アフィリエイト広告を利用しています

2023年07月09日

徳川四天王・本多忠勝ゆかりの地(大多喜城)

徳川四天王・本多忠勝が入城した城跡を訪ねました。

<大多喜城>おおたきじょう
Otaki-castle.JPG
千葉県大多喜町の山城です。こちらは専用駐車場から続くなだらかな坂道。道沿いに紫色の幟が沢山掲げられていました。

<幟>
Banner-Honda-Tadakatsu.JPG
「本多忠勝・忠朝」を大河ドラマに!

本多忠勝は好きな戦国武将のひとりですから、まぁ賛成です。私の訪問は2023年の春ですので、NHK大河ドラマは『どうする家康』。徳川四天王のひとりである本多忠勝は当然登場し、かなり重要な役どころとなってはいますが、あくまでわき役です。57回の戦闘で「かすり傷ひとつ負わなかった」とか名槍「トンボ切り」なとなど、魅力満載の戦国武将ですが、知らない人は知らないし、大河で1年間主役というのは、かなり手の凝った演出が必要かもしれません。
忠朝は忠勝の次男で、第2代の大多喜藩主です。忠勝・忠朝親子をドラマ化するとなると、これはもう大多喜の物語ということになりますかね。

1590年の小田原征伐で関東覇者の北条氏が滅亡すると、代わって関東に入った徳川家康は、側近中の側近である本多忠勝を大多喜城に入城させました。里見氏をけん制するためですね。1601年に伊勢国の桑名城に移るまでの約10年間、大多喜城は本多忠勝の居城でした。次の城主は父親同様の猛将として知られる忠朝です。1614年に里見氏が改易となった時には、館山城破却の役割を担いました。ただ、大坂夏の陣で毛利勝永軍に正面から突入し、34歳の若さで亡くなりました。

<堀跡>
Otaki-castle-Horiato.JPG
中世に築かれた大多喜城は、本多忠勝が城主の時に近世城郭に生まれ変わりました。

<模擬天守>
Otaki-Castle-Tower.JPG
本丸跡には天守をイメージした博物館(千葉県立中央博物館大多喜城分館)が建てられています。3層4階の立派な造りです。私の訪問時は施設改修のため休館中で、貴重な収蔵品を直接見ることはできませんでしたが、展示物の一部が敷地内の別の建物(研修館)に移されていたため、ありがたく見学させて頂きました。

<研修館入口>
kenshyukan.JPG

<内部の様子>
Otakijo-Exhibit.JPG
「大多喜城と城下町」をテーマにした各種パネルや、実物そっくりの甲冑などが展示されていました。

<本多忠勝像をアップで撮影>
Honda-Tadakatsu.JPG
かすり傷ひとつ負わなかった…


本多忠勝は、平和な時代になるとやや出番がなくなってしまいますが、大多喜城主だったのは1590〜1601年ですので、まだまだ戦乱の世の真っただ中。幾多の戦場で経験を積んだ40代で、指揮官としては現役バリバリの頃です。この時に本多忠勝が与えられた10万石は、家康の家臣団では井伊直政の12万石(高崎)に次いで第2位。家康からいかに大切にされていたか、また、いかにその後の活躍も期待されていたかが伝わってくるようですね。

Honda-Tadakatsu-Castle.JPG
大多喜は本多忠勝が初代藩主となった場所です

■訪問:大多喜城跡
[千葉県夷隅郡大多喜町大多喜]1丁目

■参考及び出典
・千葉県立中央博物館小冊子
・現地説明板(研修館内)
・Wikipedia:2023/7/9



お城巡りランキング
タグ:千葉
posted by Isuke at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2023年06月10日

伏見稲荷魚津大社 河田長親ゆかりの神社

魚津城跡を訪問する途上で、鮮やかな鳥居に足が止まりました。

<伏見稲荷魚津大社>
fushimiinariuozu.JPG
名の通り伏見稲荷の分霊を祀った神社です。朱色の鳥居と社殿がひときわ目をひきます。詳細不明ながら、上杉謙信に重用された武将・河田豊前守長親が建立したと伝えられています。

河田長親は、謙信の関東での抗争においては、厩橋城(前橋城)・沼田城といった重要拠点の城代を任された武将です。ここ越中では魚津城を預かり、一向一揆との戦いにおいて現地の指揮官として奮闘しました。苦戦を強いられながらも、松倉城の城主にもなっています。謙信の亡きあとは上杉景勝を支援し、織田信長の越中侵攻を食い止めるべく奮闘しました。

fushimiinari-uozutaishya.JPG
魚津城を預かった河田長親の思いから始まる神社です。もともとは城の東側の丘に祀られていましたが、戦国時代の戦火で社殿は焼失したそうです。江戸時代に再建され、いまに至るようです。

■訪問:伏見稲荷魚津大社
[富山県魚津市新宿]7


お城巡りランキング
タグ:富山
posted by Isuke at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

武士の鎧の袖を片しきて(魚津城本丸跡)上杉謙信の歌碑

魚津城本丸跡には上杉謙信の歌碑があります。

<上杉謙信の歌碑>
Uesugi-Kenshin-Monument-Uozujo.JPG
こちらです。

<説明板>
Uesugi-Kenshin-Phrase-Explanationboard.JPG
説明板が設置されています。こちらによれば『天正初年(一五七三年)上杉謙信が越後の精兵を引き連れて越中へ侵入し魚津城外にたむろした時の歌』とのこと。謙信の越中出兵は、この数年前から始まっていましたが、粘り強い抵抗に悩まされ続けていました。そんな謙信が、なかなか制圧しきれない異国の地、魚津城の近くで詠んだ歌が刻まれているわけですね。

つづいて『時は初秋、過雁一声 鎧のまま野伏した謙信が思わず旅愁をそそられてこの一句を口ずさんだものと思われる句詩』とあります。過雁は飛び去っていくガンということですから、秋の気配とその鳴き声に、感じるものがあったのでしょう。

武士の
鎧の袖を片しきて
枕に近き
初雁の声
 

もののふの
よろいのそでをかたしきて
まくらにちかき
はつかりのこえ


鎧の袖は、肩や腕を保護するあの楯状の武具のことですね。普通は両肩に付けますので、その片方を下にして、つまり武具をつけたまま横になって野宿していたのでしょう。そんな時に、秋の訪れを告げる鳥の鳴き声が聞こえてきた

句の解釈として正しいのかどうか分かりませんが、謙信のその時の思いが、少しだけわかるような気がしました。謙信はやがて越中を平定することになりますが、その途上での句ということですね。

Uesugi-Kenshin-Waka-Monument.JPG

■訪問:上杉謙信の歌碑
(大町幼稚園敷地内)
[富山県魚津市本町]1

■参考及び出典
現地説明板
(魚津市教育委員会)



お城巡りランキング
タグ:富山
posted by Isuke at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2023年06月03日

将門の伝説が残る神社(太田市)只上神社

平将門の胴体が埋葬されたという伝説が残る場所を訪ねました。

<只上神社>ただかりじんじゃ
Tadakari-Shrine-Gate.JPG
群馬県太田市の只上神社。渡良瀬川のすぐ近くです。

<参道>
Place-associated-with-Masakado.JPG
誰もいませんね。参道左手側の建物は社務所と思われます。参道右手にむかしは遊具が設置されていて、子供たちが遊ぶ姿が見られたそうです。

<拝殿>
Tadakari-Frontshrine.JPG
よそ者が失礼致します

<村社只上神社御由緒>
Tadakari-Jinja-honorable-history.JPG
この付近は毛里田(もりた)という村だったようです。元々は品陀和氣命(ほむだわけのみこと)のみを祀る神社で、只上八幡宮と呼ばれていました。将門に関する記載はありませんでした。

<本殿>
Tadakari-mainshrine.JPG
しっかりと保護されているので御本殿そのものは見ることができませんでした。

<境内社>
Tadakarijinja-Kedaishya.JPG
こちらは拝殿左側に並ぶ境内社。そういえば、御由緒には合祀に関する詳しい記載がありました。水神宮や稲荷社、雷電社等・・・(省略して申し訳ないです)

只上神社は、かつては「胴筒の宮」とも呼ばれていました。伝承では、ばらばらになった将門の亡骸のうち、胴体がここ只上神社に葬られたとされています。手・足・腹部はお隣の足利市の複数の神社とのこと(手は大手神社、足は鶏足寺、腹部は大原神社)。首については説明は不要ですね。

<境内>
Tadakari-Jinja.JPG
とにかく静かでした

将門には桔梗姫(桔梗の前)と呼ばれる妾がいました(シンプルに侍女と紹介している例が多いです)。しかし桔梗姫は藤原秀郷に内通し(秀郷の妹という説もあり)、これが将門が討ち取られる原因となったともされています。今回訪問の太田市只上は、桔梗姫の出身地とされるこことから(千葉県という説もあり)、将門を祀ることで、祟りを鎮めたということなのでしょう。祟りを恐れられながらも、いつのまにか民衆に慕われているところが、将門という武将の不思議な力だと思えます。

<只上神社裏手>
Tadakari-Jinja-waterway.JPG
Tadakari-Shrine-Hill.JPG
裏手は渡良瀬川に通じる水路。神社は微高地に位置しています

地元の方のお話では、桔梗を避ける風習は今でも残っているとのことでした。若い人たちにそれがどの程度伝わっているかは分かりませんがね。


ということで
関東には平将門の伝説が数多くありますが、そのひとつをご紹介させて頂きました。


<只上神社遠望>
Tadakari-Shrine-Forest.JPG
渡良瀬川の堤防から撮影しました。

<渡良瀬川>わたらせがわ
Tadakari-Hachimangawara.JPG
太田市と足利市の間を流れる渡良瀬川です。この付近(鹿島橋より上流)の河原を八幡川原と呼ぶそうです。只上神社が八幡宮と呼ばれていたことのなごりですね。平将門と藤原秀郷の戦いが行われた川原とも言われています。

以上です。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。

■訪問:只上神社
[群馬県太田市只上町]1706


お城巡りランキング
タグ:群馬
posted by Isuke at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2023年06月02日

将門の子が砦を築いたのが始まりという伝説(久留里城)

君津市公式ホームページでこんな記載を見つけました。
『久留里城の起源については「平安時代中期の猛将平将門の三男、東少輔頼胤が初めてこの地に砦を構えた」と伝えられていますが、確証はなく伝説と考えられています。』 
[『』内は原文/読み:東少輔頼胤(とうのしょうゆうよりたね)]

<久留里城跡>くるりじょう
Twitter-Isuke230531-Kururijo.jpg

あの平将門の子が砦を築いたと聞くと、とても興味深い話ですね。この伝説の詳細は省略しますが、大筋では、将門には三人の息子がいて、そのうち三男は東少輔と称し、夢枕にお告げあったことから久留里に砦を築いたというものです。そのまま三代続いたものの、同族である千葉氏との争いに敗れて、久留里を去ることになった。そういう伝説です。

現在の千葉県を中心に勢力を誇った千葉氏の祖は、一般的には将門の叔父の平良文(たいらのよしふみ)とされています。伝説と切り離しても、平将門は千葉氏や同族の相馬氏とは因縁浅からずという印象です。伝説はあくまで伝説ととらえるのが妥当なのかもしれませんが、なかなかスパッと割り切れません。

<久留里城天守>
Kururijo-castle-tower.JPG

妥当な見解からこぼれ落ちてしまうようなもの。そこにこそ、趣味の醍醐味があるのかもしれません。将門に関する伝説は関東に数多く残っていますが、ここ久留里城にも残っている。せっかく訪問したので、それを否定することはなしということにします。

拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:久留里城
[千葉県君津市久留里]字内山

■出典及び参考
・Wikipedia:2023/6/2
・君津市公式ホームページ

https://www.city.kimitsu.lg.jp/site/kanko/491.html


お城巡りランキング
タグ:千葉
posted by Isuke at 20:50| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2023年05月10日

小田原市にある新田義貞の首塚

小田原市にある新田義貞の首塚を訪ねました。

<新田義貞首塚>
Nittayoshisada-Kubizuka-Odawaracity.JPG
こちらになります。

<首塚の碑>
nittayoshisada-kubizuka.JPG
お隣の石碑は比較的新しいですね。立派です

それにしても
新田義貞と言えば本拠は群馬、討ち死にしたのは北陸です。なんで小田原に?

<首塚跡入口付近>
Grave-Nitta-Yoshisada's-head.JPG
設置されている説明板によれば、足利尊氏に敗れた新田義貞の首級を、家臣が故郷の上州へ持ち帰ろうとしたものの、この地で身動きがとれなくなり、やむなく埋葬したということになります。

ちょっと私の要約は雑なので、詳しく知りたい方のために転記させて頂きます。『』内は原文です。

<説明文>
Grave-Nitta-Yoshisada's-head-Guide-Plate.JPG
『建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中延元3年(1338)越前国(福井県)藤島で討死し、 足利尊氏によってその首級を晒されていた。義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主大久保氏の先祖)は 主君義貞の晒首を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。 そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で没したと伝えられている。
 その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし、近年地元有志によって 復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。なお北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。』


この付近は網一色村(あみいしきむら)と呼ばれていたようですね。東側を流れる酒匂川(さかわがわ)まできたところで、宇都宮泰藤は力尽き、奪い返した主君の首を埋葬し、自らもこの地で没したようです。

Nitta-Yoshisada-Kubizuka.JPG

新田義貞の為に奮闘したこの宇都宮泰藤という武将が、徳川家康家臣で小田原藩主となる大久保氏の先祖というところに、浅からぬ因縁を感じるとともに、若干ですが複雑な思いもします。更に、徳川氏の祖が、源氏の嫡流新田氏とされていることとも頭をよぎります。ちょっと考え過ぎですかね?


ここ小田原だけではなく、新田義貞の首塚と呼ばれている場所は他に複数あります。大切なことは、それぞれの場所で、新田義貞に思いを馳せる人たちが今もいることだと思っています。

nittayoshisada-kubizuka-Odawara.JPG
鎌倉幕府討滅の中心人物となった新田義貞に、思いを馳せることができる場所です。

■訪問:新田義貞首塚
[神奈川県小田原市東町]4丁目

■参考及び出典
現地説明板
「新田義貞の首塚」



お城巡りランキング
タグ:神奈川
posted by Isuke at 21:35| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2023年04月23日

布陣した家康が日々参詣した神社(小田原市)山王神社

北条征伐のために小田原城の東側に布陣した徳川家康が、足しげく通ったと伝わる神社を訪ねました。

<山王神社>
shrine-gate-odawara-sannou.JPG
odawara-sannoushrine.JPG
小田原市の山王神社です

<御由緒>
shrine-odawara-sannou-Guide-Plate.JPG
詳細が記されていますので、以下に転記させて頂きます。

『明応四年(一四九五)二月北條早雲は、小田原城主大森藤頼を破り、小田原城を手中に治め、相模国を平定した。
その頃の山王神社は北條家の郭内で山王曲輪と称へ、海辺なる袖の池ノ南袖ヶ藪にありしが暴浪のため、その地崩壊せしかば、慶長十八年(一六一三)九月十八日現地に移せりと。
旧社地に星月夜ノ井戸ありしより、一に星月夜ノ社とも称ふ。其の井戸も移して現地にあり。天正十八年小田原陣のとき、徳川家康は日々参詣ありし由、又旧領主大久保氏の祈願所にして元禄中再建の用材は領主永世寄進の証状ありしと。
寛永元年(一六二四)四月四日江戸初期の朱子学者林羅山は山王神社境内にて星月夜の詩を詠む。その詩にもある如く、当時の山王神社は星月夜ノ社といわれ、小田原の名所なりしと、井戸も再現いたし、地底より湧き出る水面に浮ぶ大空の星映る往昔の姿こそ誰が神秘といわんや。この歴史ある社と共に、星月夜ノ井戸を史跡として長く後世に伝えん。』


家康が布陣した天正十八年(1590年)頃の山王神社は、現在よりもう少し海側に位置していたようです。

<境内の地図>
Odawara-sannoushrine-Guide-Plate.JPG
境内に「旧山王原村の図(及び綱一色村)」と題した地図が掲示されていました。山王原村は西の山王川、東の酒匂川(さかわがわ)に挟まれた海沿いの村だったわけですね。山王神社は山王川沿いです。

<地図拡大>
Odawara-sannoushrine-Guide-Map.JPG
山王神社付近を拡大、そして加筆させて頂きました。現在の山王神社(赤丸)の道を挟んだ南側(緑の丸)が旧山王神社の敷地であることが記されています。移転したといっても、すぐ近くです。今より河口に近かったわけですね。
ちょっと細かいことに拘ると、説明文には『山王神社は北條家の郭内で山王曲輪と称え』とありますから、本来は小田原城の一部だったことになります。いくら近くに布陣しているからといって、敵の城内に参拝できたのか?まぁやや疑問ながらも、その付近はいわゆる総構えの外側になるので、戦況によっては家康が足を運ぶことも可能だったのかもしれません。


<山王川河口>
Odawara-Sannou-River-Estuary.JPG
向かって右手のあの付近でしょうか。

由緒によれば、旧社地には「星月夜ノ井戸」と呼ばれる井戸があり、山王神社は星月夜ノ社とも呼ばれていたとのこと。素敵な響きですね。深い意味があるのかもしれませんが、夜空に浮かぶ星や月が水面に映って見える井戸…とシンプルに受け止めることにします。家康も井戸の水面を見つめたのでしょうか?

<境内の井戸>
shrine-well-odawarasannou.JPG
移転とともに、星月夜ノ井戸も山王神社の境内に移されています

shrine-odawara-sannou-jinja.JPG
山王神社は小田原合戦の頃とは場所が多少異なるものの、戦の最中の家康が参拝した神社であることは間違いありません。戦の勝利を祈ったと伝わりますが、それだけでしょうか?きっと他にもいろんな願いがあったことでしょうね。

■訪問:
浜町山王神社

(別名:星月夜の社)
[神奈川県小田原市浜町]4丁目

■参考及び出典
現地説明板
・山王神社御由緒
・旧山王原村の図



お城巡りランキング
タグ:神奈川
posted by Isuke at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2023年04月22日

徳川家康陣地跡の碑(小田原市)

徳川家康が小田原城を攻める秀吉軍として布陣した場所を訪ねました。

<徳川家康陣地跡>
Tokugawaieyasu-Jinba-stone-monument.JPG
こちらです。

<説明板>
Tokugawa-Ieyasu-Jinchiato.JPG
Tokugawaieyasu-Jinchiato-Guide-Plate.JPG
小田原市教育委員会さんによる説明板が設置されています。せっかくですので、一部を下記に転記させて頂きます(『』内は原文のままです)。

まず冒頭
『この記念碑は、天正十八年(一五九〇)の小田原戦役の際、徳川家康が陣を張った跡に建設されたものです。
碑文は、小田原城主大久保忠真の作で、藩士岡田左太夫光雄に書かせ、天保七年(一八三六)九月十七日建立しました。』

とのこと。

小田原の大久保家の歴史は、家康に仕えた三河武士大久保忠世から始まります(藩祖)忠真は江戸時代後期の小田原藩主で、藩政改革を実施した中興の名君と言われています。藩士の名は初耳ですが、小田原藩屈指の書家とか、あるいは教養のある人物なのでしょう(ここは個人的な推測です)


以下説明文の続きです
『徳川家康は、この戦役に豊臣方の先鋒として、約三万人の兵を率いて出陣し、兵を三方に分けて箱根を越えました。三島から宮城野を経て、明星岳を越え久野諏訪原に出た軍と、鷹ノ巣城(箱根町)を陥れて湯坂を越えた軍、そして足柄城(南足柄市)、新荘城(山北町)を陥れ、足柄越えした別の軍とが合流し、小田原城の東方のこの地に布陣しました。』

北条討伐に乗り出した豊臣軍配下で、徳川軍3万は主力の一部を担っていました。文中にある進軍ルートで、山中城鷹ノ巣城足柄城などを落とています。三方に分かれていた徳川軍は小田原城の東側に集結し、大軍による包囲網に加わります。その一方で、徳川軍は別働隊を派遣して、北から関東に入った前田利家ら北国軍に加勢するなど、豊臣軍に大きく貢献しました。

<今井権現神社>
Tokugawaieyasu-Jinchiato-Torii.JPG
家康がここに陣を張ったことが縁で、江戸初期に東照宮が創建されたと伝わります。実際に陣を張った当時、ここは柳川和泉守泰久の宅地で、徳川軍の滞在は北条氏が降服するまで約110日も続いたそうです。柳川氏は地元(当時の地名は今井)の豪族と思われます。

<徳川家康陣地跡の碑>
Tokugawaieyasu-Jinba-stonemonument.JPG
説明板によれば、碑の全体の高さは335p、碑石そのものは255pとのこと。厚みもあり、立派な石碑です。

<陣城跡?>
Tokugawaieyasu-Jinba-Odawara.JPG
陣の周りには堀があったとも伝わりますが、現在は確認することができません。


秀吉率いる大軍は小田原城を包囲したものの、睨み合いが続く状態が長く続きました。そんななか、攻め手として小田原城の一角に攻め込めたのは徳川軍だけなのです。家康はここでも豊臣軍に貢献しました。
ただ、敵である北条氏とはもともと同盟関係であり、第5代当主・北条氏直には娘・督姫を嫁がせています。つまり敵方の当主の義理の父です。また、当主の叔父(前当主・氏政の弟)である北条氏規(うじのり)とは、今川氏の人質時代をともに過ごした仲です。


どのような思いで
北条氏の降伏を待っていたのでしょうね

Imai-Jinba-Ato-Odawara.JPG
つわものどもが夢の跡

■訪問:徳川家康陣地跡の碑
  (今井陣場跡)
[神奈川県小田原市寿町]4丁目

■参考及び出典
現地説明板
(小田原市教育委員会)



-----------( 補 足 )-----------
私は徒歩で現地へ向かいましたが、箱根登山バスの今井バス停から徒歩1分です。
Tokugawaieyasu-Jinba-bus-station-Imai.JPG



お城巡りランキング
タグ:神奈川
posted by Isuke at 21:31| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地
検索
記事ランキング
[アクセスランキング]
  1. 1. 上杉謙信の軍旗 毘沙門天と懸かり乱れ龍
  2. 2. 関東の連れ小便・政宗白装束の舞台 (石垣山城)
  3. 3. 高遠城のなごり
  4. 4. 刑場近くの橋のなごり 泪橋と思川
  5. 5. 空に吸われし十五の心 (不来方のお城)
  6. 6. 群馬県庁の土塁 前橋城のなごり
  7. 7. 長谷堂古戦場 秋の訪問記
  8. 8. 火の玉不動 大宮宿の水路と刑場のなごり
  9. 9. 金沢城のなごり
  10. 10. 高岡城のなごり
  11. 11. 井上城のなごり(筑西市)北朝軍武将高師冬の本陣址
  12. 12. 犬戻り猿戻り(高天神城)横田甚五郎が抜け去った尾根道
写真ギャラリー
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
Isukeさんの画像
Isuke
もともとは無趣味の仕事人間。土日は家でゴロゴロ。本ブログは、そんな男が急に城跡巡りに目覚め、てくてくと歩き始めた記録です。
プロフィール
X (Twitter) Twitter-Isuke.JPG Isuke@shirononagori
最新記事

お城巡りランキングに参加中 [参加させて頂いた雑誌]

アクティブライフ・シリーズ009 クルマで行く 山城さんぽ 100【電子書籍】[ 交通タイムス社 ]

[当サイトお勧め本]

小説 上杉鷹山 全一冊 (集英社文庫(日本)) [ 童門 冬二 ]


感想(39件)