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2023年09月23日

お彼岸に造立された卒塔婆(永和の板碑)山形城で出家した斯波兼頼のなごり

最上義光の菩提寺として訪問した山形市の光禅寺で、「永和の板碑」と紹介されている板碑を目にしました。

<永和の板碑>えいわのいたび
Flat-stone-monument-Amida-Buddha.JPG
こちらです。ここは墓所ですので、どなたかの墓石と思って近寄りましたが、説明板を見て板碑だとわかりました。

<説明板>
Guide-plate-Eiwanoitabi.JPG
板碑と聞くと、もう少し平べったい板状の石を想像してしまいますが、板碑で間違いないわけですね。説明文を下記に転記させて頂きます(『』内は原文のままです)。

『碑面上部に阿弥陀如来の種子(梵字)キリークと、無量寿経四十八願の一節を刻み、この卒塔婆建立の意趣と造立の年号を、永和二年丙辰八月彼岸第二番と刻んでおります。』

なるほど…と言いたいところですが、ちょっと分かったような分からないような?
まず、阿弥陀如来を表す文字と、仏教の大切な教えの一部が刻まれていることは確かなようです。そして、この板碑は永和2年、干支は「ひのえたつ」の年のお彼岸に建立された。元号と干支は良いとして、彼岸第二番?お彼岸の2日目と受け止めて良いものでしょうか(雑ですみません)。

後半は以下の通りです

『明治二十九年山形城跡が連隊となり、地均し工事に二の丸跡より発掘されたもので、永和二年(一三七六)は最上の始祖、斯波兼頼公が城内に草庵を結んで出家した翌年あたります。』

なるほど
読み替えると、最上家始祖の斯波兼頼は1375年に山形城内に草庵を設けて出家しており、その翌年の年号が刻まれた板碑が、軍の連隊が城跡に駐屯した時の工事で発見されたということです。

個人的な感覚になりますが、板碑は供養塔、あるいは何かの節目に記念碑的な意味で設けられるイメージが強いです。羽州探題としての役割を終えて、嫡男に家督を譲った斯波兼頼が、出家する区切りとして板碑を造ったのだろう。現地ではそんなイメージで納得しました。

ただブログにまとめるにあたり、改めて考え直すと、阿弥陀如来を記した板碑の意味は、もっともっと仏教的な意味合が濃いものであるような気もします。お彼岸の重みも、今とは異なるような気がします。無信教に等しい私の感覚など、とても及ばない深い思いがそこにあるのではないかと。

斯波兼頼は城内に草庵を結んだ4年後にこの世を去ります。現地説明文はそこまで言及していませんが、人々を救う仏が記された板碑は、出家した兼頼が仏門に徹したなごりなのかもしれませんね。

<有形文化財>
Flat-stone-monument-Amida-Nyorai.JPG
山形市指定有形文化財に指定されています。

■訪問:永和二年阿弥陀板碑
(光禅寺墓所)
[山形県山形市鉄砲町] 2-5-7


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■参考及び出典
現地説明板

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2023年09月21日

悲運の大器・最上義康の供養塔(山形市)義光山常念寺

出羽の虎将・最上義光の嫡男・義康の菩提寺を訪ねました。

<常念寺>じょうねんじ
Yamagata-Jonenji-Gate.JPG
山形市三日町の常念寺です

<最上義康供養塔>
Mogami-Yoshiyasu-Memorialtower-Jonenji.JPG
こちらが最上義康の供養塔です。背景に映っている墓所は少し加工させて頂きました。
供養塔は比較的新しいです。最上義康四百年忌として2002年(平成14年)に建立されたとのこと。境内奥ではなく、門を通ってすぐのところにあるのも納得です。

<最上義光公嫡男>
Mogami-Yoshiyasu-Kuyoto.JPG
義康は山形城主最上義光の嫡男として生まれました。父は豪快にして人情味もある出羽の猛将として有名ですが、実は子である義康も文武に優れた人物で、父に従って各地を転戦し、武功をあげています。

「北の関ケ原」ともよばれる慶長出羽合戦では、危機に陥った最上家を代表して、伊達政宗のもとへ向かい、援軍を要請しています。また、領内に侵攻していた上杉軍が関ケ原の勝敗を聞いて撤退を始めると、庄内地方へ進軍する最上軍の総大将を任されています。最上義光から如何に信頼されていたか伝わってくるようですね。

そんな有能な嫡男が
なぜ若くして亡くなったのか…

戦ならともかく、巨大化した最上家の跡継ぎ問題に起因する家臣間の不仲父と子の関係悪化が、義康を死に追いやることになりました。あまりにもドロドロした話なのでここでのご紹介は省略させて頂きますが、結果としては、江戸で家康の近侍として仕えていた次男が跡継ぎとなり、嫡男の家督相続は実現しませんでした。そして、高野山での出家を命じられた義康は、僅かな手勢で移動する途上「何者か」の命を受けた一団に襲撃されました。傷を負い、その場で無念の自害を遂げますが実質は暗殺です。

1603年9月21日(慶長8年8月16日)没
28歳という若さでした。


では
この「何者か」は誰なのか?
諸説あります。

まず、不仲の父・最上義光が首謀者という説があります。また、義康が最上家当主となることを嫌っていた家臣・里見民部の図り事という説もあります。

前述の通り、最上義康は若い頃からその能力を発揮し、父のサポート役を担いました。つまり、もともとは良好な親子関係だったのです。若者の成長過程で、父と対立することは、あまり珍しいことではありません。まして、気性が激しい同志です。表向き不仲となっても、もっと大きな意味での信頼や期待があったのではないでしょうか。

最上義光は、義康が死に至った経緯を家臣に調べさせます。危険を察した里見民部は山形を去りますが、義光の手の者により粛清されました。里見民部は最上義光のもとで活躍した武将でしたが、どこで歯車が狂ったのでしょうか。歴史にもしもは禁句ですが、最上家が急速に大大名にならなかったら、身内の争いもここまで大事にならなかったのかもしれませんね。

そうなった経緯については、不明な点が多いままです。

ただ、最上義光は義康の遺品となった日記に、父の武運祈願が記されていることを知り、泪したと伝わります。家臣に命じ、亡くなってしまった嫡男を手厚く葬りました。


<義光山常念寺>ぎこうざん
Gikouzanjonenji.JPG
最上義光本人の名が山号になっています

<常念寺本堂>
Gikouzan-Jonenji.JPG
最上家の当主になるはずった武将の菩提寺です。

■訪問:義光山 常念寺
[山形県山形市三日町]2丁目


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■参考
・境内説明文(常念寺縁起)
・Wikipedia:2023/9/21
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2023年09月09日

三貫清水(さいたま市)道灌が立ち寄った大宮台地の湧水地

今回は室町時代の武将・太田道灌ゆかりの清水の話です。

<三貫清水の碑>さんがんしみず
Sanganshimizu-Stone-Monument.JPG
三貫清水の碑と記されています。道灌のどんな言い伝えがあるのでしょうか

<三貫清水の由来>
Sanganshimizu-Ryokuchi-Explanation-board.JPG
現地に説明板が設置されています。要約させて頂くと、太田道灌がこの辺りに狩りに来た時に、里の人がこの地に湧き出る清水を汲んで茶をたててだしたところ、とてもうまいと言って三貫文の褒美を授けたことが名の由来のようです。鷹狩りの途中に立ち寄ったのでしょうね。

<大宮台地の湧水地>
Sanganshimizu-Kamakurakaido.JPG
この付近は大宮台地の湧水地。この画像だと、左手は大宮台地の斜面、道を挟んで右手は鴨川沿いの低湿地となります。

<台地下の湧水>
Sanganshimizu-Ryokuchi-Saitama.JPG
台地から溢れ出る水でたてたお茶が、道灌の喉を潤したわけですね

<三貫清水のプレート>
Sanganshimizu-Monument.JPG
こちらのプレートにも名の由来が記されていました

<人工の水路>
Sanganshimizu-Ryokuchi-Saitamz.JPG
記録的な猛暑が続く夏の訪問だったので枯れていますが、綺麗な湧き水に満たされている時もあるようです。背後の台地上には鎌倉街道が通っています。

<鎌倉街道跡>
Kamakurakaido-Kitaku-Saitamashi.JPG
こんな感じです。道灌も通った道?ですかね


ところで
茶のお礼に三貫文の褒美ということですが、そもそも三貫がどの程度のおカネなのか見当がつきません。道灌の時代まで遡る以前に、江戸時代ですら三貫の価値の見当がつきません。

はっきりしていることは
一貫は一文銭1000枚ということ

じゃ一文銭の価値は…?

真田家の家紋として知られる六文銭、三途の川の渡り賃ですね、これが300円前後という(個人的)記憶を背景に計算すると、三貫は15万円くらいでしょうか?

正直わかりません。

ただ「このお茶は美味しいなぁ」と言って渡すおカネから、一般人が普通に想像できるような金額ではなさそうです。かなり高額な褒美と思った方が良さそうですね。

Sangan-shimizu.JPG

江戸城の築城者として知られる太田道灌は、文武両道の名将で、その活躍により主である扇谷上杉家の勢力拡大に大きく貢献しました。しかし、その才能を恐れた主に暗殺されるという悲劇の武将でもあります。そんな道灌を慕ってか、関東にはゆかりの地がたくさんあります。ここ三貫清水緑地もそのひとつということですね。

■訪問:三貫清水緑地
[埼玉県さいたま市北区奈良町]

■参考及び出典
・Wikipedia:2023/9/9
・さいたま市HP 
  北区プロフィール>歴史>
 「北区の歴史、伝統と文化」

https://www.city.saitama.jp/kita/001/003/001/p019515.html


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タグ:埼玉
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2023年09月03日

利水事業で貢献した米沢藩士ゆかりの地(高国寺)黒井忠寄墓所

近藤勇墓所として訪問させて頂いた米沢市の高国寺で、こんな説明を読むことになりました。

<黒井半四郎忠寄の墓> ただより
Kokokuji-Yonezawa.JPG
黒井半四郎とは…

米沢市と米沢観光協会による『黒井半四郎忠寄の墓』と題した説明です。抜粋させて頂きながらご紹介させて頂きます(『』内は原文の転記です)。

まずは黒井半四郎忠寄について
こちらによれば『和算家』つまり算術に優れ、『鷹山公の第一次藩政改革期には勘定頭として、第二次(寛三の改革)には中の間年寄として財政再建に貢献した』人物とのこと。

上杉鷹山の藩政改革に大きく貢献した人物ということですね。鷹山ファンでありながら、そんな重要な家臣の名を知りませんでした。中級家臣でありながら、破産寸前の藩の財務を任されるのですから、鷹山やその側近からよほど信頼されていたのでしょう。

そして
『寛政年間、灌漑事業として北條郷三十か村に用水路をめぐらすことを進言し、自ら測量設計して延べ三〇q余の水路を造成した』とあります。

提案するだけでなく、自分でやったということですね。実務の裏付けが伝わってきて魅力的です。算術は財務だけではなく、測量にも活かされていたようです。米沢を流れる松川の水を、30qにも及ぶ水路を築くことで雨不足に悩む北条郷に還元。農村の復興を重視した鷹山の期待に応える仕事です。会社に例えるなら、経理部長のあとに土木部長をやったようなもの。凄い人です。功績が認められ、水路は黒井堰と命名されました。

更に『飯豊山に導水路を穿つ穴堰の工事に着手』とあります。山に、いわばトンネルの水路を造ろうとしたわけですね。ただ黒井忠寄は同年に没してしまいます。工事は続行され、19年後に完成したとありますので、当時としてはかなり厳しい工事だったことが伝わってきます。

以上です。大変勉強になりました。

<高国寺>
yonozawa-kokokuji-kondisamibosho.JPG
鷹山を具体的な仕事で支えた黒井忠寄、通称半四郎が眠っている寺です。蒲生氏郷開基という由緒ある寺で、近藤勇の墓所でもあります。訪問できて良かったです。

■訪問:高国寺
[山形県米沢市鍛冶町]4586

■参考及び出典
・Wikipedia:2023/9/3
・現地説明板
(米沢市/米沢観光協会)



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-----------( 追 記 )-----------
<鍛冶町>かじまち
yonezawa-kaji-machi.JPG
高国寺は現在の住所だと米沢市鍛冶町。かつての鍛冶職人の町ですね。

<松川>まつかわ
Yonazawa-Sansaku-Matsukawa.JPG
こちらは高国寺訪問後に松川橋から撮影した松川。米沢市内では松川と呼ばれていますが、最上川のことです。文中の黒井堰は画像のずっとずっと奥、米沢の北部に位置します。当ブログでは水路なども取り上げているのに、いまに残る黒井堰を見られなかったことが心残りです。

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2023年08月26日

近藤勇ゆかりの地(米沢市)高国寺

近藤勇の墓所が米沢市にもあると聞いて訪問してみました。

<高国寺>
yonozawa-kokokuji-kondisamibosho.JPG
鍛冶町の高国寺さんです

<誠・近藤勇>
Yonazawa-Kondoisami.JPG
幟が立ててあるので一目でわかりました

<境内>
yonozawa-kondisami-bosho.JPG
当ブログ、墓石そのものはなるべく掲載を避けているので気持ち遠くから。左手中央の幟が立ててある区画が近藤勇墓所です。雰囲気だけは伝わると思います

それにしても
どうしてここ米沢に?

<説明板>
yonozawa-kondisamibosho-Explanation-board.JPG
いとこの近藤金太郎が首を米沢へ持ち帰ったとのこと。板橋で処刑された勇の首をひそかに持ち去り、火葬したあと、ここ高国寺に埋葬したと記されています。


一般的には、近藤勇の遺体は東本願寺が預かり、埋葬したとされます。ただ、同志などが奪還して埋葬したという説もあり、近藤勇の墓と呼ばれる場所は全国に複数あります。

私が実際に訪問したことがあるのはJR板橋駅前の墓所。近藤勇が処刑された場所のすぐ近くで、新選組の永倉新八により建立された墓所です。他にも東京都三鷹市、福島県会津若松市、愛知県岡崎市にも存在します。

そしてここ米沢にも

どこが墓所かという議論より、それぞれにいまでも訪れる人がいて、近藤勇に思いを馳せるということに価値があるのだと思っています。そういう意味で、板橋に続き、旅先のここ米沢でまたお会いできたことに感謝したいと思います。

■訪問:近藤勇墓所
( 高国寺 )
[山形県米沢市鍛冶町]4586

■参考
現地説明板(高国寺)


----------( 追 記 )----------
当ブログでは板橋の墓所について過去に投稿しています。よかったら覗いてみて下さい。
■投稿:2018年03月25日
■タイトル:『最後の武士と桜 近藤勇墓所
    (クリックで記事に移動します)


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2023年08月20日

米沢市にある曽我兄弟を祀る神社(神達明神)

なぜか米沢市にある曾我兄弟を祀る神社の話です。訪問した場所は、直江兼続の実家である樋口氏ゆかりの地でもあります。

<神達明神>かみだちみょうじん
Yonezawa-kamidachi-jinja.JPG
こちらです

<説明板>
Yonezawa-kamidachijinja-Explanation-board.JPG
詳細が記されています。引用させて頂きます。まず、この神社の『祭神は仇討で有名な、曽我十郎祐成・曽我五郎時到』とあります。曽我兄弟の仇討?父を暗殺した工藤祐経を兄弟が殺害した話ですね。2022年の大河ドラマ・鎌倉殿の13人でも取り上げられていました。源頼朝が富士山の麓で大規模な狩を行った時に起きた事件です。それはそれとして、何で米沢の地に祀られているのでしょうか。

説明の続きによれば『直江兼続が景勝に従い上洛した折、富士山麓の社から曽我兄弟の木像を譲り受け、実父・樋口兼豊が守る越後の直峰城に社を創建』したことが始まりのようです。

上杉景勝と直江兼続の上洛というと、どうしても徳川家康への謝罪を思い出してしまいますが、それは関ケ原の戦いの後の話。上杉の本国が越後の時の話のようなので、違いますね。豊臣秀吉に謁見するために京へ上った時でしょうか?(不明)

直峰城は春日山城の重要な支城です。兼続の父である樋口惣右衛門が守っていたようですね。この神社はそこから始まるようです。
やがて『上杉家の移封に伴い米沢に移り、樋口家屋敷に隣接するこの地に祀った』とのこと。この付近に樋口家屋敷もあったということですね。あと『神達明神の名は、樋口一族が越後上田の庄で領した神立村(新潟県湯沢町)の神立明神に由来』とのことです。

<扁額>
Yonezawa-kamidachijinja-Soga.JPG
曽我は読めますが…明神でしょうか?(力不足で分からず)


Yonezawa-kamidachi-shrine.JPG
社殿は大正6年の米沢大火後に再建したものとのことです

ということで
米沢市にある曽我兄弟を祀る神社のお話でした。


直江兼続が曽我兄弟の木像を譲り受けた理由までは分かりません。語り継がれる仇討の逸話が、兼続の心の琴線に触れるものだったのかもしれませんね。

■訪問:神達明神
[山形県米沢市城北]1-5

■参考及び出典
現地説明板(米沢市)



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2023年08月15日

興譲館設立に尽力した儒者(米沢市)神保綱忠の菩提寺

(興譲館の追記です)

米沢の藩校興譲館について調べているうちに、かなり前にお邪魔させて頂いた寺院のことを思い出しました。

<田澤山乗善寺>じょうぜんじ
JinboRanshitsu-Bodai-ji.JPG
米沢市中央3丁目の乗善寺さんで撮影しました。山号は田澤山。浄土真宗の寺院です。こちらは興譲館設立に尽力した米沢藩家臣・神保綱忠の菩提寺です。

<神保蘭室の墓説明>らんしつ
JinboRanshitsu-Explanation.JPG
現地に『神保蘭室の墓』と題した説明板が設置されていました。『米沢藩の儒者で、藩校興譲館の督学(総長)となった神保綱忠の墓。蘭室は号である。』と記されています。

続きを要約させて頂くと、神保綱忠(蘭室)は幼い頃から学問に優れ、米沢の藩医だった藁科松伯のもとで学びを深め、上杉鷹山の学友にも選ばれているそうです。鷹山が生涯師と仰ぐ細井平洲の門人となり、藩校興譲館創設の際には提学(校長)に命じられたとあります。

いま風に言えば初代校長先生ということですかね。そして学校の総長にもなった。

ちなみに
最初の総長は莅戸(のぞき)善政だったようです。莅戸善政といえば、竹俣当綱らと共に鷹山の抜擢人事によって活躍の場を与えられ、藩政改革に挑んだ人物。今では鷹山とともに松岬神社に祀られています。

神保綱忠について
説明文には『政治参与も兼務し藩政にも尽力』とあります。藩校設立だけでなく、幅広い領域で藩主である鷹山に信用されていたようです。更に、説明の最後には、細井『平洲の高弟として名声は広まり、全国の著名な儒学者と親交し、数多の門人を指導した』と記されています。

米沢藩だけでなく、儒者として全国に影響を及ぼしたわけですね。

ということで
興譲館設立に尽力した神保綱忠(蘭室)とその菩提寺のご紹介でした。

最後に
文中の『』内は説明板の原文のままです。また、使用した画像はかなり古く、2010年頃のものです。あまり高級ではない当時のデジカメで撮影しました。

以上です。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:田澤山 乗善寺
[山形県米沢市中央]3丁目

■参考及び出典
・Wikipedia:2023/8/15
・現地説明板(米沢市)
 2010年頃の説明文



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2023年07月09日

徳川四天王・本多忠勝ゆかりの地(大多喜城)

徳川四天王・本多忠勝が入城した城跡を訪ねました。

<大多喜城>おおたきじょう
Otaki-castle.JPG
千葉県大多喜町の山城です。こちらは専用駐車場から続くなだらかな坂道。道沿いに紫色の幟が沢山掲げられていました。

<幟>
Banner-Honda-Tadakatsu.JPG
「本多忠勝・忠朝」を大河ドラマに!

本多忠勝は好きな戦国武将のひとりですから、まぁ賛成です。私の訪問は2023年の春ですので、NHK大河ドラマは『どうする家康』。徳川四天王のひとりである本多忠勝は当然登場し、かなり重要な役どころとなってはいますが、あくまでわき役です。57回の戦闘で「かすり傷ひとつ負わなかった」とか名槍「トンボ切り」なとなど、魅力満載の戦国武将ですが、知らない人は知らないし、大河で1年間主役というのは、かなり手の凝った演出が必要かもしれません。
忠朝は忠勝の次男で、第2代の大多喜藩主です。忠勝・忠朝親子をドラマ化するとなると、これはもう大多喜の物語ということになりますかね。

1590年の小田原征伐で関東覇者の北条氏が滅亡すると、代わって関東に入った徳川家康は、側近中の側近である本多忠勝を大多喜城に入城させました。里見氏をけん制するためですね。1601年に伊勢国の桑名城に移るまでの約10年間、大多喜城は本多忠勝の居城でした。次の城主は父親同様の猛将として知られる忠朝です。1614年に里見氏が改易となった時には、館山城破却の役割を担いました。ただ、大坂夏の陣で毛利勝永軍に正面から突入し、34歳の若さで亡くなりました。

<堀跡>
Otaki-castle-Horiato.JPG
中世に築かれた大多喜城は、本多忠勝が城主の時に近世城郭に生まれ変わりました。

<模擬天守>
Otaki-Castle-Tower.JPG
本丸跡には天守をイメージした博物館(千葉県立中央博物館大多喜城分館)が建てられています。3層4階の立派な造りです。私の訪問時は施設改修のため休館中で、貴重な収蔵品を直接見ることはできませんでしたが、展示物の一部が敷地内の別の建物(研修館)に移されていたため、ありがたく見学させて頂きました。

<研修館入口>
kenshyukan.JPG

<内部の様子>
Otakijo-Exhibit.JPG
「大多喜城と城下町」をテーマにした各種パネルや、実物そっくりの甲冑などが展示されていました。

<本多忠勝像をアップで撮影>
Honda-Tadakatsu.JPG
かすり傷ひとつ負わなかった…


本多忠勝は、平和な時代になるとやや出番がなくなってしまいますが、大多喜城主だったのは1590〜1601年ですので、まだまだ戦乱の世の真っただ中。幾多の戦場で経験を積んだ40代で、指揮官としては現役バリバリの頃です。この時に本多忠勝が与えられた10万石は、家康の家臣団では井伊直政の12万石(高崎)に次いで第2位。家康からいかに大切にされていたか、また、いかにその後の活躍も期待されていたかが伝わってくるようですね。

Honda-Tadakatsu-Castle.JPG
大多喜は本多忠勝が初代藩主となった場所です

■訪問:大多喜城跡
[千葉県夷隅郡大多喜町大多喜]1丁目

■参考及び出典
・千葉県立中央博物館小冊子
・現地説明板(研修館内)
・Wikipedia:2023/7/9



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2023年06月10日

伏見稲荷魚津大社 河田長親ゆかりの神社

魚津城跡を訪問する途上で、鮮やかな鳥居に足が止まりました。

<伏見稲荷魚津大社>
fushimiinariuozu.JPG
名の通り伏見稲荷の分霊を祀った神社です。朱色の鳥居と社殿がひときわ目をひきます。詳細不明ながら、上杉謙信に重用された武将・河田豊前守長親が建立したと伝えられています。

河田長親は、謙信の関東での抗争においては、厩橋城(前橋城)・沼田城といった重要拠点の城代を任された武将です。ここ越中では魚津城を預かり、一向一揆との戦いにおいて現地の指揮官として奮闘しました。苦戦を強いられながらも、松倉城の城主にもなっています。謙信の亡きあとは上杉景勝を支援し、織田信長の越中侵攻を食い止めるべく奮闘しました。

fushimiinari-uozutaishya.JPG
魚津城を預かった河田長親の思いから始まる神社です。もともとは城の東側の丘に祀られていましたが、戦国時代の戦火で社殿は焼失したそうです。江戸時代に再建され、いまに至るようです。

■訪問:伏見稲荷魚津大社
[富山県魚津市新宿]7


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武士の鎧の袖を片しきて(魚津城本丸跡)上杉謙信の歌碑

魚津城本丸跡には上杉謙信の歌碑があります。

<上杉謙信の歌碑>
Uesugi-Kenshin-Monument-Uozujo.JPG
こちらです。

<説明板>
Uesugi-Kenshin-Phrase-Explanationboard.JPG
説明板が設置されています。こちらによれば『天正初年(一五七三年)上杉謙信が越後の精兵を引き連れて越中へ侵入し魚津城外にたむろした時の歌』とのこと。謙信の越中出兵は、この数年前から始まっていましたが、粘り強い抵抗に悩まされ続けていました。そんな謙信が、なかなか制圧しきれない異国の地、魚津城の近くで詠んだ歌が刻まれているわけですね。

つづいて『時は初秋、過雁一声 鎧のまま野伏した謙信が思わず旅愁をそそられてこの一句を口ずさんだものと思われる句詩』とあります。過雁は飛び去っていくガンということですから、秋の気配とその鳴き声に、感じるものがあったのでしょう。

武士の
鎧の袖を片しきて
枕に近き
初雁の声
 

もののふの
よろいのそでをかたしきて
まくらにちかき
はつかりのこえ


鎧の袖は、肩や腕を保護するあの楯状の武具のことですね。普通は両肩に付けますので、その片方を下にして、つまり武具をつけたまま横になって野宿していたのでしょう。そんな時に、秋の訪れを告げる鳥の鳴き声が聞こえてきた

句の解釈として正しいのかどうか分かりませんが、謙信のその時の思いが、少しだけわかるような気がしました。謙信はやがて越中を平定することになりますが、その途上での句ということですね。

Uesugi-Kenshin-Waka-Monument.JPG

■訪問:上杉謙信の歌碑
(大町幼稚園敷地内)
[富山県魚津市本町]1

■参考及び出典
現地説明板
(魚津市教育委員会)



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