に指定されています

<鐘楼堂>
Ageo-Shorinji-Temple-bell-tower.JPG
立派な佇まいです。嘉永年間に建立されたものを解体・修理して現在に至ります

ということで
幕府があった頃の鎌倉と深い関りのある少林寺のご紹介でした。拙ブログで魅力の全てはお伝えできませんが、雰囲気だけでも伝われば幸いです。

<県道沿い>
Ageo-Shorinji-Entrance.JPG
少林寺は県道上尾・久喜線沿いです。山門は少し奥まったところにあるため、こちらを目印にすると素通りせずにすみます。

Shorinji-Ageo.JPG
おじゃま致しました

■訪問:少林寺
[埼玉県上尾市西門前] 399

■参考及び出典■
・境内説明板(少林寺)
・上尾市教育委員会ホームページ
 >上尾の寺社3少林寺(西門前)
 
https://www.city.ageo.lg.jp/site/iinkai/064110110106.html



お城巡りランキング
タグ:埼玉
posted by Isuke at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2022年06月25日

源義経招魂碑(久喜市)

今回は埼玉県久喜市の源義経招魂碑の話です。

<源義経招魂碑>しょうこんひ
Minato-Yoshistune-Shokonhi.JPG
こちらです

埼玉県で義経?

ここ久喜市には『静御前墓所』があります。冒頭の画像はそちらで撮影しました。

<静御前墓所>しずかごぜんぼしょ
Shizuka-Gozen's -grave.JPG
義経の愛妾として有名な静御前の墓所です。義経を追って奥州平泉へ向かう途上で義経の死を知り、病に倒れて没したと伝わります。静御前終焉の地については諸説ありますが、ここもその候補地のひとつとなっています。

義経本人がこの地と深い関りがあったわけではありませんが、静御前が没し、そして眠る場所です。歴史にもしもは禁物ですが、もし義経が密かに生き延びていたなら、この地を訪ねたのではないでしょうか

Shokon-Stone monument-Yoshistune.JPG
招魂とは霊を招いてまつること。この地に義経の招魂碑が建てられていることには、感慨深いものがありますね。

ということで
静御前墓所の源義経招魂碑のご紹介でした。

<栗橋駅にて>
Panel-Yoshitsune- and-Shizuka.JPG
現地は栗橋駅から徒歩1分です。駅の改札を出たところにはこんなパネルも設置されていました。ちょっと私がイメージする義経よりオッサンっぽいですが、武芸に励み、武功で名を馳せた人ですから、これくらい男らしかったのかも知れませんね。

■訪問:源義経招魂碑
(静御前墓所)
[埼玉県久喜市栗橋中央]1-2-10


お城巡りランキング


------------(追 記)------------
静御前墓所は二度目の訪問となりました。初回訪問時の記事を下記にご紹介させて頂きますので、良かったら覗いてみて下さい。
<栗橋駅構内>
shirononagori305 (1).jpg
■投稿:2019年01月19日
■タイトル:静御前ゆかりの地
 →『記事へすすむ
タグ:埼玉
posted by Isuke at 19:15| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2022年06月18日

畠山重忠ゆかりの観音堂(さいたま市)田島観音堂

畠山重忠ゆかりの地を訪ねました。
<参道>
Tajima-kannondo-Approach.JPG
さいたま市桜区田島の田島観音堂です

<庚申塔>
Tajima-Koshinto-Road-sign.JPG
参道わきの庚申塔です。ここは県道沿い。道標も兼ねたものですが、南・西といった漢字はわかるものの、崩し字のひらがなは読めませんでした(私には)

<カシワの木>
Tajima-kannondo- Kashiwa.JPG
境内でひときわ目をカシワの木は、さいたま市指定天然記念物となっています

<鐘楼>
Tajima-kannon-Bell-Tower.JPG

<境内石碑と六地蔵菩薩>
Tajima-kannondo- Ishibotoke.JPG

そして

<田島観音堂>
Tajima-kannondo.JPG
創建年代等は不詳です。ただ標柱の側面に刻まれた文字からして、鎌倉時代初期なのではないかと推定できます。

<標柱正面>
Tajima-kannondo-Stone- Pillar.JPG
正面には宝永山如意輪観世音の文字。田島観音の名で親しまれていますが如意輪観世音が正式な名のようです。こちらの観音様は足立坂東13番札所です。

そして側面

<畠山重忠建立>
Hatakeyama-and-Hojo.JPG
ちょっと見えにくいですが、「畠山重忠公建立 太田氏房候歸似」と刻まれています。鎌倉幕府の有力御家人だった畠山重忠が建立したということですね。つまり創建は鎌倉幕府が樹立された頃。それ以前かそれ以後かはともかく、だいたいその頃ということになります。太田氏房は岩槻城主だった戦国武将。帰依と読めますので、その信仰の対象でもあったということでしょう。

田島観音堂と畠山重忠の関係についてもう少し深く知りたいと思い調べたのですが、なかなか有効な情報がなく、今回もまた「猫の足あと」さんのお世話になります。『』内は抜粋です。
『真言宗寺院の田島観音堂は、かつて寳榮山如意輪寺と号す寺院址です。田島観音堂の創建年代等は不詳ながら、新編武蔵風土記稿に「如意輪寺 新義真言宗、輿野町圓乗院末にて寳榮山と號す、本尊は不動」とあります。足立坂東三十三ヶ所霊場13番、北足立八十八ヵ所霊場13番、武州足立百不動尊霊場49番です。』
田島観音は、標柱の文字にもあった如意輪寺という寺の跡ということのようです。そして、圓乗院との関りがうかがえます。

[参考:圓乗院(円乗院)]
temple_enjo-saitama.JPG
こちらが与野の圓乗院(円乗院)さんです。鎌倉時代初期に畠山重忠が現在のさいたま市桜区道場に創建した寺院で、戦国時代末期又は江戸時代初期にこの地に移転しました。旧与野市を代表する立派な寺院です。


<田島観音堂>
Tajima-kannon-do.JPG
私の調べ方が悪いせいもあって、田島観音堂と畠山重忠の関係がややぼやけたままですが、与野の圓乗院と関りがあるということで、なんとなく納得しました。

<畠山重忠建立>
Hatakeyama-Shigetada.JPG
かつて畠山重忠がこの付近を領したことは事実です

ということで
畠山重忠ゆかりの観音堂のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。

■訪問:田島観音堂
 (如意輪観世音)
[埼玉県さいたま市南区田島]3丁目

■参考画像:円乗院
 (安養山西念寺)
[埼玉県さいたま市中央区本町西]1丁目

■参考及び抜粋
猫の足あと
・田島観音堂

https://tesshow.jp/saitama/saitama/temple_sakra_tajima.html
・円乗院
https://tesshow.jp/saitama/saitama/temple_chuo_enjo.html


お城巡りランキング
タグ:埼玉
posted by Isuke at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2022年05月30日

兄に付き従う脇屋義助の像(太田市)太田駅前

(新田義貞像の追記です)
<新田兄弟の銅像>
Nitta-Yoshisada-Statue-Ota.JPG
兄である新田義貞に付き従うような姿勢の脇屋義助。通称は脇屋次郎。

<脇屋義助像>わきやよしすけ
Wakiya-Yoshisuke.JPG
兄同様に上野国新田郡(現在の群馬県太田市)の生まれです。居とした地名から名字を脇屋と称し、義貞とともに各地を転戦しました。鎌倉幕府を滅亡に追い込んだのち、新政府においては要職を任され、後醍醐天皇に対する足利尊氏の謀反にも立ち向かい、兄が戦死したのちも戦い続けました。最後は中国・四国方面の総大将となって実力を発揮しますが、伊予で病により亡くなりました。

Local-Hero-Nitta.JPG
新田氏当主の次男として生まれ、波乱の人生の末に異国で没した脇屋義助。長い旅路の始まりは、ここ群馬県太田市でした。

■訪問:
新田義貞公像・脇屋義助公像

[群馬県太田市東本町]
タグ:群馬
posted by Isuke at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

太田駅前の新田義貞像(太田市)

東武太田駅の北口を出ると新田義貞が出迎えてくれます

<新田義貞>にったよしさだ
Nitta-Yoshisada-Ota-Station.JPG
駅前ロータリーに設置されている新田義貞の銅像です。鎌倉幕府を滅亡に追い込んだことで知られる武将ですね。ここ群馬県太田市は新田義貞の故郷であり、清和源氏新田氏と深い関りのある場所です。

隣に控えているのは家臣?そうとも言えますが、義貞の弟の新田義助です。現在の太田市にも残る地名から脇屋氏を名乗りました。挙兵した兄に従い、幕府軍と戦いました。

太田市は新田荘があった場所(旧新田町)。源義家の孫にあたる義重が、浅間山噴火の影響で荒廃していた土地に荘園を開墾し、本拠としました。新田氏の祖となった義重は、足利氏の祖となった義康の異母兄でもあります。

新田義貞は7代当主・朝氏の嫡男として生まれました。その頃になると、足利氏に差をつけられていた新田氏ですが、8代当主・義貞が鎌倉幕府討滅の中心人物となったことで、後世に長く語り継がれることとなります。


Nitta-Yoshisada-Statue-Ota.JPG
当初は別な場所に設置されていましたが、2009年に駅前に移されました。後ろに見えているSUBSRUとともに太田市の顔を言えますね

ということで
太田駅前の銅像と、太田市民、いや、群馬県民にとっては当たり前の「歴史に名高い新田義貞」のお話でした。

■訪問:新田義貞公像
(太田駅北口ロータリー)
[群馬県太田市東本町]

■参考
Wikipedia:2022/5/30
上毛かるたで群馬県ガイド

https://joumoukaruta.com/ra/rekishi.html



お城巡りランキング
タグ:群馬
posted by Isuke at 22:15| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2022年05月22日

分倍河原駅前の新田義貞像(府中市)

古戦場を訪ねるべく分倍河原駅で下車しました

<新田義貞公之像>
Nitta-Yoshisada-Statue.JPG
駅前ロータリー設置された新田義貞公像

勇ましい姿ですね。この像は『新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らした分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして制作したものである。』とのこと。

『』内はこちらに記されている府中市による説明文をそのまま抜粋させて頂きました。
Description-Nitta-Yoshisada.JPG
分倍河原での合戦についても詳しく記されていますので、抜粋しながらご紹介させて頂きます。

『元弘三年(一三三三)五月八日、上州生品神社(群馬県新田町)の社前で鎌倉倒幕の旗を上げた新田義貞は、越後・甲斐・信濃の同族軍等を糾合、翌九日には利根川を渡って武蔵国へ入り、千寿王(後の足利義詮)と合流し一路鎌倉を目指して南下した。一方、幕府軍は入間川で新田軍を阻止するため北上、同月十一日、両軍は小手指原(所沢市)で遭遇し合戦となった。合戦の勝敗は容易に決しないまま十二日の久米川の合戦につづき新田軍有利の中で、幕府軍は陣立てのため急ぎ府中の分倍河原まで退いた。』
群馬県新田町は現在は同県太田市に吸収されています。そこで挙兵し、南下する新田義貞に続々と諸勢力が合流したということですね。そして、ここへ到着する以前に、既に鎌倉幕府軍との戦いは始まっていました。

Nitta-Yoshisada-Bubaigawara.JPG
続きをご紹介します
『同月十五日未明、新田軍は多摩川突破を目指して武蔵国府中を攻め分倍河原において大いに戦ったが、泰家率いる幕府軍の逆襲にあって大敗を喫し、堀兼(狭山市)まで敗走した。この時、新田軍の手によって武蔵国分寺の伽藍は灰燼に帰してしまったといわれている。』

勝ち続けたわけではなく、苦戦も強いられている様子が伺えます。しかし、ここにきて三浦義勝ら相模の国人衆すらも味方となり、新田軍は再び分倍河原に攻め入り大勝利をおさめます。文中の表現をお借りすると
『前日の勝利におごり油断していた幕府軍は、武具を整える間もなく総崩れとなり、鎌倉の最後の防衛線である多摩川は一気に破られ分倍河原合戦は新田軍の大勝利に終わった。』
とのこと。ここでの勝敗がの後に大きく影響したことは言うまでもありません。

Nitta-Yoshisada-Statue-Fuchu-City.JPG
140年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させる直前の雄姿ということですね

ということで
分倍河原駅前の新田義貞像のご紹介でした。

もし私と同じように分倍河原駅で下車して古戦場へ向かう方は、現地の高低差なども意識してみると良いかもしれません。駅の改札は台地の隅に位置しています。

■訪問:新田義貞公之像
(分倍河原駅前ロータリー)
[東京都府中市片町]3丁目

■参考
現地説明文(府中市)
Wikipedia:2022/5/22



お城巡りランキング
タグ:東京
posted by Isuke at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2022年05月18日

進軍途上の新田義貞が馬をつないだ松の木(狭山市)新田八幡・駒繋の松

鎌倉幕府討伐途上の新田義貞が、戦勝祈願をしたと伝わる八幡神社を訪ねました。

<石段>
Hacimanjinja-Shrine.JPG

<鳥居>
Nitta-Haciman-tori.JPG

<拝殿>
Haciman-Shrine-Irumagawa.JPG
場所は埼玉県狭山市です。上野国新田荘(現在の群馬県太田市)を出て鎌倉へ向かって南下する新田義貞は、入間川を渡ったところでこの地に立ち寄りました。

<入間川>
Iruma-River.JPG
一級河川の入間川です。当時の正確な流路はわかりませんが、この川によって造られた広い低地が広がっていたのでしょう。鎌倉幕府軍は、新田義貞がこの川を渡る前に迎え撃つ目論見だったようです。しかし新田軍の動きは速く、激突は更に南の小手指ヶ原(現在の埼玉県所沢市)となりました。

<台地>
Hachiman-jinja-hiii.JPG
八幡神社は入間川に近い台地の上に祀られています。入間川を渡った義貞は、幕府軍との戦いを前に、高台で戦勝祈願をしました。境内には、この時に義貞が馬をつないだとされる松の木が残されています。

<本殿東側>
Nitta-Haciman- (1).JPG
彫刻が見事に本殿(画像奥)の東側です。階段を上った先に新田義貞ゆかりの松の木があります。

<駒繋の松>こまつなぎのまつ
Komatsunagi-no-matsu.JPG
少し分かりにくいですが、中央の若い松ではなく、両脇の老木です。

Komatsunaginomatsu-Nitta-Yoshisada.JPG
かなり疲れていますが、こちらは根元付近がまだ残されています。

Decayed-Tree-Nittahachiman.JPG
こちらはほぼ朽ちていますが、同じ松の木と思われます

新田義貞の挙兵は1333年(元弘3年)のことですので、700年近く前の話です。松は他の木と比べて長生きと言われていますが、さすがに風雪にさらされ続ければ、朽ちていて当然ですね。こうして形として残っているだけでもありがたいことです。

更に南下する新田義貞は、行く先々で幕府軍と戦い続け、最後は鎌倉へ攻め込んで北条氏を滅ぼすことになります。上野国で挙兵し、ここで戦勝祈願した時はどのような気持ちだったのでしょうね。

ということで
新田義貞ゆかりの神社と、境内の松のご紹介でした。八幡神社には、文化財に指定されている社宝、そして数々の境内社がありますが、新田義貞ゆかりの松に焦点を絞ってご紹介させて頂きました。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

<八幡神社>
Hachiman-jinja-Irumagawa.JPG
新田八幡とも称される神社です

■訪問:八幡神社 [入間川]
(新田八幡・新田の八幡宮)
[埼玉県狭山市入間川] 3丁目

■参考
現地説明板
Wikipedia:2022/5/18



お城巡りランキング
タグ:埼玉
posted by Isuke at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2022年05月10日

木曾義仲の嫡男・義高の終焉の地(狭山市)清水八幡宮

木曾義仲の嫡男・義高終焉の地を訪ねました。

<清水八幡宮>
Shimizu-hachimangu-shrine-Sayama.JPG
こちらは義高を祀る神社です。場所は埼玉県狭山市の入間川沿い。

鳥居の近くに説明板が設置されていますのでご紹介させて頂きます。

<説明板>
History-Kiso-Yoshitaka.JPG
冒頭『清水八幡には源義高(清水冠者源義高)がまつられています』と記されています。清水冠者とは義高の別名です。つづいて、義高があの木曽義仲の嫡子であること、人質として鎌倉の源頼朝に預けられたこと、その娘である大姫の婿となっていたことが紹介されています。

義高が人質となることで、不仲となっていた義仲と頼朝の間には和睦が成立しました。その後の展開によっては、義高は大姫と仲睦まじく暮らしせたのかもしれません。しかしこの場合、人質という立場は形式では済まされませんでした。義仲と頼朝の和議は翌年には破綻。頼朝は義仲追討軍を派遣します。義仲はこれを迎え撃ちますが「宇治川の戦い」で敗れ、「粟津の戦い」で討たれました。

説明文の続きです。
『義仲が頼朝に討ち果たされたのを知った義高は、自分にふりかかる難をのがれるため従者六人ばかりと共に祖父義賢の地(大蔵館)や義仲を助けた畠山重能の地(菅谷館)がある現在の嵐山町をめざして逃亡しましたが、当地入河原で頼朝の追手に討ち果たされました。』

源義賢(よしかた)の館も畠山重能の館も嵐山(らんざん)にありました。義賢が討たれた時、当時2歳の木曽義仲(駒王丸)は畠山重能らの計らいで信濃国へ逃れることができました。鎌倉を脱出した義高は、そういった縁のある場所に活路を見出そうとしたわけですね。

説明文の続きを要約すると、北条政子と大姫は嘆き悲しみ、義高を手にかけた藤内光澄(とうないみつすみ)を打ち首にし、義高が葬られた河原に霊を祀るための社を建てました。これが清水八幡宮の始まりです。

<社額>
Shimizu-hachimangu.JPG
八幡という名からは源氏の氏神を連想してしまいますが、清水八幡宮の祭神は清水冠者源義高のみです。

<社殿>
simizuhatimangu-Shrine.JPG
長年の暴風や洪水のため当時の祠の姿はなく、正確な場所も不明となっているようです。しかし義高はいまもこうして終焉の地に祀られています。狭山市のホームページによれば『本殿は昭和34年(1959)に再建されたもの』で、中には『永享2年(1430)の石祠が安置されていますが、これは江戸末期に近くを流れる赤間川から掘り出されたもので、そこには義高が入間川で殺害されたことなどが刻まれています』とのこと。

<本殿>
simizuhatiman-Main-Shrine.JPG
なかは見ることができませんが、石祠が安置されているわけですね

<国道沿い>
With-heavy-traffic.JPG
右側は国道16号線です。交通量が多く、静かな境内とは言い難いですが、凛とした空気が漂います。

<北側から撮影>
simizuhatiman-sayama.JPG
国道の逆側は住宅地で、更に北へ向かうとそこはもう入間川です。

<清和源氏の流れ>
minamoto-family-tree.JPG
こちらには清和源氏略系図が記されています。

<源氏略系図>
Seiwagenji-family-tree.JPG
戦国武将好きの目には、足利氏が隅に寄せられているのが新鮮に映ります。源義仲・義高を軸に考えればこの通り。まっすぐ上に八幡太郎こと源義家の名を見ることができます。


それにしても
ここは鎌倉からはかなりの距離です。鎌倉街道上道を利用したとすれば、現在の横浜市戸塚区や町田市・府中市を経由して、所沢市を更に越えて狭山市まで辿りついたことになります。距離にして約90q前後。遠くまで逃れてきたわけですね。しかし街道が川にさしかかったところで義高は討たれてしまいました(1184年6月6日)。

<入間川>
Iruma-River.JPG
義高は奥州平泉の藤原氏を頼ろうとしていたとする説もあるようです。しかし、とりあえずは嵐山を目指してここまで来たのだ。そう受け止め、現地をあとにしました。

■訪問:清水八幡宮
 (清水冠者源義高終焉の地)
[埼玉県狭山市入間川] 3丁目

■参考及び出典
現地説明板
・狭山市教育委員会
・狭山市文化財保護審議会
Wikipedia:2022/5/10
狭山市ホームページ
・指定文化財〉清水八幡

https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/siteibunkazai/simizuhatiman.html



お城巡りランキング
タグ:埼玉
posted by Isuke at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2022年05月01日

信長塀(熱田神宮)神を信じない男の心配り

熱田神宮の境内に織田信長が寄進した塀があるのをご存じでしょうか?
<信長塀>のぶながべい
Nobunagabei.JPG
こちらです。信長塀と呼ばれています

<境内説明板>
Direction-Board-Nobunagabei.JPG
こちらは境内の説明板。信長塀についての説明が記されています。

圧倒的に不利とされた桶狭間の戦い(1560年)を前に、信長は熱田神宮に必勝祈願をしています。結果は今川軍を相手の大勝利。その御礼として、塀を奉納したとされています。

<築地塀>ついじべい
Nobunaga-Bei-Atsutajinja.JPG
泥土をつき固めて作る築地塀です。もともとは約4百メートルもあったと言われていますが、残されているのは百メートル強。それでも、こうして残っているのは貴重ですね。現地説明板によれば、西宮神社の大練塀(兵庫)、三十三間堂の太閤塀(京都)と並んで日本三大土塀の一つとされているそうです。

ここからは素人会社員の個人的意見が入ってしまいますが、信長本人が神を信じていたとは思えません。しかし、信じる者たちが多いことは充分かっていたのでしょう。集まった配下の者たちとともに神に必勝祈願する。勝ったお礼に塀を寄付する。信長らしい演出というか、心配りだったような気がします。


<熱田神宮>
Atsuta-Shrine-Gate.JPG
言うまでもありませんが、熱田神宮は日本を代表する神社の一つです。

Nobunaga-Bei- Atsuta-Shrine.JPG
当ブログがきっかけで、見どころたくさんの境内に信長ゆかりの塀があることを思い出してくれたら嬉しいです。

■訪問:信長塀
 ( 熱田神宮 )
[愛知県名古屋市熱田区神宮]

■参考
熱田神宮境内説明板



お城巡りランキング
タグ:愛知
posted by Isuke at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地
検索
記事ランキング
[アクセスランキング]
  1. 1. 上杉謙信の軍旗 毘沙門天と懸かり乱れ龍
  2. 2. 高遠城のなごり
  3. 3. 真田の城 上州沼田城
  4. 4. 高岡城のなごり
  5. 5. 刑場近くの橋のなごり 泪橋と思川
  6. 6. 縁切橋跡(行田市) 城主と妻の悲話が伝わる橋
  7. 7. 忠臣蔵名シーンの舞台となった坂道(南部坂 雪の別れ)
  8. 8. 関東の連れ小便・政宗白装束の舞台 (石垣山城)
  9. 9. 内匠頭御預かりの田村家のルーツ(田村右京太夫屋敷跡)
  10. 10. 浦和暗渠散歩 天王川を下る
  11. 11. 高天神城のなごり
  12. 12. 金沢城のなごり
写真ギャラリー
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
Isukeさんの画像
Isuke
もともとは無趣味の仕事人間。土日は家でゴロゴロ。本ブログは、そんな男が急に城跡巡りに目覚め、てくてくと歩き始めた記録です。
プロフィール
X (Twitter) Twitter-Isuke.JPG Isuke@shirononagori
最新記事

お城巡りランキングに参加中 [参加させて頂いた雑誌]

アクティブライフ・シリーズ009 クルマで行く 山城さんぽ 100【電子書籍】[ 交通タイムス社 ]

[当サイトお勧め本]

小説 上杉鷹山 全一冊 (集英社文庫(日本)) [ 童門 冬二 ]


感想(39件)